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[Review}: 無原則の原則 諦観の拘泥
- 2008-12-03 (Wed)
- Review
私個人としては昭和二十八年は嫌な年であった。然し国民の一員として考えると嫌なことはもっともっとふえる。もっともっと深刻なことが始まるだろう。生意気なことを言いやがったと方々でおこられるのを覚悟して言うが、この国をこんな破産状態に陥れたのも我々の時代だ。死ぬまでに我々の愛する子孫の負担がいくらかでも軽くなっている様に、ここでほんとに腰をいれてやろうではないか、現実を直視して。勇気と信念を似って。
『プリンシプルのない日本』 P.142
内田樹先生は「「こだわり」とか「プリンシプル」とかいうのは、あまりない方がいいとつねづね申し上げている」と書き(引越直前どたばたデイズ)、「原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている」とのこと(原則的であることについて)。
視座はどこか。それによって意味を理解する仕方が異なる、と思う。英語と日本語、いくら訳とはいえ、どのような文脈で使われるのかを僕は理解してないので、理解の仕様がない。両者の考想を受け入れられる。同じテーマを捉えるとき、生きる年代が変わると、視点や発想が違うのも興味深い。その中から普遍を自分で探し出していく。普遍を取り出して、それが妥当かどうかを自分の中で壊して練り上げる。そんなことをしていると一年なんてあっという間に過ぎていく。
自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。
「ことに臨んでは無原則に対応する」人格と「ことに臨んでは原則に対応する」人格が共存できないか、と僕は暴れている。内田樹先生の仮定を是とするならば、「よくある向上心」を纏えているようだけど、「ブレークスルー」には至っていない。
自分を評価するとき、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」と一言で集約する。人と会い、何かを交わした時、「なぜそれなのか」を一人になったとき検証する。すると、「自分で基準をどうすれば破壊できるか」に拘泥しているけれど、「パターン」の思考をくり返している、と気づく。文字通り、「自分の基準をどうすれば破壊できるか」がそう。原則だ。
「原則の妥当性を検証する」仕方がわからない。それが原因だろう。さりとて、それを発見できたとして、今度は、「原則の妥当性を検証する」が原則にならないのか、と思い巡らせる。
ここで躓きたくない。堂々巡りという安住の地に身を置き、言葉で戯れること。小難しく受け止めるつもりはない。自分の生活(僕はこれを経営と言うけど)に置き換える。半径数mで発生する事象を見る。見ているようで見えてない。イオンに行って客の苦情や改善案を掲示している板を読むと、無原則のようで、何かしらの原則が潜んでいるのではないか、と思う。そうかと思えばあきらめの感情を抱く。そんな些末なことに人は怒り、不愉快になるかと。
著者と内田樹先生、プリンシプルと原則を書く二人。どちらも内省を背負っている。僕が二人の中から見いだせた普遍はそれだ。それが妥当かどうか、これから検証しなくちゃいけない。ゆっくりと。時間を計算式から除外して。
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絵を見ているのは誰だろう
- 2008-11-11 (Tue)
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もっと大きな視野で見ていただきたいんです。一歩下がって大きな絵全体を! 深い感動の瞬間はもう目前かもしれません。
ContactでJodie Fosterが、スポンサーたちの前で力強く訴えた言葉。ジグソーパズルのようにはじめから絵を知っていても、ピースを探すのに苦労する。角度を変えると、鳥瞰や俯瞰という言葉もある。浪漫的に言えば、人生が終わったときに一枚の絵が完成する、とか、あるいは、人生が終わったときに未完の絵でもいいよ、誰かが見ていてくれさえすれば、なんてあると思います、と吟じてみたくなる。
どんな絵かわからないけど、一枚の絵を描こうとしている人がいる。だけど、その人が伝える言葉を受け手は誤解する(悲観的な意味じゃなく)、もしくは理解できない。受け手は、ピースを探している。自分の足元にころがっているピースを。「自分の足元にピースが落ちてました」とにっこり笑ってみんなの前で開陳する。そんな姿と遭遇して、絵を描く人が憤る。
「もっと大きな視野を持って欲しい」
絵の全容が見えてこない。描く人の頭の中にだけある絵を覗きたくても難しい。描く人と見る人との間にある線。同じ平面に1本の線が引かれた。線は平面を切り裂いていない。それが救いだ。思うような絵を描けない人と思うようなピースを探せない人、両者は線を睨み、時間がたっていく。もどかしい。そのもどかしさを我慢できるかどうか。
絵を話し合う場所であって、絵の具の選び方を相談する場所じゃない。抱きしめなければならないのは一枚の絵。どんな一枚の絵を描くかを話し合うんだ。そこには好きも嫌いもない。ひたすら描きたい絵をぶつけ合う。
絵の具の選び方やスケッチの方法を学ぶことは大切だ。右顧左眄しつつも教室へ通う。教える方もとっつきやすいからあちこちで同じ教室を開く。
一枚の絵を描くための感性、感度、感情はどこにあるのだろう。自分が描きたい絵を見ているのは誰だろう。絵の具の選び方を教えてくれる人は僕の絵を見ていない。
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[Reivew]: 感じるマネジメント
- 2007-07-17 (Tue)
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日本では当時、ネットバブルが崩壊、米国同時多発テロの影響もあり株価が低迷していました。勝ち組、負け組といった二分論的論調が広がり、また、株主価値最大化の掛け声の下、従業員の解雇や工場の閉鎖といった「合理化」が盛んに行われていました。しかし、「合理的」とされる戦略や指針が、一方で多くの人々の心を傷つけ、企業の中での連帯感や目的意識といったものが急速に薄れていった時期でした。何のために、何を大切にといった「そもそも論」が希薄化していたのです。『感じるマネジメント』P.3-4
本書は2002年にさかのぼり、「そもそも論」を追求するところからはじまる。そもそも論とは、理念の浸透。自ら携わったデンソーを舞台に、小説のように「理念」をつづってゆく。理念から発せられる問い。
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[Reivew]: 待つということ
- 2007-07-13 (Fri)
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あるひとつの道具が「待つ」を劇的に変容させた。携帯電話。国民の半分以上のひとが携帯電話を持つようになって、「待ち合わせ場所」がなくなった。待ち合わせ時間に遅れても気にしない。電話かメールで「遅れる」と伝えればよい。ひととひとの交信は空間の隔たりと時差をなくした。
未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。[...]結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。待つことは法外にむずかしくなった。「待たない社会」、そして「待てない社会」。『「待つ」ということ』 P.10
手紙を書く。投函する。そして返事を待つ。その間、ひとは、
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[Reivew]: ホスピタリティ
- 2007-05-21 (Mon)
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この間、ふれるについて書いてみたが、そのときに読んでいた『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』の最終章を深く入り込むように読んだ。最終章の表題はホモ・パティエンス。無学の私には初めて目にした言葉。
《ホモ・パティエンス》、苦しむひと。受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味をもつラテン語の動詞patiorからきていることばである。パッション (passion)も同じ語源からくる名詞だが、これには受動・受苦・受難という意味のほかに、情念の意味もある。同P.233
V・フランクルは、「ホモ・パティエンス」の論考のなかで「理性的な判断のひと」である前に「苦悩を引き受けるひと」であれと語っている。”ひと”は深いところで「受難(passion)」であり、「苦しむひと(homopatiens)」であるという。
この受動や受容がもつ力をネガティブに受け入れるのではなく、それがもつポジティブな力を人間がもつ本質的な力だと定義する。そこに「聴く」が存在する。”じぶん”というものを中心に置かない思考。
さらに思考は「ホスピタリティ」へとしなやかにのびていく。
そこでもう一度「ホスピタリティ」の概念である。「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される」。シェレールによれば、ホスピタリティとは、<客>を迎え入れる者をその同一性から逸脱させるものであった。同 P.236
見落としてはいけないこと、それは、<客>ではなく<客>を迎え入れる者という点。<客>をおのれに同化させるのではない。その反対、おのれ自身を何かの帰属へのこだわりから解き放ち、異他化させることにある。”われわれ”の掟よりも<客>の存在のほうが優位をしめる絆。
ホスピタリティーは、世界をじぶんのほうから視る、じぶんのほうへ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあることになる。わたしは自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは<わたし>になる。 同P.237
わたしが誰かを迎え入れるとき、ややもすれば、「迎え入れる」という響きのなかに何か特別な地位についた自分を錯覚する。それについて私は間違いとは言い切れない。そこまで私の思考は到達していない。しかし、その錯覚から己を解放させる受難を引き受けたとき、ある事実に気づいた。その気づきをもってして我が変容したと他者から映るようになった。
私が体験した事実が本書に記されている。
ホスピタリティこそが、個の存在のかけがえのなさ、つまりは特異性(=根源的な単数性 singularity) を支えるということになる。そしてこの迎え入れられた個のかけがえのなさが、迎える個のかけがえのなさを支えるということになる。同P.239
迎える側から迎え入れる側を見る。異他化していないと、すべて「同じ」に映る。自分は一生懸命他者に接していたつもりであっても、他者からすれば「one of them」にしか自分は映らなかった。そんな経験はないだろうか?
迎え入れられた者が承認されたと喜んだ姿にふれたとき、迎える側は安堵する。ところが迎える側は己の「個のかけがえなさ」を支える「何か」に気づいていない。皮肉なことに、迎える側と迎え入れられた側の構造の逆転が、じつは、迎える側の<わたし>を存在させてくれている。
ホスピタリティの語源はラテン語のhospes。そのhospesが「迎えられる者」と「迎える者」、「客」と「主」の両方を意味する。むかしからひとは「それ」に気づいていた。
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- 2007-03-15 (Thu)
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