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認識を認識できるか?

lake BIWA

世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

『自由論』 J.S. ミル P.132

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余計なお世話を焼けば焦がしかねない

サンパチェンス

外界の知識(情報)と頭の中の知識(情報)は、どちらも私たちの日常の活動にとって本質的な役割を果たしている。しかし、そのどちらの方をより重視するかは、ある程度は私たちが選択することができる。しかしこの選択にはトレードオフがつきまとう。すなわち、外界に知識を置くということの利点を使おうと思えば、頭の中に知識を置くことの利点が失われる。

『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン P.128

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結界が決壊して陥穽が待っている

奈良町屋のカフェ

鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになって下さい」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣たちを呼んで、鹿、馬のどちらかであるかを尋ねてみて下さい」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく呼んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります(『太平記』巻二六)。

『獄中記』 佐藤 優 P.280

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[Review]: かけがえのなもの

かけがえのないもの (新潮文庫)

ハンス・セリエというオーストリア生まれの医者がいます。[…]この人はウィーン生まれで、お父さんはオーストリアの貴族でした。しかし第一次世界大戦が起こってオーストリア・ハンガリー帝国が分解してしまいます。今の小さなオーストリアになってしまった。セリエのお父さんは、先祖代々持っていた財産を失いました。亡くなるときに息子に言った言葉が、「財産というのは自分の身についたものだけだ」です。それはお金でもないし、先祖代々の土地でもない。戦争があればなくなってしまう。しかし、もし財産というものがあるとしたら、それはお墓に持っていけるものだ、と。

“かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.162

レンタルが流行っているらしい。バッグやドレスのレンタル。ブランド商品。車の共有やヒッチハイクのウェブサービスが登場した。背景は節約との由。皮肉だなと思った。物を買うお金を所有していないけれど、所有欲を満たしたい。それが端を発して、「ほんとうに持つ意味があるのか」を自問する。「持たない」意味に気づく。

あたりまえだけれど、お金や土地、家を墓へ持っていけない。にもかかわらず、あたりまえと受け止めていない。相続はある。そういうものだ。だけど、それすらも「制度」が当然かのように錯覚しているから存在する。

激動なんて言葉がふさわしくない社会変革を経験した人たちは、定常をどこかで疑っている。ある日、突然、制度が終了する。人生ゲームの始めに戻るなんて生やさしいぐらいに。昨日までの現在と今日の現在が断絶される。通用しない。あるのは予定のない現在。それが未来。修羅場をくぐった人の物腰。そういう人たちは豊かになっても、「食うこと」を忘れない。いかなる時代でも人間がすることは何かを考える。それを身につけた人は食えると。それが「自分の身についたもの」。かけがえのない財産。

かけがえのないという意味を個性と変換したらややこしい。脳内変換した人は、周囲の認識をスルーして自分のやりたいことを主張する。あるいは自分のやることが「正しい」と誤解している。

「何かをするより先にあるもの」ばかり気にして、「何かをひたすら繰り返す」ことを見ていない。他者にもまれ、周りがおのずと認めてくれたときに現れる幻想を追いかけない。その幻想が個性だ、と僕は思う。

ひたすら”しびと”ばかりを腑分けしてきた先生を周りは認知した。それを個性と勝手にラベルした。当人にとってはどうでもよい話だ。だけど、そのどうでもよい話を先に拘泥してしまう。何より優先して。

言葉で考えるから。言葉で切り分けたいから。言葉で知りたいから。知れば得たと氷解できるから。

最初の紙に従って行くと、トイレです。おしっこをとられる。次の紙を見ると今度は血液検査。三人くらい看護師さんがいて血液を採る。次はレントゲン。その次が胃カメラ。胃が悪いと余計なことを言ったので、薬を飲まされたり、注射をされたりしてゲエゲエ言いながらカメラを飲む。検査が全部終わったら午後になってしまいました。二人で顔を見合わせて、「丈夫でないと病院なんかこれないな」。
医者は何も言わない。「一週間たったら検査の結果が出るからまた来てください」でおしまいです。
一週間たって病院へ行くと、私の顔をちらっと見て誰だか確認したあと、ずっと検査結果表の紙を見ているわけです。愕然として「ああこの紙が俺の身体なんだ」と悟りました。

“かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.106

数値への信仰。情報への信心。公私の師と尊敬するM先生は口にする。「歯があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。そして思う。「物語があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。ノックした人は誰か。その誰を査定したい。欲求は言葉を生み出す。いつしか言葉の発掘が目的と化す。合目的的。

もっと見なければならない。見えていない。

予定表に記された将来の日付。そこに行動を埋めていく。埋まった将来は未来ではない。それはもう現在。先生が折にふれ使うこの比喩を読んで、「かけがえのないもの」を考える。

源氏物語にある「それだにいと不定なる世の定めなりや」の不定。そこに身を置く。底知れぬ不安。葛藤。孤独。不定を日常とす。やがて訪れる一瞬の定常。幻覚かもしれない。だけど、その一瞬が、「かけがえのないもの」なんだ、と僕は思う。

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[Review]: ぼちぼち結論

ぼちぼち結論 (中公新書)

表題が妙味。2001年から7年にわたって『中央公論』に連載した「鎌倉傘張り日記」が終了した。ここから『こまった人』『まともな人 (中公新書)』が出版された。7年間、日本の社会も変わったし、私自身の意見もずいぶん違ってきたと先生は言う。計3冊の読後感は「ずいぶん違った」と受け取らなかった。ということは、筆者と読者の私に差異がある。この差異がオモシロイ。相手は自分の主張をどう受け取るか? そんなものコントロールできない。そこから伝達がはじまる。

まだなんとか死なずに生きているが、あとは付録にすぎない。もっとも世間がこの先どうなるか、まだ見てみたい気持ちはある。予想通りになったのでは面白くない。予想が当たれば嬉しい。そういう矛盾した二つの気持ちを抱えたままである。

『ぼちぼち結論 (中公新書)』 養老 孟司 P.241

もともと社会的関心が高くなかった養老先生。だけども7年間、あまたの社会的事象を見てブツブツと書いてこられた。どこまでホンネかわからない。養老先生と対談した内田樹先生は、対談の大半を掲載できないとどこかで書いていらっしゃった。ラディカル”すぎる”らしい。編集もできない。ナマをご覧になった声から察するに毒をおさえた執筆なのだろう。それが7年間、自家中毒もころあいかと邪推。

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[Review]: すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会 (新潮文庫)

テレビの司会者とコメンテーターに首をかしげたことありません? 「どうしてこの人にその質問をするのだろう?」とか「どうしてこの人にコメントを求めるのだろう?」って。テレビって素人目にもオカシイことがフツーなの?! たとえば金融の専門家に犯罪とか謝罪会見とか親論なんか尋ねてたり。エエ〜と思うのは、独身の人が親子論を滔滔とまくたてる画面。そういうとき思うわけデス。ひとつの専門的知識を持っている=全人教育を受けたかのように錯覚させるのはどうかなぁと。まぁ、錯覚するのほうにも課題アリですけど。

私は昔から、政治家が政治をやるのは許せるが、学者が政治をやるのは許せない、と思ってきた。同じように、高卒や短大卒の者が仮に知識・教養において劣っていても当然のことだが、有名大学や大学院を出て、なお愚であるとすれば、それをもって真の「愚民」と呼ぶべきである。

『すばらしき愚民社会』 小谷野 敦 P.303

私は大阪経済大学卒業。なので猫猫先生の主張によると三流大学卒。うっ、まさにそのとおり。だから「学士」の称号を与えてもらうのは失礼な話。おまけにそのバカが意見を言うようになってきた。だから始末に負えない。ウンウンそのとおりと納得。どうして納得か? 本書の醍醐味は多数の実名を一刀両断しちゃうところ。それぞれの主張を批評する。その批評たるや容赦なき。批評って難しいですよ、ホント。ってしたり顔で書くコト自体、”バカ”な愚民の証なんですけどね。でもいやマジで、膨大な知性と自己を知覚する叡智を宿していないと批評なんてできやしない。だから得心。

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[Review]: 脳のシワ

脳のシワ (新潮文庫)

『脳のシワ』 を読んだ。ふと書棚に目をやり養老孟司先生の著書をずいぶん読んできたんだなぁと気づく。とはいえ専門分野の書籍( 『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』を除く)は読んでない。わかる・わからないすら判断できないのでふれてもムダだから。じゃぁなぜ読むか? 対偶がすぅと身体に入ってくる快感。それを忘れられない。あとは、先生のワガママか。先生曰く、「河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った」という言動は意地悪ばあさんみたいで諧謔にみちあふれている。現象から本質をつかみ取る毒舌ここにあり。

現代社会ほど死が語られ、そのわりには死の蔭が薄い社会はない。昨年、必要があって『平家物語』を読み直した。うかつな話だが、この物語がまさに死者の書であることに、やっと気がついた。ほとんどすべての登場人物が死ぬのである。人が死ぬことはわかりきったことだが、現代人は自分が死ぬとは思っていない。死について語れというが、それだけに自分が死ぬとは本気で思っていないのである。本気で思っていれば、他人から死の話を聞く必要などない。死はそれぞれだからである。

『脳のシワ』 養老 孟司 P.36

先生が指摘するように私も「死に触れた」ことはない。肉親も含め、誰の臨終にも立ち会っていない。小学5年生のとき臨終直前の祖父を見舞った。末期癌でほとんど反応できない祖父に私が大きな声でよびかけ手をにぎったとき、かすかに口元がゆがんだそうだ(私は覚えていない)。

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