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音楽と記憶の仕組みを知りたい

ここのところYouTubeから音楽を聴いている。データ通信料が多いユーザーは規制されるのでこれも今のうちかもしれない。ついにキタという感じです。ただあんまりよくわかっていませんが。

ところでYouTubeで音楽を聴いていると、突然過去の記憶が音楽とリンクして鮮明に甦る。脳裏に映像と台詞が駆けめぐり、目の前のPVを観ているようで過去に足を踏み入れている自分に気づきヒヤリ。たとえば、マドンナを旅していて、

に出逢ったりすると、一瞬で中学時代がやってくる。といっても、物語になっていない。時々のシーンが脈絡もなく表出しては消失。映像と言葉が断片なのに鮮明。こんな感じで。

記憶とは何だろう。

音を覚えていれば、言葉をとどめている。ときにそれが融合されていたり。マドンナのようにその時代、私のトレンドだっただけで、なぜかリンクしている。material girlを聴くと同時に思いうかぶ人たちがいて、その人たちは一人のときもあれば大勢も。

しかも、それがほぼ自動的というか意識しているのだろうけど、あまり自覚せずに記憶が到来する。

私にとって音楽は聴くのも好きなんだけど、どちらかというと記憶をたぐりよせる道具であって、記憶の宮殿に誘ってくれる道標なのだろう。だから、悲しい部屋に足を運べば、音楽を聴きながら泣き、楽しい部屋にたたずむと笑顔がこぼれる。

同時に、記憶のなかで息づいている人たちは、時間と空間のなかで何をしているのかが現在と過去に交差する。でも、自分のなかの映像はそのときで止まっていて、現実の<顔>は違っているのだろう。

裏を返すと、記憶をたぐり寄せられない、引き出すことのできない、入ることのできない部屋が存在すると認知したとき、恐怖に震え上がる。後悔する。思い出せない怖さ。ほんとうに今の記憶が正しいのかどうかわからない。<顔>は正確か、声は間違っていないか、それすらも思い起こせないとき愕然。いやだ。

不思議。音楽と記憶の仕組みを知りたい。

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[Review]: トラフィック

トラフィック

「もっとも印象に残るラストシーンをひとつあげなさい」と問われたら、指折り数えるなかでこの映画がまっさきに折られるだろう。場所はTijuana、夜の公園に照明がともされ、子供たちが野球をしている。ごくごく平凡なラストシーン。でも、2時間以上にわたって観てきた私は、このささやかな情景が特別な未来をもたらす可能性を秘めていることに気づかされる。

アメリカを揺るがし続けて久しい麻薬犯罪コネクション。そのルートのもとであるメキシコで、組織に翻弄(ほんろう)されながら職務をまっとうしようとする捜査官(ベネチオ・デル・トロ)、アメリカで麻薬ぼく滅に乗り出す国家の責任者(マイケル・ダグラス)と麻薬におぼれるその娘、また夫を救うために麻薬ルートに手を染めざるをえなくなっていく妊娠中の専業主婦(キャサリン=ゼタ・ジョーンズ)などなど、多彩なドラマを同時並行させながら、麻薬戦争の全貌を追うスティーブン・ソダーバーグ監督の問題作。『トラフィック』

英語のトラフィックは交通を意味する。IT用語では、「流れる情報量」を表す。なぜタイトルが「TRAFFIC」 なのか?

動詞は”trafficking “、意味は”売買(取引)する”。リーダーズをひくと、《特に不正な》と前書きしてある。そして、”drug trafficking”は”麻薬密売”と訳される。麻薬取引をテーマにしているので、そこから付けられたのかもしれない。また、邪推するに、劇中には司法や情報の「取引」が映像化されている。これも含まれているのではないか。

でも、おそらくもう一つの「売買取引」の意味もこめられているのではないか。それが、人身売買(=human trafficking)。

群像劇。詳細はWikipediaに。それぞれの舞台でドラッグの深刻な問題とそれがもたらす悲劇が繰り広げられ、最後はひとつの舞台に交わってくる。

  • 誰が、麻薬を密売し
  • 誰が、麻薬に手を染め
  • 誰が、麻薬を取り締まるのか

が無情にも淡々とつづられている。家庭にはドラッグに手を染めた娘がいて、自身が麻薬を取り締まるマイケルダグラスが言う。

「この(麻薬)戦争を徹底させれば、多くの家庭のなかで戦争がおきるだろう。家族を敵とみなせとは私には言えない」

この言葉の裏側には今も続く無情な現実が存在するのかと私は受け取った。日本でもここ数年、覚醒剤以外のクスリが流通し、それを過剰摂取する若者の問題が取り上げられている。つい最近では少年誌マガジンがドラッグの問題を二週にわたりとりあげた。

もう一度、ラストシーン。 ティファナの子供たちが夜の公園で照明の下、野球をしている。日本では「もう夜遅いから帰りなさい」といった声がかけられるかもしれない。とはいえ、それらの風景は日本ではあたりまえだ。

あたりまえのことがあたりまえでなく、さらに、少しの”光”があるだけで、未来が変わるかもしれないところに深く魅せられた。

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[Review]: 想像のレッスン

想像のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015

「一人で食事をする」と「数人で食事をする」—–仮に同じものを食べたとしよう。違いは何か?

想像力というと、よく論理的な思考と対比される。空想や夢想はそうなのだろうが、想像力はちがう。眼の前にあるものを足がかりとして、眼の前に現れていない出来事や家庭をのびやかに想像すること、あるいはそれを論理的に問いつめてゆくこと。これは、科学や宗教や芸術、あるいは政治や倫理や<他人への>思いやり、それらのいずれにおいても根のところで働いているはずの、わたしたちの力だ。それがいまひどく萎縮している。 〈想像〉のレッスン P.27

食事のとき、「味覚」を他人と共有しにくい。眼前の光景や周囲が奏でる音、漂う香り、これらと「味覚」は異なる。だから家族でいっしょに食事をすると、母親はその都度声をかける。

「きょうはどう?」

この一言によって、それぞれが他人と共有しにくい味覚を報告しあう。社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。「誰かとともに食事をする」時間をつうじて想像力が育まれる。幼いときから孤食であるか否か。

想像力は特別な能力か。もしそう問われたら、私は否。本書の帯に記されているとおり、「微かな違和の感覚を掬い取るために日常の<裂け目>に分け入る」ことができれば想像できる。「見る」ことができれば「違和」を感じ取れると私は思う。

しかし、「見る」と「違和」が私にはわからない。

  • 「見る」とは一体何か?
  • 何を「見る」のか?
  • 「違和」とは何か?

本書は「見る」と「違和」をアートに依拠している。それがユニーク。アートが「見る」の野生を甦らせる。先生自身が、「思いのつくまま訪ねた”アート”のシーンを思いつくまま繋いでいった本」とあとがきに記されている。

音楽・映画・写真・絵画・オブジェ・小説・前衛…etc

あらゆるジャンルのアートが縦横無尽に駆けめぐり、そこに潜む違和をむき出しにしていく。そして、「違和」を日常と対比するのではなく融合させていくことで、「見る」野生を甦らせる。

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