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間違った決断は1秒あればできてしまう

胡麻だれうどん

「データをインプットしました」

<私>から聞こえてきた。すべてを司る中心。支配と抑制の核。データをインプットする。可能性をシミュレートするために必要なデータ。否、データは必要ない。人間がシミュレートできうるデータは7歳までにスキャンしてしまった。その後、<私>以外のすべてのデータをインプットし続けている。

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罪悪感があるからこそ向上心が生まれ鍛錬できる

琵琶湖

戦略の本質は、存在を賭けた「義」の実現に向けて、コンテクストに応じた知的パフォーマンスを演ずる、自律分散的な賢慮型リーダーシップの体系を創造することである。

『戦略の本質 (日経ビジネス人文庫)』 野中 郁次郎, 戸部 良一, 鎌田 伸一, 寺本 義也, 杉乃尾 宜生, 村井 友秀 P.459

タイトルは、CSI:マイアミのエピソード22でホレイショが消防署の署長へ言ったセリフ。「罪悪感」が、興味深かった。エピソードと関連したセリフなので、この一文だけ抜き出して読むと、響きにくいかもしれない。「罪悪感」。西洋というか、背景がキリストの構造から生まれるセリフだなぁと受け止めた。日本なら何があてはまるだろう。恥? 今なら敗北感とか入りそう。

脚本を書く人は環境から影響を受ける一方、環境へ配慮して書く。環境の前提を知らない人が、行為や言葉を見聞すると違和感を抱く。その違和感をぼくは大切にしたい。海外の映画やドラマ、小説、音楽のリリック、どれも違和感の要素を含んでいる。国対国の違和感は縮小すれば、ぼくの身の回りにある環境と同じ。位相は異なるかもしれないけど。

そうやってマクロからミクロへぎゅぅっと縮める実践力と、身の回りから躰の及ばぬ範囲へばぁっと伸ばす想像力。”ばぁ”は見聞しただけの異国や異文化。そう、現場を知らない事象への知的パフォーマンス。

汚れやすいものを清潔に保つ

皇子山公園の白梅

白い布を清潔に保つというコミュニケーション

基本的に布はやわらない。だから、このサインを取り付けてある空間もやわらかい表情になる。しかしさらに重要なポイントがある。サイン本体が白い木綿の布でできているということは、とても汚れやすいということである。

わざわざ汚れやすい綿布を用いたのである。それは「汚れやすいものを常に清潔に保つ」ということを実践してみせるためである。汚れやすいものを常に清潔に保っていることは、最上の清潔さを来院者のために確保しているということの表明になる。

最上のホスピタリティの存在を来院者にアピールしているのである。

“デザインのデザイン” (原 研哉) P.75

効率を優先するのなら「白」は選ばれない。白いテーブルクロスを用いるレストランに出会う機会が減った。汚れが目立ちにくい色や素材を使う。効率と回転。

ムダばかりもどうかと思うけど、無駄のない空間は落ち着かない。厭だ。最も必要な無駄を考えた人がデザインした空間は心地よい。「最上級の無駄」を確保するためにムダを徹底的に削る。

自分たちに最も必要な無駄は何か?

ムダを削る前に問わないと、すべての無駄を失う。そこに大切な価値が棲んでいたのに。その価値は来訪者を抱きしめる時空であったのに。来訪者が気づいていた価値をムダと判定してしまった。

白。余白。

余白を生む余裕。余裕の裏に隠された焦燥。不安定。不安。それら安定しない揺らぎをおくびにも出さずに演出する。

ムダを削り、無駄を創る。

自分の声と話し方が嫌い

Voice-Trek DM-20

自分の声が嫌い。ボイスレコーダーで聞くたびに不愉快に感じる。発話して耳に聞こえる「自分の声」と録音された「声」、両者の声色はどうして違うのだろう。気のせいかな。たぶん科学は解明しているんだろうなぁ。調べようとしないだけ。嘆息。

自分の話し方が嫌い。ボイスレコーダーで聞くたびに陰鬱になる。発話して耳に聞こえる話の「道筋」と録音された「道筋」、両者の理路はどうして違うのだろう。気のせいではない。頭の回転が遅すぎる。たぶん科学は解明していないだろう。自分で考えろと。痛歎。

無駄。話し方の内、70%は無駄ではないだろうか。そう思うぐらい無駄な単語や重複した説明が目立つ。語彙が少ない。メタファが鈍い。

どうして「無駄」を作るのか。語彙や修辞、技法の問題に目を向ける。さらに、根本に目を向けなくては。

無関心は顔に出る

顔の現象学 (講談社学術文庫)

顔はたしかに、作ること、とり繕うことのできるものである。が、作り、とり繕ったつもりになっているだけで、ほんとうはその作った顔、とり繕った顔を自分で見ることはできない。それは一生できない。その意味では顔は、わたしから遠く遠く隔てられている。そして顔はそれを作りうる、とり繕いうると考えたとき、つまり自分の意のままなるもの、自分の所有と操作の対象であると考えたとき、<顔>という現象はわたしたちからもっとも遠ざかる。皮肉にも、「わたしのもの」としてのこの<顔>が他者に対して閉ざされてしまうからである。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだ。

『顔の現象学―見られることの権利』 P.69

<顔>について書かれた一冊。全編、顔。膨大な思惟を言葉で表現する過程に圧倒される。形而上の<顔>を理解できないので、卑近な例を示すと、「顔に出る」という言葉を思い浮かべた。先日、それに遭遇した。瞬間、「無関心なんだな」、と僕は想像した。あくまで想像。だけど、そう思わせるほど「顔に出た」<顔>だった。と言い聞かせていたら、その想像を言葉でも確認できた。ただし、悪いなんて言わない。直せなんて余計なお世話だ。時折、そうアドバイスする人を見かけ驚く。

「顔に出た」<顔>を凝視した僕は、その人から遠ざかった。プライベートな興味を持っていないので、乾いた冷たい対応を笑顔でできた。おそらく、「嫌いだ(あるいは苦手、もしくはそれらに近いイメージを抱いている)」が顔に出たな、と推察する。その人がそう考える(あるいは抱く)ことは自由だし、僕は干渉しない。とはいえ、そう考える人と同じ事象をコミットメントするのは効率が悪い。なので笑顔で対応した。

形而上の言葉を剽窃すると、そのときの彼の<顔>は、他者に対して閉ざしてしまったのだろう、と今にして思う。「顔に出た」<顔>をしている当人は、気づいているのかどうか僕は知らない。気をつけないと自分もそうなっているのだと認識した。

僕は、できるだけ「顔に出ない」<顔>を心がけている。不可能だと痛感する。顔を作りうるともとり繕いうるとも考えない。<顔>は自分の意のままにならない。だからこそ徹底的に<顔>を隠すように「意識」しなければならない、と考える。なぜなら、「閉ざした」と他者に感じとられた瞬間、損をするから。損なんて卑しいけれど、そう思う。

脳裏にある疑問を誰(何)が解決してくれるかなんて、僕はわからない。幸せな偶然がもたらしてくれるまで待つしかない。それは他者が運んできてくれる。だから、「無関心だな」や「嫌いなんだな」といった感想を他者に持たせたくない。そんな感想を持たせるインタフェースが顔だと痛感。それゆえ、制御しようと躍起になる。絶望と知っていても。

何度も書くけど、「顔に出る」<顔>について善悪是非を判定する気もないし、興味もない。どうしてエゴイストは少ないのかとそのたびによぎるだけ。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだから。

変化の境界線

写真ってホント考えさせられる。カメラの仕組みを理解せずに撮っているって点がダメなんだろうけど、それを自覚したとしても頭を抱える。とてもおもしろい。構図はもとより、光とピント。難しい。ピントが合わない、という意味を体感。カメラのピントだけでなく、対話のピント、思考のピント、行動のピント…..とか。

デジタルだから液晶画面でピントを確認して、「ヨシ!」と納得して帰宅する。さっそく24inchの画面いっぱいに映し出す。ああ、ガックリ。そのくり返し。ブログの文章を書いて、「伝える」と「伝わる」を認識して、「ヨシ!」と納得してアップする。ああ、呆然。それぞれのピントがある。 あたりまえなのに。

皇子山公園

もうすぐ落ちそうだ。

書き手は、前後の脈絡と事象の背景を知って書くけど、読み手は知らない。その時点でもう被写界深度は違う。書き手はF2.2で読み手はF8とか。

皇子山公園

染まりきってしまうより、変わりはじめが好き。表から観るより裏を知りたい。変化の境界線を見逃したくない。変わってしまったもよいけど、変わりはじめるかもは快感。

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奇麗な姿に見惚れて顔を上げている。見上げて歩く足は奇麗な姿を踏んでいる。踏まれてもとの姿を失ってもなお奇麗。

光は待ってくれない。同じ場所をいつまでも照らさない。色彩と光彩は一瞬で変化する。ピントを合わせたいと必死になっている隙に、光は逃げていく。どんどん逃げていく。

瞬きする間もないような光明と震えるような静寂。光と影に翻弄される。いつかピントが合うのだろうかと、息をひそめてじっと待ち続け、すうっと息を吐きながらそっと指を落とす。

カシャ。

いつが最後かわからない

この命、何をあくせく (講談社文庫)

愛する伴侶の最後を見守るという悲しみの極まるとき、ひとにいったい何ができるというのであろう。

私は手をにぎって、そのときが少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった。

肺結核が「死病」とされた時期、肺葉切除という新しい手術が行われはじめたものの、これが極めて危険性が高かった。

このため大病院でも、それがそのまま最後の別れになるかも知れぬというので、麻酔をかける直前、伴侶など最愛の人と会わせておくという措置がとられた。

『この命、何をあくせく』 P.219-220

手術室へ歩いて向かう背中を見送る。笑顔で手を振って。最後の別れを微塵も感じず。そんな言葉などあったのか思うくらい脳裏によぎらず、まるで玄関から出ていく姿をいってらっしゃいと送り出すかのよう。数時間後、入っていった扉が開く。駆け寄る。ベッドに横たわっていた。焦点が定まっていない顔を眺めて安堵する。

無事終わった、という安堵。最後にならなくてよかったという安堵ではない。

非日常の場所へ向かうあなたを見つめているときですら僕は日常のなかにいた。もし、それが最後の別れだと覚悟していたなら、非日常と非日常が向かい合い、日常とかけ離れた高揚が笑顔を引き出すだすだろう。引きつった顔で。それも想像でしかない。

近所の花壇

非日常へ誘われたあなたを僕はどうすることもできなかった。ただ祈るだけだった。心の中とは裏腹の真っ青な秋空を見上げて、祈りは原始の姿なのかもしれないと僕は思った。何をどう祈れば通じるのか知らずに、ただじっと待った。

いつが最後かわかならないのに、「最後」という時間を知らずにいる。あるいは目をそむけている。それは、いつ、どのように、やってくるのかわからないにもかかわらず、それはまるで自ら選択できるかのような感触。否、常に抱擁していなければならない恐怖。恐怖とともに過ごそう。躰を震わせて。

ところが、ある会社員がそうした時点になったとき、やってくることになっていた夫人が、一向に姿を見せない。

やむなく、麻酔をかけようとしたとき、ようやく夫人がかけつけてきた。

しかし、その姿を見て、病院関係者は「アッ」と言うばかりで、次の言葉が出なかった。

<見れば今、美容院から出て来たばかりと思われるきれいな髪、美しい着物姿であったから>

それというのも、

<夫の最後の瞳に愛妻のいちばん美しい姿を焼き残しておきったかった由>

と、三木睦子『心に残る人びと』(岩波書店刊)は伝える。

『この命、何をあくせく』 P.220