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何が対等なのか

ビッグイシュー日本版107号に茂木健一郎先生のスペシャルインタビューが掲載されている。先週の金曜日に大阪の阪神百貨店前で購入したけど、F先生のスタッフに差し上げたので、正確に引用できない。うろ覚えで書くと、

対等の関係でないとコミュニケーションは成立しない

というような言葉だったと思う。前後の文脈が欠落しているので、これだけかき出すと、不穏な雰囲気を醸し出しているように受け取られかねない。やっぱり、引用は難しい。

茂木先生の言葉は、先端と洗練が交錯している、と僕は解釈している。黙読すると頭に切り込んでくる文章。文章を言葉へ、そして単語へ分解して吟味した途端、路頭に迷う。この一文もそうだった。「対等の関係」の意味。

何を基準に対等なのか。否、基準なんて存在しない。

だけど、目の前に人が見え、その人へ単語を発するとき、頭の中にある基準をまさぐっている。別の自分はまさぐらぬよう囁く。頭の中の声。まさぐっている基準は何か。その場、その雰囲気、その内容によって取捨選択している。とはいえ、自分の頭にない基準を「基準」にできない。パラドックスに苦しむ。

コミュニケーションという言葉を安易に使いたくない。それを成立させている人は少ないと思う。成立させる希有な才能を持つ人は、基準をまさぐる自分を制止する力に長けている。パラドックスのまま受け入れる。そんなふうに僕は評価している。

はじめてビッグイシューを買ったとき、複雑な気持ちが襲いかかった。回数を重ねるにつれ慣れた。今は書店で雑誌を買うような感じ。だけど、声をかけられると、心音がトクンと1オクターブ上がる。今回も、「風が強いですね」と笑顔で声をかけられた。トクン。「ええ、そうですね」とだけ答えた。300円渡してありがとうとお礼を言って、立ち去った。大阪駅前の陸橋を歩きながら、「どうして立ち止まって話さなかったのだろう」ってさっきの言動を頭の中でトレースした。

知っているか否かは問題じゃない。なのに、そこに躊躇する自分。対等とは何か?

茂木 多様性。それが今の時代を理解する一番のキーワードだと思います。多様性が必要なことは間違いないけれども、逆に人生の様々なことが扱いにくいとも言える。人間は単純化したいとの欲望が非常に強いから。

『日本人の精神と資本主義の倫理』 P.143

同じ。「多様性」という単語。何かの会話でひとたび口にすれば、安堵が訪れる。だけど、多様性の意味を吟味する時間を持っているだろうか?

柔らかい食べ物が増えて、噛まずに飲み込めるようになった。咀嚼という意味を忘れてはいけないな、と自戒。

万人受けしないとね

アルマゲドンを思い浮かべますかね、やっぱり。尖った俳優さんがわりと出演していたのに(Steve Buscemiとか)、内容はそれほどって印象。内容よりもエンディングがよかった。Liv TylerBen Affleckの結構式の様子を撮影したセピア調のシーン。Michael Clarke Duncan(と思う)の祝いのキスが素敵だった。こういう終わり方もあるんだなぁと。撮影か現実か判別しにくくなるような錯覚を呼び起こすようなシーン。

I could stay awake just to hear you breathing
Watch you smile while you are sleeping
While you far away and dreaming
I could spend my life in this sweet surrender
I could stay lost in this moment forever
Every moment spent with you is a moment I treasure

この曲が全米1位を獲得したなんて、ファンからするとどなん気持ちだろう。おおむね1位というのは、万人受けしないといけないのかもしれない。何を交換するか、あたりか。

固定端末はなくなると思いますか?

同調査によれば、自宅に固定電話を「導入している」ケータイユーザーは85.2%、「導入していない」は14.8%。非導入率を年代別に見ると、20代が34.7%、30代が15.5%、40代が2.9%と若い世代ほど固定電話を導入していないユーザーが多い。

固定電話を導入していない人に、月額基本料などが安くなったら固定電話を導入したいと思うかを聞くと、「安くなっても導入しない」が77.0%となった。特に女性では8割以上、20代では9割以上が「安くなっても導入しない」と回答している。また、全員に固定電話の今後をたずねると、24.3%が「なくなると思う」と回答。

via: 20代の3割超が「固定電話を導入していない」 – ITmedia +D モバイル

私の家でも固定電話を解約しよう、とささやいている。奥さまはまだ抵抗があるようで、首を縦にふらない。固定電話にかかってくるのは、月に一度あるかないか。一週間に一度ぐらいのペースでかかってくるのは、間違い電話(公共機関と”一番”ちがいだから)。FAXはMac mini(MacOSX Server 10.4)で受信している(年に一、二回ぐらい)。送信は皆無。

あと何年したら、「固定端末(パソコン)を導入していますか?」という質問を目にするだろうと想像する。今なら、「(家庭に)デスクトップパソコンを導入していますか?」ぐらいは、あるかもしれない。Sonyはデスクトップパソコン(分離型)の開発を終了して、一体型に集中するらしい。

自分の頭の中では、固定電話の導入と墓参り、代わりに行きます 清掃などサービス人気 面倒だからは「×」がつながっていて、可笑しかった。

同社東日本地域本部の見沢直人管理部次長は「少子高齢化で潜在的なニーズは高い」とみて、「掃除はプロに任せ、たまの墓参りには故人とゆっくり対話するなど時間を有効に使ってほしい」とすすめる。

葬儀や法事に僧侶を派遣する「おぼうさんどっとこむ」(東京都稲城市)も、「代行墓参(ぼさん)」を手がける。同社では、海外赴任や病気などやむを得ない事情に限って受け付けており、「面倒だからといった理由ではお断りしている」という。

社長で僧侶の林数馬さんは「墓参りは本来は自分で行うものだが、昔に比べて生活のペースが忙しく、彼岸や盆に足を運べない人が増えているのは確かだ。たとえ自宅にいても故人を思いだし、気持ちを向けて差し上げることが、一番の供養になる」と話している。

via: 墓参り、代わりに行きます 清掃などサービス人気 面倒だからは「×」 (2/2ページ) – MSN産経ニュース

「面倒だからといった理由ではお断りしている」らしいけど、「理由」をどうやって確認しているのか興味を持った。あと何年ぐらいしたら、「お墓を導入していますか?」とう質問を目にするのだろう?

単純であることの難しさ

整理整頓が苦手だ。対照的に机がちらかっていると、仕事がはかどらない人もいる。『佐藤可士和の超整理術』の写真を見ていると、異次元の世界だと自分の目に映る。混沌(都合のいい単語!)としている机では、何がどこにあるかを映像で記憶するようになる。だけど、拡散が閾値を超えると、探すのに数分かかる。それが数十分になったりすると手間になり、やがて重い腰を上げて、頭の映像と現実の滅茶滅茶のズレを修正する。

雑然とした机

昨日、そのズレを整理していたとき、メモ書きを見つけた。

Leonardo Da Vinci “Simplicity is the ultimate sophistication.”

「単純であることは、究極の洗練である」、明快だ。今年に入ってから、モノを捨てているような気がする。何を持つかより、何を持たないか。振り返って、捨てられるようなモノしか持っていなかったということだ。ホビーなら違う、と思う。あくまで身の回りのモノ。

馬齢を重ねることとリンクするのかもしれない。というのも、一、二年ほど前から管理できなくなってきたなぁと感じ始めた。もう何を持っているかすら覚えていなくて、捨てようとして、「おお、こんなモノを買っていたのか」と気づく。何で買ったのか思い出せないときもしばしば。だから、今は本当に必要かと自問するようになった。対象物を買って、それを使いこなしている姿を明確に描けるかどうか、と検討する。何度も書くけど、ホビーは違うだろう。どうしても手に入れたい、という気持ちがある、と想像する。

机のまわり

「単純であることは、究極の洗練である」ことの難しさ。それは、使いこなせること。自分の意識に問題がある。身近なガジェットで考えてみよう。僕は、Happy Hacking Keyboard Professional2 PD-KB400Wを使っている。シンプルなレイアウトに魅了されて買った。すばらしい。何一つ文句ない。でも、いまだに使いこなせていない。すべてのキーは両手で届く範囲にあるのに、手の動きが追いつかない。僕の動作が洗練されてない。

カメラはK10DとGR DIGITAL IIを使っている。K10Dのレンズは31mmと77mmと40mm。単焦点ばかり。ズームレンズを1本持っているけど、ほとんど使わない。ところが、こちらも使いこなせていない。単焦点を使いこなせていないというよりも、風景を切り取る視点を持っていない。「このカメラを買えばキレイに撮れます!」と宣伝されるカメラで撮影すると、たしかにキレイだ。だけど、何かが違う、とすぐに気づく。躍動感、アングル、立体感、光と影…..。閃き。視点。

HHK Professinal2

現在、ある歯科医院のプロジェクトに参加している。参加するにあたって、Wikiを用意した。Wikiにあらゆることをアウトプットしてほしいと提案した。問題、課題、成果、実践方法、ミーティングの内容、とにかく何でもいい。限られた人員で、限られた道具で、限れられた資金、そして何より限られた時間のなかで、単純であること、メソッドを使いこなせること、そしてすぐに実践できることを考えた。

「単純であることは、究極の認識である」ということを、プロジェクトで伝え続けていきたい。

自分以外は天才

有限と微小のパン (講談社文庫)

人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P. 127

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マクドナルドと老人 突然変異の若者

午前中、制作中のサイトで使うサーバーの設定に四苦八苦。今回は WordPress で制作。同時進行でもうひとつ。こちらもWordPress。WordPressのサイト構築は諸刃の剣…..かもしれない。ウェブサイトのマネジメントは効率的に。反面、クライアントはカンタンに更新できるので、私は御役御免も。ここからが腕のみせどころ。クライアントだけの更新と私が支援する更新との差異を体感してもらわなければ(笑)

午後から近所のマクドナルドへ。190円の書斎。WIRELESS GATEに契約しているからマクドナルドでネットにつながる。最近、ここを通りかかるとマック難民なる言葉が脳裏をかすめる。

「マック難民」という言葉が誕生した。ハンバーガーショップ「マクドナルド」の24時間営業店舗に「寝泊り」する人々のことで、多くは日雇い労働者風男性だが、高校生などの若年者もいる。「アパートが借りられずマンガ喫茶に寝泊りしていた人達が、単価の安いマックへ移った」という背景もあるらしい。マクドナルドも対応に困っている。

via: J-CASTニュース : コーヒー1杯で「宿泊」 「マック難民」が急増

ただし客層が記事と違う。年配の方が多い。私の前に3人の老人たち。お店側も慣れているようだけど、やっぱりテンポが合わない。で、スタッフが注文内容を聞き間違えたか、あるいは老人たちが言い間違えたか、とにかく注文した商品がでてこなかった。老人は店に苦情を申し立てる。その言い方が耳に残った。居丈高な物言いに聞こえた。私の耳は程度が悪いのであしからず。

私はホットコーヒーを注文して老人たちの隣に腰をかけた。5分ほどすると着信アリ。一人の老人が甲高い声で話し始める。どうやら今ドコにいるのかとの友人からの電話。マックにいるからおいでと。以下、つらつら書きつづるよりもよきにご想像のほどを。

耳学問で恐縮。市場は団塊世代や老人へとシフトしている一方で、その世代に隠れていた貧困がうごめいているらしい。今風にいえば格差とのこと。どこまでほんとうの話か知らないけど、マクドナルドに座る人たちを眺めてなきにしもあらずかと独りごちる。

老人を枕に言いたかったこと。それは老人そのものじゃなく老人たちのふるまい。言葉づかい、店員への物言い、食事中のしぐさ。3人から世代まで風呂敷をひろげるのは短見。とはいえ、突然変異のごとく「キレる若者」が生まれたのであるまい、と私は思う。

それを備忘しておきたかった。

篤姫とラストフレンズ 家族の意味

篤姫ラスト・フレンズを視ていると家族の意味を問いかけられている気がした。篤姫のアカデミックな時代考証やドラマ仕立ての作風は捨て置き、岸本瑠可の性同一性障害についての議論も受け流して、画面の映像だけにフォーカス。150年ほど前に、実の娘を養女に差し出し、その娘が江戸へ出立する際、殿様から謁見を賜った。もちろん「恐悦至極に存じます」みたいな。娘の「位」が上がると「姫」になる。男子であっても養子に出され、三男ともなれば喰うこともままならなかったのかもしれない。現代から時代を眺めると、「政略」という単語があてはめられるけど、「かっこにくくる」とどうなのだろう。ああ、そうか「家族」という言葉がいつから使われ出して、それぞれの時代、どういう概念を想定していたのかも考慮にいれないと。愚問はなりたたないな。むずかしい。

かたや藍田美知留。及川宗佑の子供を産み、岸本瑠可と水島タケルの四人でシェアハウスで暮らすところで終わった。SPでは子どもも少し大きくなっていたな。最終回のラストシーンを視て、「家族」が頭によぎった。現代の家族という概念をあてはめて。テンプレートなら藍田美知留と子どもだけが親子、岸本瑠可と水島タケルは他人。岸本瑠可は自分を女性と思っていないし、水島タケルはセックス恐怖症。この先、どんな暮らしが待ってるのだろう。「いけるところまでいってみよう」みたいなことをタケルは口にしたけど、どこまでいけるのだろう。テンプレートなら誰が父親で誰が母親でみたいになるけど、「みんなで育てる」みたいな雰囲気があって。で、SP。タケルは姉からの電話に「家族ができた」と笑顔。だから姉さんを許すという。同居人じゃなく家族なんだ。家族と引き替えの免罪。家族のもつ力なのかなと。

150年前の家族を現代のテンプレートで解釈すると理解できないのはわかるけど、「かっこにくくる」と自分の浅学と無知に嘆き、想像の脆弱にため息。だから、「かっこでくくる」必要のないラスト・フレンズを視て、タケルに「家族」と言わしめた脚本家の構えに圧倒された。

傍らに家族。後景から前景へ描き直す時があっていい。

蛇足。

ドラマのなかで「商品を売る」のはやっぱり空々しい。携帯全盛の時代、タケルが姉と「クールな固定電話」で話すシーンはさて。及川宗佑の調度品に生活感はない(それがネライかもしれないけど)。その他、もろもろドラマ全体がCM化してしまっているところがザンネン。