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駆ける蹴る充ちる

近江大橋

俺の精神よ、気をつけろ。過激な救いにくみするな、鍛錬を積む事だ。ーーーああ、科学は俺たちの眼にはまだるっこい。

ーーーだが、どうやら俺の心は眠っているようだ。

俺の精神が、この瞬間から絶えずはっきりと目覚めていてくれるものとしたら、俺たちはやがて真理に行き着くだろうに。

“地獄の季節 (岩波文庫)” (ランボオ) P.45

03/28、07:30西大津出発。GIOS PURE FLATで駆ける。西大津から近江大橋を渡って草津へ抜け、来た道を帰ってきた。朝の琵琶湖をはじめて走った。ゆったりと走る。思ったほど人はいない。喧噪はまだ目覚めていなかった。GIOSが空気を切り裂くと風の音が耳へ入ってくる。心地よく響く。スピードに合わせて空と風の音楽はリズミカル。

朝の琵琶湖に虜になった。これから暖かくなる。すごく楽しみ。曇り空から一筋の光が琵琶湖へ降りてくる。あぶない。見惚れてしまいそう。

鎌倉へ引っ越せたら、琵琶湖の朝と同じように魅せられるだろう。期待が膨らむ。まだ実現の足がかりもつかめていないのに、朝の鎌倉を蹴る自分の姿を空想する。

速度×時間。時間の流れとよどみ。朝は流れがゆったりでよどみは少ない。前からGIOSのPANTOがやってきた。空気が揺れる。あの人の時間はどんな感じだろう。ランナーが視界へ入り、後方へ消えてゆく。自転車とは異なる音。地面を蹴る音と鼓動。

充ちる。何が充ちたのか。それを感じるためにやみつきになる。

[Review]: プリンシプルのない日本

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

私個人としては昭和二十八年は嫌な年であった。然し国民の一員として考えると嫌なことはもっともっとふえる。もっともっと深刻なことが始まるだろう。生意気なことを言いやがったと方々でおこられるのを覚悟して言うが、この国をこんな破産状態に陥れたのも我々の時代だ。死ぬまでに我々の愛する子孫の負担がいくらかでも軽くなっている様に、ここでほんとに腰をいれてやろうではないか、現実を直視して。勇気と信念を似って。

『プリンシプルのない日本』 P.142

内田樹先生は「「こだわり」とか「プリンシプル」とかいうのは、あまりない方がいいとつねづね申し上げている」と書き(引越直前どたばたデイズ)、「原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている」とのこと(原則的であることについて)。

視座はどこか。それによって意味を理解する仕方が異なる、と思う。英語と日本語、いくら訳とはいえ、どのような文脈で使われるのかを僕は理解してないので、理解の仕様がない。両者の考想を受け入れられる。同じテーマを捉えるとき、生きる年代が変わると、視点や発想が違うのも興味深い。その中から普遍を自分で探し出していく。普遍を取り出して、それが妥当かどうかを自分の中で壊して練り上げる。そんなことをしていると一年なんてあっという間に過ぎていく。

自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。

via: 原則的であることについて (内田樹の研究室)

「ことに臨んでは無原則に対応する」人格と「ことに臨んでは原則に対応する」人格が共存できないか、と僕は暴れている。内田樹先生の仮定を是とするならば、「よくある向上心」を纏えているようだけど、「ブレークスルー」には至っていない。

自分を評価するとき、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」と一言で集約する。人と会い、何かを交わした時、「なぜそれなのか」を一人になったとき検証する。すると、「自分で基準をどうすれば破壊できるか」に拘泥しているけれど、「パターン」の思考をくり返している、と気づく。文字通り、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」がそう。原則だ。

「原則の妥当性を検証する」仕方がわからない。それが原因だろう。さりとて、それを発見できたとして、今度は、「原則の妥当性を検証する」が原則にならないのか、と思い巡らせる。

ここで躓きたくない。堂々巡りという安住の地に身を置き、言葉で戯れること。小難しく受け止めるつもりはない。自分の生活(僕はこれを経営と言うけど)に置き換える。半径数mで発生する事象を見る。見ているようで見えてない。イオンに行って客の苦情や改善案を掲示している板を読むと、無原則のようで、何かしらの原則が潜んでいるのではないか、と思う。そうかと思えばあきらめの感情を抱く。そんな些末なことに人は怒り、不愉快になるかと。

著者と内田樹先生、プリンシプルと原則を書く二人。どちらも内省を背負っている。僕が二人の中から見いだせた普遍はそれだ。それが妥当かどうか、これから検証しなくちゃいけない。ゆっくりと。時間を計算式から除外して。

絵を見ているのは誰だろう

もっと大きな視野で見ていただきたいんです。一歩下がって大きな絵全体を! 深い感動の瞬間はもう目前かもしれません。

ContactJodie Fosterが、スポンサーたちの前で力強く訴えた言葉。ジグソーパズルのようにはじめから絵を知っていても、ピースを探すのに苦労する。角度を変えると、鳥瞰や俯瞰という言葉もある。浪漫的に言えば、人生が終わったときに一枚の絵が完成する、とか、あるいは、人生が終わったときに未完の絵でもいいよ、誰かが見ていてくれさえすれば、なんてあると思います、と吟じてみたくなる。

どんな絵かわからないけど、一枚の絵を描こうとしている人がいる。だけど、その人が伝える言葉を受け手は誤解する(悲観的な意味じゃなく)、もしくは理解できない。受け手は、ピースを探している。自分の足元にころがっているピースを。「自分の足元にピースが落ちてました」とにっこり笑ってみんなの前で開陳する。そんな姿と遭遇して、絵を描く人が憤る。

「もっと大きな視野を持って欲しい」

兼六園

絵の全容が見えてこない。描く人の頭の中にだけある絵を覗きたくても難しい。描く人と見る人との間にある線。同じ平面に1本の線が引かれた。線は平面を切り裂いていない。それが救いだ。思うような絵を描けない人と思うようなピースを探せない人、両者は線を睨み、時間がたっていく。もどかしい。そのもどかしさを我慢できるかどうか。

絵を話し合う場所であって、絵の具の選び方を相談する場所じゃない。抱きしめなければならないのは一枚の絵。どんな一枚の絵を描くかを話し合うんだ。そこには好きも嫌いもない。ひたすら描きたい絵をぶつけ合う。

絵の具の選び方やスケッチの方法を学ぶことは大切だ。右顧左眄しつつも教室へ通う。教える方もとっつきやすいからあちこちで同じ教室を開く。

一枚の絵を描くための感性、感度、感情はどこにあるのだろう。自分が描きたい絵を見ているのは誰だろう。絵の具の選び方を教えてくれる人は僕の絵を見ていない。

[Reivew]: 感じるマネジメント

感じるマネジメント

日本では当時、ネットバブルが崩壊、米国同時多発テロの影響もあり株価が低迷していました。勝ち組、負け組といった二分論的論調が広がり、また、株主価値最大化の掛け声の下、従業員の解雇や工場の閉鎖といった「合理化」が盛んに行われていました。しかし、「合理的」とされる戦略や指針が、一方で多くの人々の心を傷つけ、企業の中での連帯感や目的意識といったものが急速に薄れていった時期でした。何のために、何を大切にといった「そもそも論」が希薄化していたのです。『感じるマネジメント』 リクルートHCソリューショングループ P.3-4

本書は2002年にさかのぼり、「そもそも論」を追求するところからはじまる。そもそも論とは、理念の浸透。自ら携わったデンソーを舞台に、小説のように「理念」をつづってゆく。理念から発せられる問い。

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[Reivew]: 待つということ

「待つ」ということ (角川選書)

あるひとつの道具が「待つ」を劇的に変容させた。携帯電話。国民の半分以上のひとが携帯電話を持つようになって、「待ち合わせ場所」がなくなった。待ち合わせ時間に遅れても気にしない。電話かメールで「遅れる」と伝えればよい。ひととひとの交信は空間の隔たりと時差をなくした。

未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。[…]結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。待つことは法外にむずかしくなった。「待たない社会」、そして「待てない社会」。

『「待つ」ということ』 鷲田 清一 P.10

手紙を書く。投函する。そして返事を待つ。その間、ひとは、

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