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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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開いた扉をいつ閉じるのか

奈良で買ったパン

三人に共通しているのは、「オープンマインド」ということである。
いつもにこにこしている。
これは「たまたまそういう人だった」ということではない。
この方々は、人間は「理解しがたいこと」を受け容れ理解しようと願い、それを受け容れるために脳の容量を押し広げているときに脳の情報処理能力が最高速になることを体験的にも理論的にも熟知しているからである。
「心を開く」ときに、脳の演算能力は向上し、「心を閉ざす」ときに、脳の機能は劣化する。
怒ったり、憎んだり、嫉妬したりしているときに知性の機能が上がるということはない。

via: 河合塾でお話 (内田樹の研究室)

Kさんから話を伺っていて、ぼくの欠点を認識できた。それを内田樹先生がエントリーで表現してくださっていた。まさに、

自分と意見の違う人の頭の中ではどういう推論がなされているのかを想像的に追体験してみる

via: 河合塾でお話 (内田樹の研究室)

が、欠落している。ぼくはこのプロセスを体験していないから、他者との会話不全に陥っているんだな。理解できた。意識して行動しよう。追体験しよう。

lose flesh

琵琶湖

先日、2,3年ぶりにお会いした方々から痩せたと指摘された。本人は自覚しているつもりだったけど、どうやらそうでもないみたいだ。というのも、被写体が自分の写真を現像してみて驚いた。構えた姿じゃなく他人としゃべっている姿だったので、これが「日常」だろうと仮定した。すると、自分が抱いている自分の全身像と写真の像に差異があった。微小な差異。

今年の話だと思うけど、ある方から「小さくなった」と言われた。その時は、「えぇ−」としか返せなかった。あとから「人間がですか?」と尋ねたら気が利いていたのにと悔しがったけど。なるほど、「小さい」とは言い得て妙だ。得心。

僕は、自分の姿を「もう少し厚みがある」と認識していた。一度、そう固定すると、鏡を見ているようで見ていないのだ、とわかった。実際は、薄くなっていた。この場合、薄くなっていたというのは、「引き締まった」のニュアンスを含まない。まるでカンナで削り取られたような感じ。

鏡を見ているようで見ていないと書いたけど、それは身体だけでなく、顔もあてはまる。これも先日の話、自分の顔を鏡で見ていて、「ええ、オレ、こんなにシミがあったかいなぁ」と鏡の自分へ話しかけた。びっくりした。シミを承知していたけど、シミの数というか、顔とシミのバランスがおかしいというか、とにかく違和感だらけだった。

これも身体と同じ。自分が想定している顔と鏡に映った顔に差異があった。差異と表現するのはおこがましいか。まぁ、錯覚。見ているようで見ていない。そういった発見、否、馬鹿な気づきが妙に多くなった。

[Review]: チーム・バチスタの栄光

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)

ベストセラーなんて読まない、特にコレは読まないって決めていたのに。ちょっと興味本位で『チーム・バチスタの栄光(上)』『チーム・バチスタの栄光(下)』手にとってしまった意志の弱さ。ペラペラめくるやいなや、レジへ直行して布団のなか3時間ほどで読了。ナニも書きません。ただただひたすら読みましたとだけ。ネタバレするし。

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[Review]: 合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論

合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論 (朝日新書 64)

持病の腰が悲鳴をあげている。二週間ほどまえから痛みがましてきた。どうやら今までと違うみたい。今回はてごわい。ただここ数年、持病とのつき合い方がかわってきた。脳のシワのエントリーで紹介したように「全体」を意識するようになってきた。つまり、「腰」だけでなく、全体のバランスが何かおかしいのだろうと。もちろん専門医の先生方からすれば笑止千万。それでも自分の身体の悲鳴に耳をかたむけると部位ではなく全体に目がいくようになった。仕方がない。

そんな矢先、先週読み終えた 『合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論』 に興味深い一節に手が止まった。関心のある箇所を瞬時に読み分けたみたい。これがヒトの能力かと妙な気分。

違うよ、内田先生、あなたの右膝は性能が良すぎるの。あなたの体のなかでいちばん優秀な部位だから、ここで身体の全部の歪みを補正していたんです。全身の歪みを右膝ひとつで処理していたから、結果的にオーバーワークになって炎症を起こしているんだから、膝に感謝しなさい

『合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論 (朝日新書 64)』 内田 樹, 平尾 剛 P.176

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[Review]: コトの本質

コトの本質

考えるということと、「わかる」、あるいは「理解する」ということは、まったく違うことです。「考える」というのは、 外界からの情報が入ってきたとき、脳の中の神経細胞が発生して、どうつながるか、その具体的なつながり方に関わることです。脳の中のプロセスそのものです。自然科学者が「わかる」というのは、二元論と要素還元主義に基づいて外界が脳の中に投影され、関連するあらゆることがらがきちっと整理された状態の内部モデルできることです。それが”わかる”ということ。ですから、考えるということとわかるということは、全然違います。「納得する」はこのような意味での「わかる」とは、またまったく違うことです。読者の方が普通にわかった思い込んでいるすべての「わかる」が「納得する」に相当すると思えばいいでしょう。

『コトの本質』 P.181

では二元論と要素還元主義とは何か?

  • 二元論—–考えようとする自分と考える対象とを峻別する。
  • 要素還元主義—–考える対象を細分化し領域を狭める。

何かを考えるときに、「それを考えている自分って何だろう」と考えはじめると、「考えるプロセス」が堂々巡りしはじめる。17世紀の哲学者は、「何かについて考える私について問う< 私>をとりあえず棚上げしよう」と提唱した。それが二元論である。

考える自分を捨象し、考える対象を明確にしたとき、当然「考える対象」がある。しかし、その対象を「大きく」してしまえば、実際は考えようがない。考えようにも考えられない。「生命とは何か?」を考えているのは、考えているようで考えていない。もし、ほんとうに「生命」を考えたいのであれば、まずはその対象をどんどん狭めていき、対象を細かく絞り込む。

たとえば、生命から細胞へ絞る。細胞と一口にいっても多細胞の生物から単細胞まである。なのでさらに単細胞にしてみるとか、といった具合に狭める。

二元論と要素還元主義というふたつのルールに従って考察すると、このルールに従っている範囲内の人は共通の結果を持つ。つまり、私が考えても外国人AやBが考えても同じになる。言語・文化・歴史といった「共同幻想」に依存しない。

「二元論と要素還元主義」の意味を「納得」したとき、「どこから考えていいのわからない」というのは、実は「考える仕方」を知らないと私は「理解」した。つまり、「問題を設定できる力」を身につけていない。「どういう問題を解けばよいのか」を明確にしなければいつまでたっても考えられない。

地球をシステムと捉え「人間圏」を語る筆者の視点は、人間圏に棲み共同幻想を抱いている私を「コトの本質」の迷宮へといざなう。私が「人間圏」と「共同幻想」を突き抜けて外側から「コトを見る」ことはこの先もないだろう。それでも本書によって、「考える」と「わかる」を自分にずっと問いかけていきたいと再確認できた。なぜなら、人間圏の「コミュニケーション」の根っこに「考える」と「わかる」があると愚考しているから。

[Review]: 時間はどこで生まれるのか

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

無限は何を表すのか愚考していたとき手にとった。無限と時間をリンクさせ、「時間とはそもそも測定可能な物理的現象なのだろうか?」とさらなる愚考を重ねたのでAmazonで検索したところ本書がヒット。

「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間と、ミクロの世界における時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は、同一のものではない」

『時間はどこで生まれるのか』 P.19

古今東西、「時間論」は語り尽くされてきた。古くはアリストテレスの『自然学』、カントの『純粋理性批判』、そしてハイデガーは『存在と時間』のなかで、「時間性が人間(現存在)の存在論的意味だ」と結論づけた。なのに今になってなぜ「時間論」を語ろうとするのか?

筆者は、「目からウロコの落ちる時間論」に出会えていないからだと言う。その原因は、近代以降の哲学と科学の乖離にあると指摘する。

現代の哲学者が語る時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性を無視し、科学者による時間論は科学の枠から出てこない。今こそ現代物理学をふまえた哲学論的時間論を書いてみたいと切望し上梓した。

  • 第一章 なぜ今、時間論なのか
  • 第二章 相対論的時間と時間性
  • 第三章 量子論における時間の非実在性
  • 第四章 時間を逆行する反粒子
  • 第五章 マクロの世界を支配するエントロピーの法則
  • 第六章 主観的時間の創造
  • 第七章 時間の創造は宇宙の創造である

たとえば、「1秒」とは何を表すのか?

1秒や1時間は地球の自転公転をもとに決められている。1967年以降、1秒を以下のように厳密に定義している。

「一秒は、セシウム一三三原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の遷移に対応する放射の九一億九二六三万一七七〇周期の継続時間」

しかし、これは「役所の公文書」のようなもので、ミクロの世界ではどうかというと、まったく現実にそぐわない。そもそも、我々は技術的に上のように測定できる手段をもちえない。定義は定義であって、時間の測定そのものとは関係ない。

時間を「ある」か「ない」かと考察すれば、現代物理学を無視した哲学的考察に終始する。だから、本書は「どこから生まれるのか」という表題をかかげている。

冒頭の引用は筆者が提起した命題である。ここから時間論を出発させて真偽を検証する。この命題から導き出される結論を最終章で読んだとき驚いた。なぜなら私が持っている「過去・現在・未来」という一直線の時間軸を覆してくれたから。

「過去・現在・未来」が一直線上ではないななら一体何なのか?

そこには「実在」が何であるのかを私に突きつける刹那があり、「意思」があり、「自由」がある。

「時間の創造は宇宙の創造であり、われわれはそれに参画しているのだ」