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服が僕を着る

教師も看護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの<わたし>の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、じぶんは生徒や患者という他者たちの関係をもたなくても<わたし>でありうるという錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、<わたし>の経験から他者が遠のいていく。

『ちぐはぐな身体―ファッションって何?』 P.133

なんだか同じ服を着ている人に遭遇した気分。あの奇妙な気持ちは何だろう。どこからやってくるのか。街の中でばったりしたら、ばつが悪いかのような雰囲気。お互い知らないのに。だけど、小さじ一杯ぐらいの安堵がのっている。

自分の行動の意味を他者に知ってもらう。行動の意味が他者に及ぼす効果を、今度は自分が認識する。自分から放たれた意味は、他者へよりすがり、やがて自分へ帰ってくる。その認識が欠落すると、疲れるのかな、と思う。自分が自分から最も遠ざかる瞬間。「今、ここにいる」ことが、誰かにとって意味を持つと感じられるか。分岐点に立つ。

分岐点から「感じられない」方角へ歩いてしまう。それが、「こっそり」かってどきんとした。ほんと、こっそりだ。さらに忍び込んでくる。忍び込んでるよ、って誰かが助け船を出してくれないと気づかないかもしれない。でも、面と向かって口にしてもらう機会は少ない。面と向かって口にしてもらう機会が欲しい、だから、ダブダブの服や奇抜な服を着てみたくなる。「似合ってないってハッキリ言って」と無言で叫んで。

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最近、桜の木を見たことがあるか?

「最近、桜の木を見たことがあるか?」

「いいえ」

「そうなんだよな、花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは。だがそのあとも桜は生きている。今も濃い緑の葉を茂らせている。そして、あともう少しすると紅葉だ」

「紅葉?」

『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466

目に映っていない、あるいは見逃している。否、見えていない。見ようとしない。紅葉は美しい赤と黄で彩られる景色だ、という先入観。美が意識を誘惑し、沈んだ色を意識から奇麗に手際よく取りのぞく。意識は取りのぞかれたことを知覚しない。麻酔で微睡む間に脳を掬い取られたかのよう。遠くに望む美しい紅葉へ躰を近づける。一歩一歩。手に触れられるほど。一枚一枚の葉は、じっと見つめると汚れている。穴から空が見える。

皇子山公園の紅葉

一つ一つは汚れているのに全体になると美しい。錯覚かもしれない。不思議。だけど、沈んだ色をした葉桜の一枚一枚は、全体になっても認識されない。美しい全体のなかの一部となってしまって人々の目から隠れる。見ようとしない限り、見えない。

見えているものより見えていないもの。見る力をもたらす使者は想像と思考。目に映る範囲を広げる天使は行動。行動は躰を動かすだけじゃない。行動は頭の中にも存在する。

「そうなんだよな、みんな、桜が紅葉すると知らないんだよ」

「赤いの?」

「赤もあれば黄色もある。楓や銀杏ほど鮮やかでなく、沈んだような色をしている。だから目に映らず、みんな見逃しているのかもしれないが、しかし花見の頃を思い出してみろ。日本に桜の木がどれだけある。どれだけ見て、どれだけ誉め称えた。なのに花が散ったら完全に無視だ。色が汚いとけなすならまだしも、紅葉している事実すら知らない。ちょっとひどくないか。君も桜にそんな仕打ちをしている一人だ。[...]」

『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466-467

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そこどけそこどけ私が通る

自転車に乗っていると、日向と日陰が交互にやってくる。ここ数日、日向と日陰の温度差を肌で感じる。真夏なら、どちらも暑い、と口からもれる。 今は、暑いと思ったら、肌寒いのくり返し。せわしない。暑いと感じて、汗が滲み出る前にひんやりとする。`日向から日陰へ、あるいはその反対のグラデーションに巡り合うことはない(あたりまえか)。

琵琶湖の湖東側

あくまで主観的観測だけれど、自転車道同士が対向しようとするとき、上の世代の方ほど避けない(避けるそぶりを見せない)と感じる。今日も、50代ぐらいの男女と数人すれ違ったが、互いが中央を空けるように左右にそれたのは、クロスバイクに乗っている男性だけだった。

自転車のフレームから望む琵琶湖

今日だけに限らず、少し、被害妄想的に書くと、「私が通る」という人がいる。道路の中央を走って避けない。避けない人の中には、結構なスピードですれ違う年配の方もいらっしゃる。正直、怖い。と、そんなことを書こうと考えながら自転車に乗っていたら、角を曲がりかけたとき、ヒンヤリした。危ない危ない。

なぜ避けようとしないのかは、わからない。運動能力的な要素か、あるいはバランス感覚の問題かもしれない。だとしたら、僕がその歳になって自転車に乗っていないと、「ああ、あのときの疑問が解けた」と氷解しないだろう。

自分の影

反対に若い人は、左右に避けるか、スピードを落とす。ただ、最近、左右の判断がつかず、ハンドルがユラユラしてしまう機会が増えた。これは、僕の身体能力が著しく低下したからだと評価している。そう評価するから、慎重に乗るように心がけている。

身の回りのごくわずかな人の行動観察から敷衍することは愚かで危険だと自覚した上で非難すると、自分でコントロールできる範囲は、他人を前提にしないほうが得策だと思う。「自分がコントロールできる範囲」がどこからどこまでかという問題が問題だ、と認識しているけど、その範囲を吟味するかしないかは、雲泥万里と思う。

人の振り見て我が振り直せと言うけど、自分の影を見落とす方が怖い。ややもすれば、影がないかのよう。日陰に突入して影がなくなった安堵、日向に突然現れる自分の影。影に追いかけられ、追いかける。そして、影を忘れている。影はどこからやってくるのか。コントロールしたつもりでも、日陰に乱される。やだな、足元が映らない影なんて。

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隣の芋は青い?

今年も近江舞子いちご園へ行ってきた。晴天、半袖では少し寒いくらいだった。毎年、良い天気でめぐまれている(雨の日に行く人はいない)。近江舞子駅から見える景色が好きだ。小野駅を過ぎたころ、読書をやめて景色を眺めていた。和邇から近江舞子までの間、鎌倉に住まないならこのあたりに住むなと思った。「朝、目が覚めて窓を開けると、目の前に琵琶湖があったら、それだけで幸せやな」といつも感じる。鎌倉でも同じ気持ちだった。

近江舞子駅

近江舞子いちご園は、近江舞子駅から歩いて7,8分ほど。周りの景色を眺めてゆっくりと歩いた。

近江舞子いちご園の周辺

12時すぎに到着。芋掘りの場所を案内してもらった。毎年、掘る場所は違う。案内された株のすぐ隣では、4人家族が掘っていた。小学生の低学年と幼稚園ぐらいの姉妹が、すごく楽しそう。さっそく、袋から軍手とスコップを取り出した。ところが、掘り始めて妙な感じがした。なんとなく視線を感じる。(後で聞いたところでは)お隣のご両親が、こちらの芋掘りの様子を窺っていた。

隣のお父さんは大変そうだった。ハンディカムで撮影しながら芋掘り。姉妹たちが、芋の周りの土を丁寧に掘り、いざ、引き抜こうとしたとき、「まだ、あかん。電源が入ってない」とか、「引っこ抜くとき、声をかけてな」とか、「●●ちゃん、もっと土をかき出さなあかん」とか。その必死さに感銘を受けたのか、お母さんも、同じく、「●●ちゃん、芋がもっと見えるように掘らな、カメラで撮られへんから」とか、「お父さん、もう引っこ抜くよ、大丈夫?」とか。

そうやって娘たちを鼓舞しながら、ご両親は、こちらの芋掘りの様子を窺っていた(らしい)。大変だな。

R0010101.jpg

今年は、ものすごく大きな芋が3,4つ収穫できた。かと思えば、小ぶりもあった。全体として例年より大きめ。芋の大きさが毎年違うので楽しい(あたりまえか)。収穫した芋を持ち帰ってすぐにでも食べたい。それをぐっと我慢して、2,3週間から1ヶ月程度待つ。すると、ものすごく甘くなっていて、とてもおいしい。

近江舞子いちご園

収穫を終えて、小屋に戻ると、さっきの4人家族は、もういなかった。ベンチに座っておにぎりをほおばる。おいしかった。琵琶湖側から山側へ風が流れる。心地よい。ときおり風向きが変わると、肥料のにおいが鼻にやってくる。ベンチの前では、別の4人家族(こちらは兄弟)が、昼御飯を食べていた。食べ終えた頃、4人が一斉に席を外したので、何事かと走っていった方へ目をやったら、収穫したばかりの芋を焼いていた。それを、いちご園の人たちにもおすそ分けしていた。熱熱の焼き芋をほおばる兄弟。

近江舞子いえいご園

帰りの電車まで30分ほど時間があったので、畑を探索。すると、焼き芋の兄弟が、僕が持っていた南瓜風の物体に興味を示し、「それは何ですか?」と訊いてきた。「そこで拾ったけど、僕もわかりません」と答えた。子供たちが敬語で話しかけてくれたので、僕も敬語で答えた。やっぱり敬語っていいなと改めて感じた。距離を感じさせない敬語に堪能な人になりたいと思った。

毎年、近江舞子いちご園へやってくると、気づきがたくさんある。気づきがなくなったら、違うか、気づけなくなったら、足を運ばなくなるのだろう。そのときの自分は、自然と人工を峻別しているだろうし、そうなりたくないと願う。

焼き芋の子供たち

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食べないとバランス

二週間ほど前から身体が重いなと感じるようになった。毎日の体重測定をサボったからか。体重計に乗った。58.1キロ。やっぱり。ちょうどいい機会と思い、以前から試してみたかったことをはじめた。一日に食べる量を減らす。ダイエットは終わったので今度は実験みたいなノリ。テーマは食と消化とエネルギー。仮説は一日三食なんていらないと30品目なんてウソだろう、ってことで。思いついた理由は、消化はエネルギーを使うかもしれないから。

とりあえず、朝はご飯一杯とお味噌汁、または果物。昼はSOYJOY、または食べない。夜は野菜中心にご飯と一品(たぶん食べ過ぎのはず)。

はじめて二週間、感じられる変化は二つ。

  1. 眠たくなくなった
  2. 身体が軽くなった

身体がムリと感じたらガマンしない。食べる。結果、午後の眠気はなくなり、夜の睡眠は深くなった。軽くなったのは重さの変化じゃなく(そんなに減っていない)、感覚の程度。専門的に勉強したり知識を身につけようなんて意欲はまったくない。食べる理由と(消化時の)胃の負担に意識を向けるようにした。自分の身体が感じる程度(ということはいい加減の話)だけど消化って案外エネルギーを使っているかも、ひょっとして。あと30品目のバランスって人それぞれだな。ウソまで書くとウソになるから”それぞれ”にしておこう。

とにかく消化の負担を減らすように心がけたら、それに比例にして身体の調子が上向くのが現時点の結果。

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[Review]: チーム・バチスタの栄光

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599) (宝島社文庫 599)チーム・バチスタの栄光(下) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 600) (宝島社文庫 (600))

ベストセラーなんて読まない、特にコレは読まないって決めていたのに。ちょっと興味本位で『チーム・バチスタの栄光(上)』『チーム・バチスタの栄光(下)』手にとってしまった意志の弱さ。ペラペラめくるやいなや、レジへ直行して布団のなか3時間ほどで読了。ナニも書きません。ただただひたすら読みましたとだけ。ネタバレするし。

海堂尊先生や帚木蓬生先生などが書く医療小説。いままでの医療小説と違う新ジャンル。それは現場の医師が書く点。取材の限界を超えた現場が書く「描写」。そして、もうひとつ。現場の声。チーム・バチスタの栄光にも現在の医療現場が抱える「問題」が記されている。その問題は、「問題」にすら取り上げられていない。だから読めばぞっとする。

あとはロジカルモンスターの白鳥が最高。

もっとも印象に残った言葉。

すべての事象をありのままに見つめること。「厚生労働大臣官房秘書課付 技官 白鳥圭輔」

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減量の最中に感じたこと

ただいま減量中。身体って頭と切り離されているんだなぁと感心した。とりあえず56キロ程度まで落としたいなぁとスタートした(身長166cm)。参考にしたのはいつまでもデブと思うなよ(参照: 著者ブログ )。レビューを書いた次の日から実践。結果、開始時の体重62キロから現在59キロ。

減量といっても特別なことをしたわけじゃない。3つだけ。

  1. 毎日体重計にのる
  2. 毎日何を食べたか記録する
  3. 毎日の量を減らす

スゴイ単純。何かで読んだ記憶があるんだけど、「食べる」という行為は結構エネルギーを消費していて、なおかつ内蔵に負担をかけているって話。それを実感。食べたモノ”すべて”を毎日記録すると「食べ過ぎ」だよ。ホント。体重計にのると1日の基礎代謝が表示される。おおよそ1500キロカロリー弱。じゃぁ、1日どれぐらいのカロリーを摂取しているのか記録をもとに計算すると目を丸くする。

う、うわぁ〜うわぁ〜。ウワァ〜、エエエー。

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[Review]: 身体から革命を起こす

身体から革命を起こす (新潮文庫 こ 43-1)何がトレンドになるかわからない。社会現象にはその下地が蠢動しているものもある。それらの現象はティッピングポイントを超えると爆発的に感染する。それが、今の「身体」なのかもしれない。甲野善紀先生は内田樹先生の著書にたびたび登場する。身体の使い方そのものを研究している。スポーツ科学全盛の発想とは正反対に位置し、なかば常識となっている動きを否定する。

「私が研究してきたのは、剣術にも体術にも共通するような動きの原理、身体の使い方の原理ですから、スポーツにも応用できます。ただ、それは今日のスポーツの常識とはまったくちがった動きです。だからこそ現代のスポーツの常識では無理だと思いこまれてきたようなことを可能にするのです」『身体から革命を起こす』 P.14

この言葉どおり先生の動きを目の当たりにしたスポーツ関係者や武道家は目を丸くする。定説では説明のつかない動き。体幹部をねじらない、足で床を蹴らない、反動を利用しない、言い換えれば筋力を発揮させないといった説明を前にして専門家は腑に落ちない。現代のスポーツ科学は「いかに筋力を最大限に発揮するか」が前提。それでも野球、ラグビー、バスケットをはじめ医療関係者などそれぞれのプロフェッショナルが先生のもとにぞくぞくとやってくる。百聞は一見にしかず。

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[Review]: 合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論

合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論 [朝日新書064] (朝日新書 64) (朝日新書 64)持病の腰が悲鳴をあげている。二週間ほどまえから痛みがましてきた。どうやら今までと違うみたい。今回はてごわい。ただここ数年、持病とのつき合い方がかわってきた。脳のシワのエントリーで紹介したように「全体」を意識するようになってきた。つまり、「腰」だけでなく、全体のバランスが何かおかしいのだろうと。もちろん専門医の先生方からすれば笑止千万。それでも自分の身体の悲鳴に耳をかたむけると部位ではなく全体に目がいくようになった。仕方がない。

そんな矢先、先週読み終えた『合気道とラグビーを貫くもの次世代の身体論』に興味深い一節に手が止まった。関心のある箇所を瞬時に読み分けたみたい。これがヒトの能力かと妙な気分。

違うよ、内田先生、あなたの右膝は性能が良すぎるの。あなたの体のなかでいちばん優秀な部位だから、ここで身体の全部の歪みを補正していたんです。全身の歪みを右膝ひとつで処理していたから、結果的にオーバーワークになって炎症を起こしているんだから、膝に感謝しなさい P.176

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[Review]: じぶん・この不思議な存在

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)

「わたしってだれ?」「じぶんってなに?」と我に問うた。いつのころからこの問いを五臓六腑に置いたか。もうずいぶんむかし、覚えていない。きっかけが何だったかも忘れた。この問い、本書の冒頭にやってくる。

だれもがそういう爆弾のような問いを抱えている。爆弾のような、といったのは、この問いに囚われると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。あるいは、崩れるとまではいかないにしても、なにか二度と埋められないひびや亀裂が入ってしまいそうな気がするからだ。この問いには、問う者じしんをあやうくするところがある。『じぶん・この不思議な存在』P.14

「この問い、どこか立てかたがまちがっているということはないだろうか」と鷲田先生は疑問を投げてくる。この問いを立てたとき、しばし「じぶん探し」が次にやってくる。読み手の私は「じぶん探し」に首をかしげる。

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