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あれ、何色? 青に見えます?

hydrangea

青青 いかにも青いさま。また、一面に青いさま。「ー(と)した麦畑」

『岩波国語辞典』 西尾 実 P.7

青青、青が二つ重なって未熟と未来が待ち構えているわ。色の表現はややこしいおまっせ。青青した麦畑って、あれ、青に見えます? 屁理屈とわかっていても理屈をこねたくなるねん。

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独立させないことで独立を維持する

琵琶湖

なるほど、個人の安全というものは、実に複雑に絡み合ったシステムの中でバランスが取られているのだ。人間を一人抹殺することは、自分の存続に重大な障害になるような仕組み、結局は、自分の利害や安全が、他人のそれらと関連することで成り立つようなネットワークが作られた。だからこそ、かろうじて守られている。独立させないことで、独立を維持するのだ。

『タカイ×タカイ』 森 博嗣 P.196

安全を意識するようになったと思う。

開いた扉をいつ閉じるのか

奈良で買ったパン

三人に共通しているのは、「オープンマインド」ということである。
いつもにこにこしている。
これは「たまたまそういう人だった」ということではない。
この方々は、人間は「理解しがたいこと」を受け容れ理解しようと願い、それを受け容れるために脳の容量を押し広げているときに脳の情報処理能力が最高速になることを体験的にも理論的にも熟知しているからである。
「心を開く」ときに、脳の演算能力は向上し、「心を閉ざす」ときに、脳の機能は劣化する。
怒ったり、憎んだり、嫉妬したりしているときに知性の機能が上がるということはない。

via: 河合塾でお話 (内田樹の研究室)

Kさんから話を伺っていて、ぼくの欠点を認識できた。それを内田樹先生がエントリーで表現してくださっていた。まさに、

自分と意見の違う人の頭の中ではどういう推論がなされているのかを想像的に追体験してみる

via: 河合塾でお話 (内田樹の研究室)

が、欠落している。ぼくはこのプロセスを体験していないから、他者との会話不全に陥っているんだな。理解できた。意識して行動しよう。追体験しよう。

Next Leadership

知識デザイン企業 P.211

創造には、「体験的認知」と「内省的認知」と共に必要である。

ところが、現代社会は「体験的モード」に過度に傾斜しているとノーマンは指摘する。たとえば「現在の多くの機械とその使い方がうまくいっていないのは、体験的状況に対して内省のためのツールを、内省的状況に対して体験ツールを与えてしまっていることによる」混乱があるというのである。

『知識デザイン企業』 紺野 登 P.165

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にこやかにしなやかに

ロベリア

私のしなければならないことは、私の心にかかることだけであって、人の思わくではない。[…..]この世では、世間の考えに従って生活することは容易であり、また孤独のとき自分自身の考えに従って生活することも容易である。しかし偉人とは群衆のただ中に在ってもいかにもにこやかに孤独のときの独立を保持し得る人のことである。

『精神について (エマソン名著選)』 ラルフ・ウォルドー エマソン P.48

馬鹿の詞と使途

皇子山球場の桜

仕事の上でなにか思いついても、近頃は自分のアイデアかどうか、自信が持てない。人に聞いたか、読んだかしたのだが、そのこと自体を忘れているのではなかろうか。いったん疑い出すと、そうに違いないような気もする。自分の意見を疑わずに持っている人を見ると、うらやましい。私の意見は、自分の意見か、他人の意見か。そこがどうもはっきりない。一応自分のものだと仮定するが、きちんと調べてみると、どこかで読んだものだとわかるかもしれない。

あまり本を読むと、馬鹿になるという話は、何度か読んだ。しかし、読むというのは、一種の中毒だから、どうにもならない。もう完全に馬鹿になったと思う。馬鹿になってしまえば、こっちのものである。あとの始末は、利口な人に、考えてもらうことにしようと思う。

“脳の中の過程―解剖の眼” 哲学文庫 養老孟司 P.234

バカではありません。馬鹿です。誤植ではありませんので念のため。バカの前の馬鹿を読まずにバカの後のバカを談じるのもあり。バカの前の馬鹿を読んで、バカの後のバカの見方を変えるもアリ。

僕は「バカ」の前の馬鹿を賞賛。というか、バカ: before Christ/ante Domineとでは論考が異なる。

どっちでもいいけど。とにかく、「剽窃」と「自分」を認識してかように書ける先生は素敵だ、と剽窃しかない大馬鹿な僕は羨望する。

[Review]: 臨床とことば

臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知

聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

“臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知” (河合 隼雄, 鷲田 清一) P.210

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