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ブログをKindleで、遺言です

パーソナルデータを世紀単位で保存できるのでしょうか?

ネットがパーソナルデータを世紀単位で保存できる仕組みを提供できれば、ヒトは情報に対して新しい概念を構築するんじゃないか、実現すればヒトはネット上で進化できるんじゃない? って想像しました。

まず、話を書くにあって以下の3つを想定していません。

  • 一企業の事業を想定していない
  • 新旧技術の対決を取り上げない(紙か電子書籍か デジタルカメラか銀塩かなど)
  • 専門的知識と技術を知らない

AppleはiPadを発表して電子書籍のプラットフォームを用意しました。iPadを使う広告写真を見ると、Appleは日常のシーンでもっとインターネットを提案しているように僕は感じました。生活のタスクをもっとオンラインへの提案です。

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PDCAからHPRF

知識デザイン企業 P.301

アートカンパニーとは「知識デザイン」する企業だ。知識デザインとは、知識創造×(掛ける)デザイン、つまり<仮説推論思考>と<人工物のデザイン>の融合ーーー現場やモノに接しながらの、モノ=コト同時の創造プロセスである。モノの質だけにとどまらない、人間的な、経験やプロセスの質(無名の質)をも同時にデザインすることである。人々や社会の場に入り込んで、未来を創造・実現しようという志でさまざまな要素を綜合する営みである。

『知識デザイン企業』 紺野 登 P.3

書店に行くと、知識デザインやデザイン思考など、「デザイン」+ネーミングの書籍を見かける。おかげで、デザインと発声したとき、ルックスの意味と受け止められる機会は減った。

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認識を認識できるか?

lake BIWA

世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

『自由論』 J.S. ミル P.132

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The known the unknown 奇智

カレー

情報については、同一性に関する心配はない。どこまで行っても、それ自体は固定しているからである。ところが固定しているものは、定義によって、なにも生み出すはずがない。つまり情報を生み出すのは、生きて動いている実体であるほかはない。だから細胞-遺伝子、脳-言葉なのである。原子が素粒子に分解していったのも、同じ理由であろう。
原子のままで固定していたのでは、変化が生じえないからである。究極の粒子は、もしあるとすれば、情報か実体か。むろんそれは情報であるほかはない。実体なら変化してしまうからである。変化したら究極の粒子にならない。しかしそうした究極の粒子は、おそらくなにも生み出さないであろう。だから究極の還元論は成立しない。私はそう信じている。

“養老孟司の人間科学講義 (ちくま学芸文庫)” (養老 孟司) P.78

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iPhone 3Gでワンポケット

iPhone 3G

とりあえず雑感。情報をワンポケットできそう。EさんとこれからiPhone/iPod touch談義で盛り上がるな。

  • 今夏、iPhoneOS 3.0を搭載した新型iPhoneが販売されると予想
  • 今、在庫をはいておかないとマズイよ(と、みんな焦ってる)
  • 一部の量販店では19,800円で販売(しているらしい)

そういった”オトナ”の事情でキャンペーンが展開されていると推察。で、馬鹿だからちゃんとのっかりました。量販店で購入しましたが、ここでも”オトナ”の事情があるっぽい。

  • 当店オプション指定で8GBなら”実質負担0円”と表示
  • 当店オプションとは、「Wホワイト」と「基本オプションパック」を強制加入

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何が対等なのか

ビッグイシュー日本版107号に茂木健一郎先生のスペシャルインタビューが掲載されている。先週の金曜日に大阪の阪神百貨店前で購入したけど、F先生のスタッフに差し上げたので、正確に引用できない。うろ覚えで書くと、

対等の関係でないとコミュニケーションは成立しない

というような言葉だったと思う。前後の文脈が欠落しているので、これだけかき出すと、不穏な雰囲気を醸し出しているように受け取られかねない。やっぱり、引用は難しい。

茂木先生の言葉は、先端と洗練が交錯している、と僕は解釈している。黙読すると頭に切り込んでくる文章。文章を言葉へ、そして単語へ分解して吟味した途端、路頭に迷う。この一文もそうだった。「対等の関係」の意味。

何を基準に対等なのか。否、基準なんて存在しない。

だけど、目の前に人が見え、その人へ単語を発するとき、頭の中にある基準をまさぐっている。別の自分はまさぐらぬよう囁く。頭の中の声。まさぐっている基準は何か。その場、その雰囲気、その内容によって取捨選択している。とはいえ、自分の頭にない基準を「基準」にできない。パラドックスに苦しむ。

コミュニケーションという言葉を安易に使いたくない。それを成立させている人は少ないと思う。成立させる希有な才能を持つ人は、基準をまさぐる自分を制止する力に長けている。パラドックスのまま受け入れる。そんなふうに僕は評価している。

はじめてビッグイシューを買ったとき、複雑な気持ちが襲いかかった。回数を重ねるにつれ慣れた。今は書店で雑誌を買うような感じ。だけど、声をかけられると、心音がトクンと1オクターブ上がる。今回も、「風が強いですね」と笑顔で声をかけられた。トクン。「ええ、そうですね」とだけ答えた。300円渡してありがとうとお礼を言って、立ち去った。大阪駅前の陸橋を歩きながら、「どうして立ち止まって話さなかったのだろう」ってさっきの言動を頭の中でトレースした。

知っているか否かは問題じゃない。なのに、そこに躊躇する自分。対等とは何か?

茂木 多様性。それが今の時代を理解する一番のキーワードだと思います。多様性が必要なことは間違いないけれども、逆に人生の様々なことが扱いにくいとも言える。人間は単純化したいとの欲望が非常に強いから。

『日本人の精神と資本主義の倫理』 P.143

同じ。「多様性」という単語。何かの会話でひとたび口にすれば、安堵が訪れる。だけど、多様性の意味を吟味する時間を持っているだろうか?

柔らかい食べ物が増えて、噛まずに飲み込めるようになった。咀嚼という意味を忘れてはいけないな、と自戒。