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地球は何個?

lake biwa

地球と月の間に地球は何個入るのか。地球と太陽の間はどうか。そういった数はとても大事だ。その大きさと、そして空間の「疎」な様を、子供には是非教えたい。
「ここ」という場所が、奇跡的に存在することを、すべての基礎にすべきである。歴史を学んで戦争をする人はいても、物理学を理解して戦争をしたがる人はきっといないだろう。

『森博嗣の道具箱―The Spirits of Tools』 森 博嗣 P.74

琵琶湖の面積670.25km2, 湖岸線の延長235.20km, 貯水量275億m3。淡水湖の大きさとして世界129番目。約400万年前に誕生し三重県から北へ移動してきた。

ここはここ

fallen leaves

親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地については論じることは無意味である。行の目的地からの遠近によって「ここ」の意味が決まるのではない。「ここ」は「ここ」である。信仰者にとって、すべては「ここ」で生起し、「ここ」で終わる。「ここ」の意味を「ここ」以外の、「ここ」より相対的に上位の、相対的に超越的な「外部」とのかかわりで論じてはならない。

『日本辺境論』 内田 樹 P.167

僕の内から外へ基準を置いたとき「外部」が現れ安堵する。外部が思考と判断を司る。自分の位置を確認しなくてよい。代償は「ここ」を失うこと。

人の目を気にする

もう少し説明すると、「人の目を気にする」人間の大半は、「自分の周囲の少数の人の目を気にしている」だけである。そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)」による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけでなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。それが「客観」であり、「信念」になる。

『自由をつくる自在に生きる』 森 博嗣 P.55

コレを引用している時点で僕は人の目を気にしている。

あの観察を連想する

科学は自然を認識する学問であると、よくいわれる。自然を認識する第一歩といえば、それは観察である。よく自然を見ることから科学は始まる。ところが普通に観察というと、すぐ小学校や中学校などで、動物とか植物とかを観察するという、あの観察を連想する。そして物理学や化学のような学問は、もはや観察などの域をとっくに離れているように考えられがちである。[…]しかし観察ということは、非常に大切であって、このごろのように科学が進歩し、かつ専門家していても、やはり観察を無視することは’できない。単なる観察などでは、新しい知識の得られる余地がないように思うのは、まちがっているのである。

『科学の方法 (岩波新書 青版 (313))』 中谷 宇吉郎 P.122-123

「あの感想を連想する」僕は観察を理解していない。

百年、二百年の時間単位ではない

Ojiyama

地球という天体には、自分自身の環境を維持するためのシステムが機能している。二酸化炭素についてはいえば、それが大気中に増えすぎると、増加分は海に吸収され、最終的に大陸に固定される。地球史というタイムスケールでは、大気、海、海洋底、大陸、マントル間の物質循環という地球のメカニズムが働いて、自身の環境を一定の状態に保ってきたのだ(十章参照)。従って、たとえ大気中の二酸化炭素が二倍に増えても、地球の環境維持システムが働いて、いずれは元の状態に復するとも考えられる。ただそのタイムスケールは、少なくとも数万年、数十万年という単位であって、百年、二百年の人間の時間単位のなかで起こることではない。

『宇宙誌 (岩波現代文庫)』 松井 孝典 P.193

人智の及ばない時間をヒトが理解できる言語で記述する無駄がすごくステキ。その無駄が最も大切だと思う。

僅かなもの

生きてゆくのには、ほんの僅かなものがあれば足りる。なけなしの空間と、食物と、娯楽と、器具や道具。これはハンケチの中の人生だ。その代わり、そこには魂はたっぷりとある。そのことは、通りの賑わいにも日差しの強さにも、取るに足らぬ議論の激しさにも感じとられる。

『悲しき熱帯〈1〉』 レヴィ=ストロース P.236

夕方に訪ねるとよい

近江舞子

死に瀕した患者を前にしても平静な気分でいられる人びとにとっては、そんな無言のひとときは意義のあるコミュニケーションになりうる。患者とともに、窓の外の鳥のさえずりに耳を傾けるのでもよい。私たちがそばにいるだけで、患者は最後まで近くにいてくれるのだと確信する。重要なことの処理は済み、患者が永遠の眠りにつくのももう時間の問題であるのだから、何も言わなくてもかまわないと言うことを患者に知らせるだけでよい。それだけで患者は、もう何も話さなくてもひとりぼっちではないのだという確信を取り戻す。「やかましく」いろいろな言葉をかけるよりも、患者の手を握ったり、見つめたり、背中に枕を当ててやるほうが多くを語ることもある。

『死ぬ瞬間―死とその過程について』 エリザベス キューブラー・ロス 第五段階/受容 P.193-194

このコミュニケーションをしたければ夕方に訪れるとよい、との言葉。否認と孤立、怒り、取り引き、抑鬱、そして受容。共同幻想が終わるとき。