Home > Tags > narrative

narrative

無関心は顔に出る

顔はたしかに、作ること、とり繕うことのできるものである。が、作り、とり繕ったつもりになっているだけで、ほんとうはその作った顔、とり繕った顔を自分で見ることはできない。それは一生できない。その意味では顔は、わたしから遠く遠く隔てられている。そして顔はそれを作りうる、とり繕いうると考えたとき、つまり自分の意のままなるもの、自分の所有と操作の対象であると考えたとき、<顔>という現象はわたしたちからもっとも遠ざかる。皮肉にも、「わたしのもの」としてのこの<顔>が他者に対して閉ざされてしまうからである。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだ。

『顔の現象学―見られることの権利』 P.69

<顔>について書かれた一冊。全編、顔。膨大な思惟を言葉で表現する過程に圧倒される。形而上の<顔>を理解できないので、卑近な例を示すと、「顔に出る」という言葉を思い浮かべた。先日、それに遭遇した。瞬間、「無関心なんだな」、と僕は想像した。あくまで想像。だけど、そう思わせるほど「顔に出た」<顔>だった。と言い聞かせていたら、その想像を言葉でも確認できた。ただし、悪いなんて言わない。直せなんて余計なお世話だ。時折、そうアドバイスする人を見かけ驚く。

「顔に出た」<顔>を凝視した僕は、その人から遠ざかった。プライベートな興味を持っていないので、乾いた冷たい対応を笑顔でできた。おそらく、「嫌いだ(あるいは苦手、もしくはそれらに近いイメージを抱いている)」が顔に出たな、と推察する。その人がそう考える(あるいは抱く)ことは自由だし、僕は干渉しない。とはいえ、そう考える人と同じ事象をコミットメントするのは効率が悪い。なので笑顔で対応した。

形而上の言葉を剽窃すると、そのときの彼の<顔>は、他者に対して閉ざしてしまったのだろう、と今にして思う。「顔に出た」<顔>をしている当人は、気づいているのかどうか僕は知らない。気をつけないと自分もそうなっているのだと認識した。

僕は、できるだけ「顔に出ない」<顔>を心がけている。不可能だと痛感する。顔を作りうるともとり繕いうるとも考えない。<顔>は自分の意のままにならない。だからこそ徹底的に<顔>を隠すように「意識」しなければならない、と考える。なぜなら、「閉ざした」と他者に感じとられた瞬間、損をするから。損なんて卑しいけれど、そう思う。

脳裏にある疑問を誰(何)が解決してくれるかなんて、僕はわからない。幸せな偶然がもたらしてくれるまで待つしかない。それは他者が運んできてくれる。だから、「無関心だな」や「嫌いなんだな」といった感想を他者に持たせたくない。そんな感想を持たせるインタフェースが顔だと痛感。それゆえ、制御しようと躍起になる。絶望と知っていても。

何度も書くけど、「顔に出る」<顔>について善悪是非を判定する気もないし、興味もない。どうしてエゴイストは少ないのかとそのたびによぎるだけ。<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまうのだから。

タグ: , , , ,

関連する投稿

変化の境界線

写真ってホント考えさせられる。カメラの仕組みを理解せずに撮っているって点がダメなんだろうけど、それを自覚したとしても頭を抱える。とてもおもしろい。構図はもとより、光とピント。難しい。ピントが合わない、という意味を体感。カメラのピントだけでなく、対話のピント、思考のピント、行動のピント…..とか。

デジタルだから液晶画面でピントを確認して、「ヨシ!」と納得して帰宅する。さっそく24inchの画面いっぱいに映し出す。ああ、ガックリ。そのくり返し。ブログの文章を書いて、「伝える」と「伝わる」を認識して、「ヨシ!」と納得してアップする。ああ、呆然。それぞれのピントがある。 あたりまえなのに。

皇子山公園

もうすぐ落ちそうだ。

書き手は、前後の脈絡と事象の背景を知って書くけど、読み手は知らない。その時点でもう被写界深度は違う。書き手はF2.2で読み手はF8とか。

皇子山公園

染まりきってしまうより、変わりはじめが好き。表から観るより裏を知りたい。変化の境界線を見逃したくない。変わってしまったもよいけど、変わりはじめるかもは快感。

20081029-IMGP2750.jpg

奇麗な姿に見惚れて顔を上げている。見上げて歩く足は奇麗な姿を踏んでいる。踏まれてもとの姿を失ってもなお奇麗。

光は待ってくれない。同じ場所をいつまでも照らさない。色彩と光彩は一瞬で変化する。ピントを合わせたいと必死になっている隙に、光は逃げていく。どんどん逃げていく。

瞬きする間もないような光明と震えるような静寂。光と影に翻弄される。いつかピントが合うのだろうかと、息をひそめてじっと待ち続け、すうっと息を吐きながらそっと指を落とす。

カシャ。

タグ: , ,

関連する投稿

いつが最後かわからない

愛する伴侶の最後を見守るという悲しみの極まるとき、ひとにいったい何ができるというのであろう。

私は手をにぎって、そのときが少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった。

肺結核が「死病」とされた時期、肺葉切除という新しい手術が行われはじめたものの、これが極めて危険性が高かった。

このため大病院でも、それがそのまま最後の別れになるかも知れぬというので、麻酔をかける直前、伴侶など最愛の人と会わせておくという措置がとられた。

『この命、何をあくせく』 P.219-220

手術室へ歩いて向かう背中を見送る。笑顔で手を振って。最後の別れを微塵も感じず。そんな言葉などあったのか思うくらい脳裏によぎらず、まるで玄関から出ていく姿をいってらっしゃいと送り出すかのよう。数時間後、入っていった扉が開く。駆け寄る。ベッドに横たわっていた。焦点が定まっていない顔を眺めて安堵する。

無事終わった、という安堵。最後にならなくてよかったという安堵ではない。

非日常の場所へ向かうあなたを見つめているときですら僕は日常のなかにいた。もし、それが最後の別れだと覚悟していたなら、非日常と非日常が向かい合い、日常とかけ離れた高揚が笑顔を引き出すだすだろう。引きつった顔で。それも想像でしかない。

近所の花壇

非日常へ誘われたあなたを僕はどうすることもできなかった。ただ祈るだけだった。心の中とは裏腹の真っ青な秋空を見上げて、祈りは原始の姿なのかもしれないと僕は思った。何をどう祈れば通じるのか知らずに、ただじっと待った。

いつが最後かわかならないのに、「最後」という時間を知らずにいる。あるいは目をそむけている。それは、いつ、どのように、やってくるのかわからないにもかかわらず、それはまるで自ら選択できるかのような感触。否、常に抱擁していなければならない恐怖。恐怖とともに過ごそう。躰を震わせて。

ところが、ある会社員がそうした時点になったとき、やってくることになっていた夫人が、一向に姿を見せない。

やむなく、麻酔をかけようとしたとき、ようやく夫人がかけつけてきた。

しかし、その姿を見て、病院関係者は「アッ」と言うばかりで、次の言葉が出なかった。

<見れば今、美容院から出て来たばかりと思われるきれいな髪、美しい着物姿であったから>

それというのも、

<夫の最後の瞳に愛妻のいちばん美しい姿を焼き残しておきったかった由>

と、三木睦子『心に残る人びと』(岩波書店刊)は伝える。

『この命、何をあくせく』 P.220

タグ:

関連する投稿

素敵な人間

「良い意見だ」国枝桃子が呟く。
「意見に良いも悪いもないだろう」犀川は言う。
「訂正します。私の思っていたことに近い、という意味」国枝がすぐに言い直した。

『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P.682

最初の壁。良いか悪いかで判定する。悪い意見を排除し、良い意見に同調する。同調だけですむならよい。良い意見を「自分で考えた」意見だと錯覚する。が、そもそも意見に良いも悪いもない。と、同調しつつ、「自分で考えた」ように、今、書いている。

皇子山公園の紅葉

次の壁。近いか遠いかの距離で判定する。「自分で考えた」ように書くと、自分の意見と他者の意見の違いは、距離だ、と思う。半分は最初の壁を乗り越えられない。そして、残りの半分は最初の壁を乗り越えられても次の壁に絶望する。自分の意見と他者の意見、近いか遠いかの判定のあと、遠ければ排除し、近ければ、修正の余地を吟味する。修正可能な意見なら、自分の意見として取り入れ、自分の思考のように出力する。

皇子山公園の紅葉

他者の意見を近いと判定して、そればかり剽窃すると、原型を思い出せなくなり、剽窃した意見を語っている自分に陶酔する。ほんとうは、最も遠い意見を吟味する能力が求められるはず。対話は、その前の自分とその後の自分、両者の差異を気づかせ、驚愕させる。そのために存在する。驚愕するのは誰か?

対話の前と後の自分、それは別の自分。そうやって次々と別の自分へ憑依して、いくつもの人格を練り上げる。いくつもの人格をひとりの自分のなかで統合させていく作業、それが思考の熟成と発酵。

そして、自分の中に存在する人格を統合せずに、いくつもの人格を所有し、統制できる人が、もっとも素敵な人間だ、と僕は思う。

タグ: , , , , ,

関連する投稿

サーヴィス業は奴隷?

相互依存(interdependence)、それはあまりにあたりまえすぎる事実だと言ってよい。個人として生きるというのは、じぶんの面倒をじぶんで見るということだ。食べたいものを食べ、入浴したいときに入浴し、見たいものを見る。そういうセルフ・ケアが独力でできなくなったときは(すでに見たように、そういうセルフ・ケアも実際は見かけのうえでしかなりたっていないのだが)、他人の手を借りるしかない。これもあたりまえのことだが、それがいまの社会のようにひとびとの協働体制がはてしなく複雑に機構化されてくると、他人の手を借りていることじたいも見えにくくなる。

鷲田 清一, 内田 樹 『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 P.58

見えにくくなったとき、もっとも基本的な人の営みは、家族や地域の共同の営みから外へ出ていった。その事実に気づきにくくなった。公共サーヴィスや民間サーヴィスが見えにくくしているときも。共同の営みに必要な時間をサーヴィスに代行させることによって、個人は「自由の時間」を獲得した。

皇子山公園

自分が無知でよかったと思う。サーヴィスの語源を知ったときから目の前のサーヴィスを仕訳するようになった。語源を理解したサーヴィスか否か。食事、排泄、洗濯、介護、葬送、教育…..。「がんばれ」という声のもと、セルフ・ケアへ誘われる。セルフ・ケアが依存へ反転するのはいつかを告知しないのに。

皇子山公園

目の前では、義母が痴呆の母といっしょに朝食を食べている。自分の母親だから遠慮はない。その代わりサーヴィスもない。仕えていない。そこにあるのは、歓待に近いぞんざいな扱い。ほんの数年前に義理の息子、義理の外孫になった僕では、到底理解できない阿吽の呼吸。義母はひとりですべてを背負わず、姉妹にまかせたりして、「偶然の訪れ」を待ち受けているようだった。これが、「パッチング・ケア」かと想像した。

皇子山公園の猫

いい介護施設というのは、大声がしない。だれかを呼んだり、何かを指示したりする大きな声が聞こえない。そこには場面が煮つまりだしたときにかぎってたまたまだれかが通りかかり、ふと場面が変わるといった僥倖のようなことが起こりやすいのだろう。

そういうい場をどのように作るかに腐心したほうがいい。ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することのほうが大事なように。

鷲田 清一, 内田 樹 『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 P.100

タグ: , ,

関連する投稿

誰の基準か

常識的に考えれば、それは非常識なことだろう。しかし、そもそも、常識などという外部の平均概念が、どうして自分の内部感情に干渉するのだろうか。自分をコントロールするものは、そんな外側の力では決してないはずだ。

いや、自分の感情こそ、この社会の外側にあるのではないだろうか。そうでなければ、他人の目が気になったりするはずがない。『まどろみ消去―MISSING UNDER THE MISTLETOE』 P.283

ひどい方向音痴の僕が地図を手に取る。東西南北がある。北を固定する人や風景に合わせて地図をくるくる回す人がいる。東西南北と緯度経度を把握できれば、自分の位置と進むべき方向が見える。

何かを書くとき、基準を考えずに書く。あるいは、「常識的に考えれば」無難な基準を設定して書く。前者の文章は、読み手に今まで気づかなかった視野を認識させる。洗練された思考が導く異の視点は読み手を惹きつける。ただし、条件があって、類い希な才能を持つ書き手に委ねられていること。たぶん、売れている書籍(ベストセラーを除く)の書き手は、この才能を纏っているのだ、と思う。後者は、書き手にとって易しいけど、読み手に沈思黙考させる機会がぐっと減る。

何かを書くとき、位置を考えて書く。たとえば、XYZの座標を頭に描き、緯度・経度・時間と定めたならば、自分の位置を把握できる。この座標軸を考えるように意識している。たいていの場合、ひとつの軸に「時間」が挿入されるので、残りは2つ(もちろん、それ以外も)。設定がおかしければ、自分の位置は幻想だ。幻想を自覚するためには、座標軸から算出された自分の位置を、客観的(主観から導出される観測)に観察する、と同時に、座標軸を疑い続けなければならない。

座標軸の設定作業を怠っていると、基準は外側からやってくる。「常識などという外部の平均概念」が基準になっている。

誰かの基準に従うより、自分の基準を作って、座標軸を設定したい。その視点からモノを書けるようになりたい。自分の基準が我が儘で天の邪鬼で、座標軸の中の自分の位置はとにかく非常識、いつかは中庸を捨て去り、両極に鎮座する対極の自分を存在させたい。

それには、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ少しずつ環境を整備していかないと。

タグ: , , ,

関連する投稿

まっちゃんのご期待に添えず

先週の金曜日、F先生の院内ミーティングに参加した。ミーティングが終わった後、まっちゃんが声をかけてきた。診療後に説教部屋(もちろん悪い意味ではありません)に連れて行ってくれませんか、だって。あいにく、17:00からS経営のT氏と打ち合わせがあったので、いったんはお断りしかけたけど、打ち合わせが鶴橋だったし、オモシロイ流れだなとひらめき、行くことにした。観察したいこともあったので。F先生はプライベートの予定があり(ひょっとしてF先生のご配慮があったのかな)、スタッフとの開催が決定。まっちゃんがさっそく声をかけたら5人が集まった。

F先生のスタッフは、僕の空間へうまく入ってくるなぁと評価している。同時に、隙を持つ自分に驚いている。というのも、僕が誰かと食事へ行くたびに、身近な人は、「断るということを知らないの?」と首をかしげるようだが、防御は固いほうだと自分を評価している。それぞれの人に応じて接し方を変えている。もし、一同が集まれば、「アレ、いつもの感じじゃないかな」と、みなさん少し違和感を抱かれるかもしれない。ただ、こんなことは大したことじゃなく、人はそれぞれ他人に対して演じているだろうし、濃度が違うだけだ。

F先生の前では、しっくりくる状態に近づいているだろう。もちろん、スタッフの前も。いま、キーボードをスタッフ”さん”と打たなかった点からも伺える。ラベルに敬称をつけてもしょうがないと考えているので、それがうっかり顔を出した。

20:00に医院の近くの赤とんぼに集合。S経営のT氏も同席。これが結婚式なら、「宴たけなわではございますが」と一句入るところで、まっちゃんが質問してきた。「私を電車に例えたら何ですか?」

非常に難しい。機知と洒落が問われる。認識の違いが浮き彫りになる。たとえば、まっちゃんなら近鉄奈良線の準急だ。ところが、まっちゃんが準急にマイナスイメージを抱いていたらどうだろう。僕は瓢箪山出身で、瓢箪山駅は普通しか停まらず(今は準急が停車するらしい)、追い抜いていく準急や急行や快速急行が恨めしかったし、羨ましかった。なので、まっちゃんの能力を恨めしいと思いつつ羨ましかったから、イメージを重ねた。

「例え」は、例える側と例えられる側の認識の違いを浮き彫りにする。正負や善悪、好悪といった主観的な感情が紡ぐ認識の違い。自分は主観的な感情を持っていなくても、相手は持っているかもしれない。そもそも主観と客観って何だ、なんてところへ累が及ぶ。あぁ、頭が痛い。なかなか手強いメソッドだ。相手を理解していないのに例えると、軽薄な印象を免れない。

「例えるなら」とニュアンスは少し違うけど、アナロジーも似た性質を持つ。Xを理解してもらおうとするとき、スポーツや芸術などに置き換えて説明する。ところが、アナロジーを使うとき、自分の得意な分野や関心を抱く出来事に置き換えたりする。これは気を付けないといけない。聞き手は、必ずしもそれを映像に置き換えられるとは限らない。まぁ、そんなケースは珍しいだろう。

酷い例は、野球のルールを知らない人に野球で説明してしまうこと(他にもいろいろ)。それに聞き手の中には、アナロジーだと「理解」していても、そのアナロジー自体にツッコミを入れてしまう人が、まれにいる。

たぶん、まっちゃんがここまで読めば、すでにこの文章がメタ(あまり使いたくない言葉だけど)であるとわかるし、そのメタをスタッフと来院者に適用すれば、進行中のプロジェクトの現象が見えてくるはず。

そう、「たとえはひとのためならず」と思う(ココはかなり理路をとばした)。

それにしても、F先生のミーティングやその後の説教部屋に参加していて、危機感を抱いている。僕の語彙力。これはかなりまずいなぁと焦ってきた。というわけで、焦ってきたけど焦らず、辞書の通読をはじめてみよう。宣言してプレッシャーをかけないと腰が重い cry

まっちゃん、いつも僕に気づきを与えてくれてありがとう。そして、ヨッシー、私の懐にスッと入ってきて驚いた。で、今ちゃん、トロッコ列車は抜群だった。Y先生、語彙の感性をいっしょに磨きましょう。K先生、これから少しずつよろしくお願いします。「しかいいきづまりました」は前後の文脈と発音、そして空間のいい勉強になりました -)

タグ: , , , , ,

関連する投稿

家計簿とレジがリンクしたら?

便利になった。家計簿をつけていて領収書の内容を思い出せないとき、検索する。伊勢丹で買い物したとき、不親切な商品(まったく意味のない普通名詞だけ記載されている)を除けばけっこうな確率でヒットする。イオンも同じ。このあいだ、レシートとレジを眺めていたとき、頭の中で映像を描いた。すでに実行している会社があるかもしれない。

イオンで買い物をするとき、クレジットカードで決済する。ユニークのIDとパスワードを発行しておく。 カード番号とユニークのIDをリンクさせておき、レジで入力された内容をインターネット上で閲覧できるサービス。それを映像で想像していた。インターネットからデータをダウンロードして、専用ソフト(できれば汎用ソフトがいいけど)にインポートすれば、家計簿がアウトプットされればなおよい。

ローソン

食料品の購入記録がデータ化されていれば助かる。健康診断のときに記入した、「形」だけのアンケートに答えなくてもよくなる。「形」だけのアンケートを見て、栄養士がテンプレートなアドバイスする時間もいらなくなる。お互い有意義な時間を他に見いだせるだろう。とりあえずその映像を記憶させて、家に帰ってから自分を疑った。この発想の何がおかしいか。受け入れられない理由は何か。余計なお世話だろとかをリストアップしていく。

日常生活でこうなったらおもしろいな、なんて映像を頭に浮かべ、そのなかで生活をしてみる。その次にその生活が突拍子もないリズム感かどうか想像する。それから供給者と消費者の両面から違和感を指摘する。そうやって自分を疑う癖をつけてきたように思う。

電柱の意味なしスローガン

他人がどう思うか、と考える前に、自分はどう思うかと考える。自分はひとつじゃなく、一つ考えては一つを疑っていく。なるべく沢山の視点を自分のなかに持つように努力して自分を見つめる。他人と自分を比べる必要はない。以前にも書いたけど、周囲を観察していると、自分を気にかけている人は案外少ないように思う(気のせいだったらごめんなさい)。容姿や所有物にお金を投入しても、その人たちの行動を見聞すると、「まわりまわって自分に被害が被るのに」と訝ることもしばしば。

昔、「相手の立場にたって考えなさい」なんてフレーズをビジネス本で読んだ。当時、なるほどと頷いた。今は同意できない。むしろ、そんなフレーズをさらっと口にしたり、書いたりする人は、メールで機種依存文字を使って送信したりするのではと穿ってしまう。機種依存文字なんて知らないと反論するかもしれない。そういうときは、「私はあなたのおっしゃる話の大半を知りません。それで何か差し支えあるでしょうか?」と答えるようになりたい、と願っている。

タグ: , , , ,

関連する投稿

[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉

日本の行く道 (集英社新書 423C) (集英社新書 423C)

「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114

幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。

『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。

「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117

「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。

「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。

タグ: , , , , , , ,

関連する投稿

顔・顔・顔

スポーツ観戦が好き。特定のスポーツ観戦じゃなく幅広く観る。といっても、「観戦」が好きじゃなく、スポーツの現象を眺めるのが好きといった感じ。眺めた現象を自分で再構成するのが習慣になっていた。「観戦」自体が好きじゃないと書く理由はあって、昨年あたりから観る機会が減ってきた。好きなら減らない(と思う)。減った理由は単純で、時間配分を見直したから。ベクトルが変わると、それに応じて費やすリソースと配分の時間は変わる。おまけに勉強(そんな大げさものじゃないけど)したいから、その分の時間を増減させないといけないので。

それでも欠かさず観るスポーツはある。その一つが全英オープン (ゴルフ) 。他にはウィンブルドン選手権モナコグランプリとか。共通点は分かってもらえるかな。今年の全英オープンは眠い目をこすってテレビにかじりついた。グレグ・ノーマン のプレーに魅了された。もちろんゴルフはやったことないのでわかるはずもなく、ひたすら表情と振る舞いをインプットしていた。

私は「顔」と「声」に興味を持っている。興味というより観察の対象のほうが適切。「顔」には滲み出る「何か」があると錯覚しているし、「声」には惹きつける(あるいは忌み嫌われる)「何か」があると誤解している。身体が感知する信号みたいな。なかなか言葉にできませんね、やっぱり。

前置きが長すぎた。興味深い記事を引用。

翌最終日の2番ホール、ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったままセカンドショット地点まで歩いていった。尾崎は、そこでいつもそうするように、ボールの後ろの芝生をドライバーで押さえつけると、クラブをアイアンに持ち替えてショットを打ったのだ。彼は、前日までも同じような行為を繰り返していた。いやそれは長年にわたる彼特有の「習慣」でさえあった。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

尾崎将司の「習慣」にノーマンは競技委員を呼んだ。

ノーマンは違った。競技委員を呼ぶと、尾崎の行為は「ライの改善」に該当する可能性があるという指摘を行ったのだ。“世界最強”で、かつ当時の“世界最良のゴルファー”からの指摘はまったくもって妥当なものであった。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

協会、主催者、同伴競技者、ゴルフジャーナリストたちが見て見ぬふりをしてきた「習慣」に対して日本ゴルフ協会の競技委員はノーマンに言い放った。

「日本と米国では芝の質が違うため、日本ツアーではそれはルール違反には当たらない」という意味不明の説明でノーマンの忠告を退けたのだ。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

ノーマンは次の言葉を残して日本を去った。

「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」

今より良いクラブを常に求めた尾崎将司と同じクラブを調整しながら長く使った青木功。日本の尾崎と世界の青木。ゴルフの外側にいる人ほど対比にのめりこみやすい。対比は現象を観察するのに必要かもしれないけれど、対比の表面張力に頼ると思考はあらぬ方向へすすむ。

毎日、自分の顔と対面する。見ているようで見落としている。馬齢を重ねた私の顔を自分で認識するのは困難だ。だから他者から自分の顔を確認する。その作業を怠った顔にはなりたくないなと独りごちる。

タグ: , , , , ,

関連する投稿

Home > Tags > narrative

RSS
sponsor

自動更新バナーfake

Meta

Return to page top