ライフハック系以上高度専門知識未満の知っている人々

知識の習得。そこは「わからない」のいらないところ。暗記、もしくは経験値。「知らない」から「知っている」への変換。昔は重宝された。いまは危うい。多少の知識やちょっとした専門知識は「あちら側」に置いてある。「あちら側」の知識が適切かどうかは保証されていない。その上、「あちら側」の知識を「こちら側」に適応するのは読み手。読解して実践しないといけなわけで。「あちら側」へのアクセス方法と「あちら側」を読解する気力、そられを備えていないとまだまだ難しい。とはいえ、たとえば、一昔前なら税務署や社会保険事務所、その他公的機関への届出なんて「知識」に入っていなかった。「専門知識」を持つ人々が代行していた。今もそうかな。ただし、時間を惜しまなければ、自分(=依頼主)で届けられるようになった。

「あちら側」は引き金を引いた。「知っている」人を無力化させてしまう。

「専門知識」を「知っている人」へ

無力化されるまでは「届出」=「代行」=「高度な専門知識」=「報酬」だった。無力化されたあと、「時間」=「報酬」になった。「手間暇を惜しまなければ自分でできるけどそんな時間がないから任せている」状態に。報酬が相対化された。「自分でもできるけどまかせているだけ(ほんとうはできないんだけどね)」と。そしたら、今までの報酬を「高い」と受け止める。

一部の「専門知識」は「知っている」ぐらいに変容した。「知っている」ぐらに変容させられた「知識」を持つ人は危機感を抱く。抱かない人もいる。抱く人は積極的に「知っている」を発信して「知らない」人を取り込む。本屋に会計本が平積みされている光景がそれ。抱かない人はその光景を見て、「なんでこんなことも知らないの」と首を傾げ、「なんでこんな本が売れるの」と嘲る。

たぶん、その感想は正常な反応だと思う。

でも、危機感を抱く人が「わかりきった知識をわざわざ書く理由」をスルーしてしまっていないかな。妄想すれば、「わかりきった知識」を「知らない」人に向けて「わざわざ」発信するのは、「教える」ためじゃないと思う。むしろ、「ね、やっぱり読んでもわからないだろ」と得心させるためだったり?

一度、「わからない」状態を気づかせる。「知らない」人は「わかる」ために「書いた人」を求めるように。本を売る目的ならベストセラーで成功だけど、それは「消費」されたにすぎない。目的の半分しか達成していないのでは。残り半分の目的は、「いつも報酬を払ってくれるリピーター」を獲得すること。

「知っている」と「知らない」はいらない

極端に書けば、思考が尖るから自問自答しやすい。以下も同じ。たぶん、これから「あちら側」はどんどん「知っている人」を無力化するだろう。にもかかわらず、人は「知る」ことにますます駆り立てられるかもしれない。「どれだけはやく知り、どれだけたくさん知っている」かに拍車がかかる。「知っている人」のヒエラルキーが現れて、頂上付近の人が「あちら側」に「知っていること」を開放する。そこに裾野の人たちが群がる。

ライフハック系のサイトが人気を集める。グーグル先生に尋ねたら一日でこなせない量ほどの「一日ライフハック」を教えてくれる。そして本も売れる。やっぱりまとまっているから便利だし。

ただ、「知っている人」のヒエラルキーといっても、先の「専門知識」から「知っている」に変容させられた「知っている人」は歓迎されない。ライフハックと違って、「読んで実践する」には敷居が高い。ライフハック系以上高度専門知識未満の「専門知識」を持つ人はそれが問題だと思う。

その問題の糸口は「会計本」や「マーケティング本」、あるいは「不動産本」や「投資本」の平積み。

で、嫉妬心からさんざん「専門知識」から「知っている」への変容を叩いたけど、ウェブサイトに携わる私なんてものは「専門知識」どころか「知っている」シロモノも持たず。あと数年もすれば、「ウェブサイト製作」なんて仕事はないだろう。FlshaやProgrammingなどの「専門知識」を持つウェブサイト製作は引手あまたかな。ということは、たぶん私の仕事の領域はすでに無力化させられたわけで。無力化された領域に住むと今まで見えなかった「自分」が見えてきますな。あはは。