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理解の外側の人は目の前にいつもいる

彼らは、どうして自分は自分の知っていることの重要性をオーバーレイトし、自分の知らないことの重要性をアンダーレイトするのか、その非対称の理由についておそらく一度も省察したことがない。

via: 知識についての知識について (内田樹の研究室)

火曜日、明日都浜大津トレーニングルームで2時間ほどすごした。自転車をこぐようなマシンからはじめて、ストレッチ、それからベルトコンベアの上を30分走って、下半身の筋肉をいじめる器具を使う。これでおおよそ1.5-2時間ぐらい。最初の頃は、器具を使うことに意識が集中したり、数値が気になったりしていた。この頃は、別にどうでもいいから淡々とこなす。むしろ、意識は、周囲の人へ浮気する。

わっぜ家のデザート

つい最近では、アンチエイジングな50歳ぐらいで胸と腕がムキムキだけどお腹は鍛えてないよと一目でわかる男性が気になった。僕が、トレーニングをはじめる前から入室していた。だけど、トレーニングしているようではない。と、思ったら、ほんの少しだけ胸と腕を鍛える器具を使っていた。と、思ったらすぐにウロウロしはじめる。その男性の近くには、僕と同世代か少し若い女性が、ひとりで鍛えていた。男性は、機を見て女性に話かけていた。妄想すると、2人はここで知り合って、話をする程度のお知り合いっぽい?!

女性のトレーニング方法を横から監視しては、コメントしているように聞こえる(さだかでない)。女性が、器具から器具へ移動すると、男性はストーキングしない。しばらく、スタッフの人と筋肉談義の話で盛り上げる。スタッフは、「へぇ」と「はぁ」と「なるほど」しか口にしていないようだった。僕がベルトコンベアの上で走りながら、目の前のメータに表示されたアイコン(カロリーを食べ物に換算)が、「ああ、やっとキャンディーから飲み物に変わった」と思ったぐらいに(短い時間です)、横目でチラリと男性を捜すと、女性の横にいた。

僕がベルトコンベアの上で走っている間、男性は、「女性の横とスタッフの筋肉談義」を繰り返していた。

わっぜ家のメッセージ

火曜日、10:30ぐらいにトレーニングルームに入ると、違う男性とはちあわせした。今度の男性は、両腕をまっすぐのばさず、肘から少し湾曲させて(上腕と脇の角度は20度ぐらい)肩をいかりっぽく歩いていた。逆三角形のシルエットをつくっているようだ。胸の筋肉がじゃまで両腕をまっすぐのばせないと訴えたいのかもしれない。だけど、後ろ姿の男性の腕と脇の間から、向こうの景色が。はっきりと見える。

ナイキの半袖シャツにナイキの短パン、頭には水泳帽のような黒のキャップをかぶっている。靴は赤のナイキ。なんだろ、ナイキの広報部の人だろうか。「形から入る」という単語を映像で記憶するには、もってこいだった。

僕が、ベルトコンベアの上で走っている間、男性は大きな鏡の前にいた。ストレッチをするのか、いや、ゴムボールの上にのるのか、それとも、床運動でもするのか思っていたら、身体をずっと眺めていた。そして、時々、胸と腕を鍛える器具に座っていた。

僕の理解の外側にいる人は、新聞やテレビのなかではなく、目の前にいつもいる。それに気づくかどうかだ、と思う。理解の外側に遭遇しても苛立たず、そのまま受け止めて、評価する。その気づきが、「自分が知っていること」は知の文脈の中でどのようなポジションを占めているのか、ということを認識させてくれる。

「この人の言うことなら信用ができる」という判断がくだせる人に出会うまでやはり大量の書き物を読み続けるしかない。
「自分が知っていること」は知の文脈の中でどのようなポジションを占めているのか。
「知識についての知識」を得るためのショートカットは存在しない。
そういうたいせつなことはグーグルで検索しても誰も教えてくれない。

via: 知識についての知識について (内田樹の研究室)

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単純であることの難しさ

整理整頓が苦手だ。対照的に机がちらかっていると、仕事がはかどらない人もいる。『佐藤可士和の超整理術』の写真を見ていると、異次元の世界だと自分の目に映る。混沌(都合のいい単語!)としている机では、何がどこにあるかを映像で記憶するようになる。だけど、拡散が閾値を超えると、探すのに数分かかる。それが数十分になったりすると手間になり、やがて重い腰を上げて、頭の映像と現実の滅茶滅茶のズレを修正する。

雑然とした机

昨日、そのズレを整理していたとき、メモ書きを見つけた。

Leonardo Da Vinci “Simplicity is the ultimate sophistication.”

「単純であることは、究極の洗練である」、明快だ。今年に入ってから、モノを捨てているような気がする。何を持つかより、何を持たないか。振り返って、捨てられるようなモノしか持っていなかったということだ。ホビーなら違う、と思う。あくまで身の回りのモノ。

馬齢を重ねることとリンクするのかもしれない。というのも、一、二年ほど前から管理できなくなってきたなぁと感じ始めた。もう何を持っているかすら覚えていなくて、捨てようとして、「おお、こんなモノを買っていたのか」と気づく。何で買ったのか思い出せないときもしばしば。だから、今は本当に必要かと自問するようになった。対象物を買って、それを使いこなしている姿を明確に描けるかどうか、と検討する。何度も書くけど、ホビーは違うだろう。どうしても手に入れたい、という気持ちがある、と想像する。

机のまわり

「単純であることは、究極の洗練である」ことの難しさ。それは、使いこなせること。自分の意識に問題がある。身近なガジェットで考えてみよう。僕は、Happy Hacking Keyboard Professional2 PD-KB400Wを使っている。シンプルなレイアウトに魅了されて買った。すばらしい。何一つ文句ない。でも、いまだに使いこなせていない。すべてのキーは両手で届く範囲にあるのに、手の動きが追いつかない。僕の動作が洗練されてない。

カメラはK10DとGR DIGITAL IIを使っている。K10Dのレンズは31mmと77mmと40mm。単焦点ばかり。ズームレンズを1本持っているけど、ほとんど使わない。ところが、こちらも使いこなせていない。単焦点を使いこなせていないというよりも、風景を切り取る視点を持っていない。「このカメラを買えばキレイに撮れます!」と宣伝されるカメラで撮影すると、たしかにキレイだ。だけど、何かが違う、とすぐに気づく。躍動感、アングル、立体感、光と影…..。閃き。視点。

HHK Professinal2

現在、ある歯科医院のプロジェクトに参加している。参加するにあたって、Wikiを用意した。Wikiにあらゆることをアウトプットしてほしいと提案した。問題、課題、成果、実践方法、ミーティングの内容、とにかく何でもいい。限られた人員で、限られた道具で、限れられた資金、そして何より限られた時間のなかで、単純であること、メソッドを使いこなせること、そしてすぐに実践できることを考えた。

「単純であることは、究極の認識である」ということを、プロジェクトで伝え続けていきたい。

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適正利益で事業を続ける

先日、歯科医院の院長先生と適正利益について話をした。歯科業界の業者が請求する金額に疑問を感じたから自分の分析を確認したかった。その翌日、引用記事を目にして驚いた。

住友化学では、蚊帳事業はもっぱら「社会貢献が目的」(米倉弘昌社長)と考えている。だが、主な購入先となっている国際機関からは、適正な利益は確保するよう要請されている。というのも、事業継続ができなければ、蚊帳の供給も止まってしまうからだ。

そのため、住友化学では「いったん上がった利益は学校建設などの形で、再度地域に還元することにしている」(米倉社長)という。

via: 米TIME誌も「世界一クール」と絶賛!アフリカで売れまくる住友化学の“蚊帳”(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

国際機関は適正な利益を確保するように要請していると書いてある。そのとおりだと思う。無償では困るのだ。なぜなら、無償の行為によって生じる赤字が事業を撤退させてしまえば現地の子供たちが困る。だから事業を存続できる程度の適正な利益を確保してほしいと訴える。至極もっともな話だ。

ところが、日本の現場では反対の現象が見受けられる(と思う)。「社会貢献が目的」の行為は無償が当然であって、ややもすればビジネスですら無償が当たり前と勘違いされている。相談が無償なのも首をかしげる。相談する人は自分の時間を消費していると同時に、相談される人の時間も消費している。相談される人は営業だからしょうがない面もあるだろう。だけど、法律(弁護士は含まれないのかな)や医療などの専門家へ相談する行為を無償だと誤解している。

市川園の価格は高いか安いか

大学を卒業して5年ほど税務関係の仕事に携わっていた。その経験をふまえて、法律や手続きなどでわからないことを知人や友人に相談しないよう気をつけている(一度、優秀な女性に社会保険の手続きを甘えてしまった)。相談するなら報酬料金をきちんと払うべきだと考えているし、自分で調べられる範囲なら税務署や社会保険事務所へ出向いて聞いている。

適正な利益に絶対基準はない。それは相対基準であって、他者が高いか安いかと判断する。たとえば文庫本や漫画の価格は安すぎる、と私は思うし、歯科の自費診療がどこも同じような価格に設定されている点を不思議に思う。だから、冒頭の歯科業界の業者が請求する金額には、それぞれの論理があっての価格だと考えるので、正しいや間違っていると言うつもりなんてない。それでも、必要とされなくなりつつある会社ほど、「ぼったくっている」と周りの人が口にするのはなぜだろう? そのあたりが興味深い。

市川園の梅ニンニク

写真は市川園の梅にんにく。この会社の商品を母親が年に2,3回届けてくれる。どれもおしいものばかり。今回、はじめて自分で注文してみた。梅にんにくは、「1日20粒までをめどに毎日食べてみて下さい。体感できます」と書かれてあって、続けてみたところ体感できた。だから注文した。市川園の価格は適正かどうか。「中にいる人(業者)」は何かしら意見を持っているはず。だけど、私は知りたいと思わないし、「市川園 評判」なんて検索する気もない。ただなくなったら困るな、とだけ思う(笑)

*価格と利益は違いますが、あえてごっちゃにして書いてみました。読む人が読めばつっこみどころ満載でしょう(笑)

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そのままで結構です

こんな書店があったらいいな。

  • 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
  • ベストセラーが平積みされていない
  • 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)

心臓を貫かれて

たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。

カバーと袋の有無を尋ねるように心がけている人とそうでない人の違いかと思う(身の回りのごくわずかな書店だけの話)。些細な違いだけど、何か大切な要素が含まれているようでついつい観察してしまう。その観察結果から推察した錯覚。

委託販売制が主流だから書店は場所を貸している。売れなければ返品すればいい(参照: 本の返品4割 ムダ減らせ 小学館、同一書籍で併用制 販売方法は店が選択 (1/2ページ) - MSN産経ニュース)。ベストセラーはどんどん平積みされ、過去の名作(メジャーという意味じゃなく)は書棚に並んでいない。ステレオ的なポップで目を引き、企画モノ(夏休みに読みたいシリーズや読書感想文とか)で名作(メジャーという意味)を買ってもらおうと頑張っている。それらを眺めると、本の「中身」を売っているのではなく、本を売っているのだなと納得。

どちらでもない

自分の身の回りに目をむけると、生活の大半がRSSみたいになっている。四方八方から飛び込んでくる情報を受けて、それを返す能力は伸びる。返す能力とは、「知っている」という状態。たくさんの情報を知っている。他方、目を養うことが疎かになっている。自分で問題を考えて、自分で探す力を失ってしまったようで怖い。

本屋は偶然の出会いがあるから素敵だ。ランダムな意識からシークエンスな状態へ自分を近づける。はじめから読みたい本があるのならAmazonで注文すればいい。と、かつては考えていた。少し立ち止まってみよう。そもそもなぜ読むのか。多読はうんざりだ。「はじめから読みたい本」と書いたけど、なぜ「はじめから読みたい本」と言えるのか。「知っている」という状態から開放されるには? RSSな生活から脱獄するには?

その一歩が「そのままで結構です」。自分から伝える言葉。

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こだわるに拘泥しない

先日、 天然染料のオーガニックコットンTシャツなどを作っている手染メ屋【京都】さんでTシャツを一枚買ってきた。次は白地のTシャツを購入して手染めを教えていただくつもり。お店で手染め講習を受けながら自分で染める。はじめてお店に伺い粗相をしてしまったけど、ご主人と奥様の応対に感銘を受けた。よいお店に出会えた。帰宅後、お礼のメールを書いた。

手染メ屋さんのTシャツ

こういうお店を紹介するとき、「こだわる」を頻用する。もうずいぶん前から指摘されている話。こだわるは「つまらないことに心がとらわれて、そのことに必要以上に気をつかう」という意味でマイナスの評価に使う単語。それが、「細かなことにまで気をつかって味覚などの価値を追求する」と意味が変わり、プラスの評価に用いられるようになった。年配の人に使うときは気をつけたほうがいいのかもしれない(とこだわっている)。

手染メ屋さんのTシャツ

天の邪鬼なので、「こだわる」を使わずに表現しようとこだわって、「拘泥する」を使ったりする。ところがで、「そういうところに拘泥すると」なんて言い回しを口にしたら、まれに相手は、鳩が豆鉄砲を食ったようになる。拘泥という漢字が思い浮かばないのかなと思い、そのままスルーする。漢字は絵画だと実感する瞬間。

この言葉ひとつとっても会話って難しい。書けば前後の文脈で理解してもらえるし、辞書を引けばおおよその意味は通じる。だけど、「こだわる」という単語を会話のなかで使うとき、発話する方は「マイナスの評価」で使ったとして、受け取る方は「プラスの評価」に受け取ることも想定できる。極端な会話かもしれないけど(笑)

誤解を回避するために今度は漢字を使うと、混乱を招き、事態はあにはからんや。

言葉に拘泥すると伝達の手段に使いにくくなるし制限されてしまう。かといって品のない言い回しは極力避けたいし、できれば最適な意味を選択できるような言葉にこだわりたい。アレ、なんだかよくわからなくなってきたのでおしまい。

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個人情報に敏感 天に鈍感

Googleのストリートビューがはじまった。前の里のマンションが丸見え。ネット界隈は賑やかになってきた。Googleもプライベートについて方針を説明(参照: 「ストリートビュー」のプライバシー問題、グーグルが方針説明)。ひょっとすると個人情報に敏感な人は天の観察に気づいていないかもしれない。

6月の下旬に市役所から書類が届いた。住民税が還付されるかもしれないよと書いてあった。文章を一読してなんのことかさっぱりわからない。計算式もまったくわからない。とにかく同封してある申告書にサインして提出するようにとのお達し。期限は7/1-7/31まで。サインして7月の初旬に市役所へ行って提出した。まさに「渡した」だけ。あれから音沙汰ナシ。

以下、一般論じゃなくて勝手に不思議に思っていること。

どうして「渡すだけ」の時間なんて必要なのだろう。社会保障番号みたいなユニークがふられて、それをネットワークで入力すればサーバー側で受信して、必要な情報をDBから読み取り、還付金額を計算して、そのままオンラインで銀行口座に振り込めばいい、と思う。申告も同様。インターネットがある時代に「足を運ぶ」理由がわからない。

事務手続きのうち、「判断しないでいい」行政サービスや「数値演算」の計算サービスは全部サーバーに委託すればいい。こう書くと”セキュリティー”という免罪符がたぶん与えられる。免罪符は、公務員の雇用を守ってくれる。たぶん10人分ぐらいの年収を払えば、クラックに対抗できるシステム管理者を雇用できるだろうし、数万人の年収と取引すればシステムも構築できる(と妄想している)。

別に公務員に限らず。ああこうすればいいなぁと思うことを想像していけば、私は必要とされないなぁと気づく。その恐怖が自分の糧だと思う。自己防衛は自己の頭脳の拡大と増強。それを怠れば必要とされなくなるのはやむを得ない。まったく役に立たない自分に気づくこと。それを認めること。

「インターネットからの手続き」が「足を運ぶ手続き」より不便になるなんて奇妙奇天烈なシステムができあがる。何かが起きたとき自分たちの責任にしたくないから。

もうひとつ。ユニークの番号をふるなんてもってのほかだと憤る人はいるだろう。監視社会やプライバシー侵害が躍り出る。不思議だ。今、天は人工衛星を打ち上げ住所を入力すれば自分の家の真上なんて丸見えだし、今度は360度眺められる。年賀状に記された個人情報をインターネットで入力すれば、どんなところに住んでいるのか一目瞭然。

ネットワークが分散化していてもシステムは中央集権化している。情報はあちこちに散らばっていてどこになにがあるのか自分ですら管理できない。戸籍、健康保険、年金、生命保険…..。個人のフェイルセーフを勘案すれば、ユニークが漏洩するリスクよりあちこちに点在しているほうが健全という意見も予測できる。その健全と引き替えに膨大な数の公務員を雇用しているのだから、「個人情報はイヤだけど公務員をやめさせろ」は筋が通りにくい。

個人情報に過敏になっていくけど神の視点に鈍感になる。ネットワークが発達すればするほど不便になる。そうやってバランスをとっているのかもしれない。

花と影

今日も影が美しい。毎日、影を眺めていると影も同じじゃない。光に表情があるなんて。嬉しくなってきた。

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何かのせい

夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER (講談社文庫)

たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15

「人のせいにしてはいけません」と子供のときに叱られた。「他人に迷惑をかけていけません」と子供のときに諭された。「謝りなさい」と子供のときに教えられた。大人の言葉は正しいのだろう。だけど「正しい」は世の移ろい。言葉の意味は認識する人によって変わる。「正しい」と発声した途端、言葉の内側に包まれる「正しい」は外側に広がる「わからない」を対象から隠す。内側と外側の境界に「間違っている」が囲っている。

「人のせいにしてはいけません」と言った大人は、「社会のせいにしていけません」と言わない(ゼロじゃない、断定調に自己陶酔)。それどころか「社会のせい」にしたがる人もいるぐらい。不思議だ。「人」と「社会」を使い分ける。社会は表象しづらいから制度に置き換えたり。制度も腑に落ちないなら公務員、政治家、官僚、経営者…..。集合の範囲を狭める。抽象から限定へ。限定はラベルにすぎない。「人のせいにしてはいけません」の人が構成する仕組みの名称だ。名称なら「せい」にできる。実害はない。

「正しい」の外側にある「わからない」を認識しようとしない。恐い。恐いから「何かのせい」にしたい。したいけど「人のせいにしてはいけません」という「正しい」がある。大人が「正しい」を言った。大人が言った「正しい」は彷徨い、すべての「正しい」が子供たちへふりそそぐ。そして大人は「正しい」を忘れる。自分が言った「正しい」だけを残して。

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必然の伝えると偶然の伝わる

考えていることを伝える。「それは”考える”ではない」と指摘されても。伝える手段はたくさんある。数多のなかから言葉を選択する。言葉は無限か有限か、今の私は知らない。その前に思考が無限か有限かも知らない。もっと前、「思考」をしたことがないと思う。極めて少ない己の語彙を取捨選択して伝える。伝えるは言葉を選択した者に訪れる必然。だけど伝わるのは偶然にすぎない。

伝えることを表現したとき、「伝える」とおりに「伝わる」機会はやってこない。いかように伝わっているかを知るよしもない。否、そもそも自分が発話した言葉が自分の耳に到着したとき愕然とする。「伝えることはそうじゃない」と。常に自分は遅れてやってくる。その自分に呆然とする。

Action is eloquence

必然の伝えると偶然の伝わるに拘泥したとき、我が身に訪れた。表現しているのは行為、それを言葉にした。煌びやかな逆説。

伝えると伝わるに存在する径庭。そこに伏流する言葉。そして最後に思考。最後にして原始の思考。

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本で我慢しようと思うのが間違い

M型ライカとレンズの図鑑 (エイムック (1340))う〜ん、実物を買えないもんだから思わず本で我慢。でも、コレって我慢にならないと実感。ヒトは「目に触れたモノを欲しがる」と言うけど、なるほど。本屋でパラパラめくる程度がちょうどいいかな。お昼にゲットして、ずっとなめ回すように眺めている。眺めれば眺めるほどヤバイ。ヤバイけどきちんと自制心が作動。自制心というよりもリアルな問題が歯止めをかけている。

だってボディとレンズで1本越えですから。新品ならですが。軽自動車買えますよ。傍目には狂気の沙汰。でも、傍目じゃない本人は狂気の沙汰に映らない。そんなもんだろうな。

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ライフハック系以上高度専門知識未満の知っている人々

知識の習得。そこは「わからない」のいらないところ。暗記、もしくは経験値。「知らない」から「知っている」への変換。昔は重宝された。いまは危うい。多少の知識やちょっとした専門知識は「あちら側」に置いてある。「あちら側」の知識が適切かどうかは保証されていない。その上、「あちら側」の知識を「こちら側」に適応するのは読み手。読解して実践しないといけなわけで。「あちら側」へのアクセス方法と「あちら側」を読解する気力、そられを備えていないとまだまだ難しい。とはいえ、たとえば、一昔前なら税務署や社会保険事務所、その他公的機関への届出なんて「知識」に入っていなかった。「専門知識」を持つ人々が代行していた。今もそうかな。ただし、時間を惜しまなければ、自分(=依頼主)で届けられるようになった。

「あちら側」は引き金を引いた。「知っている」人を無力化させてしまう。

「専門知識」を「知っている人」へ

無力化されるまでは「届出」=「代行」=「高度な専門知識」=「報酬」だった。無力化されたあと、「時間」=「報酬」になった。「手間暇を惜しまなければ自分でできるけどそんな時間がないから任せている」状態に。報酬が相対化された。「自分でもできるけどまかせているだけ(ほんとうはできないんだけどね)」と。そしたら、今までの報酬を「高い」と受け止める。

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