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[Review]: かけがえのなもの

かけがえのないもの (新潮文庫)

ハンス・セリエというオーストリア生まれの医者がいます。[…]この人はウィーン生まれで、お父さんはオーストリアの貴族でした。しかし第一次世界大戦が起こってオーストリア・ハンガリー帝国が分解してしまいます。今の小さなオーストリアになってしまった。セリエのお父さんは、先祖代々持っていた財産を失いました。亡くなるときに息子に言った言葉が、「財産というのは自分の身についたものだけだ」です。それはお金でもないし、先祖代々の土地でもない。戦争があればなくなってしまう。しかし、もし財産というものがあるとしたら、それはお墓に持っていけるものだ、と。

“かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.162

レンタルが流行っているらしい。バッグやドレスのレンタル。ブランド商品。車の共有やヒッチハイクのウェブサービスが登場した。背景は節約との由。皮肉だなと思った。物を買うお金を所有していないけれど、所有欲を満たしたい。それが端を発して、「ほんとうに持つ意味があるのか」を自問する。「持たない」意味に気づく。

あたりまえだけれど、お金や土地、家を墓へ持っていけない。にもかかわらず、あたりまえと受け止めていない。相続はある。そういうものだ。だけど、それすらも「制度」が当然かのように錯覚しているから存在する。

激動なんて言葉がふさわしくない社会変革を経験した人たちは、定常をどこかで疑っている。ある日、突然、制度が終了する。人生ゲームの始めに戻るなんて生やさしいぐらいに。昨日までの現在と今日の現在が断絶される。通用しない。あるのは予定のない現在。それが未来。修羅場をくぐった人の物腰。そういう人たちは豊かになっても、「食うこと」を忘れない。いかなる時代でも人間がすることは何かを考える。それを身につけた人は食えると。それが「自分の身についたもの」。かけがえのない財産。

かけがえのないという意味を個性と変換したらややこしい。脳内変換した人は、周囲の認識をスルーして自分のやりたいことを主張する。あるいは自分のやることが「正しい」と誤解している。

「何かをするより先にあるもの」ばかり気にして、「何かをひたすら繰り返す」ことを見ていない。他者にもまれ、周りがおのずと認めてくれたときに現れる幻想を追いかけない。その幻想が個性だ、と僕は思う。

ひたすら”しびと”ばかりを腑分けしてきた先生を周りは認知した。それを個性と勝手にラベルした。当人にとってはどうでもよい話だ。だけど、そのどうでもよい話を先に拘泥してしまう。何より優先して。

言葉で考えるから。言葉で切り分けたいから。言葉で知りたいから。知れば得たと氷解できるから。

最初の紙に従って行くと、トイレです。おしっこをとられる。次の紙を見ると今度は血液検査。三人くらい看護師さんがいて血液を採る。次はレントゲン。その次が胃カメラ。胃が悪いと余計なことを言ったので、薬を飲まされたり、注射をされたりしてゲエゲエ言いながらカメラを飲む。検査が全部終わったら午後になってしまいました。二人で顔を見合わせて、「丈夫でないと病院なんかこれないな」。
医者は何も言わない。「一週間たったら検査の結果が出るからまた来てください」でおしまいです。
一週間たって病院へ行くと、私の顔をちらっと見て誰だか確認したあと、ずっと検査結果表の紙を見ているわけです。愕然として「ああこの紙が俺の身体なんだ」と悟りました。

“かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.106

数値への信仰。情報への信心。公私の師と尊敬するM先生は口にする。「歯があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。そして思う。「物語があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。ノックした人は誰か。その誰を査定したい。欲求は言葉を生み出す。いつしか言葉の発掘が目的と化す。合目的的。

もっと見なければならない。見えていない。

予定表に記された将来の日付。そこに行動を埋めていく。埋まった将来は未来ではない。それはもう現在。先生が折にふれ使うこの比喩を読んで、「かけがえのないもの」を考える。

源氏物語にある「それだにいと不定なる世の定めなりや」の不定。そこに身を置く。底知れぬ不安。葛藤。孤独。不定を日常とす。やがて訪れる一瞬の定常。幻覚かもしれない。だけど、その一瞬が、「かけがえのないもの」なんだ、と僕は思う。

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[Review]: 文章読本さん江

文章読本さん江 (ちくま文庫)

ブログをはじめて5年目に突入した。裏ブログの最初の頃を読み返すとフルチンで町中を疾走しているような気分。ブログB.C.から「文章読本」なるジャンルに興味をいだき、『谷崎版文章読本』でデビューをはたし、『三島版文章読本』で打ちのめされ、論文の書き方で路頭に迷った。おお、斉藤美奈子氏が御三家と銘打つではないか!

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[Review]: 人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔

人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔 (朝日文庫)

ブログで本の感想を書き散らしていると、他の人が何を読んでいるのか気になる。やがて「どんな読み方」をしているのか読みたくなる。それが高じると作家や詩人が執筆した書評を読みたくなる。そして、『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』  に出会った。

だいたい読書は、知識を深め情操を高めてくれる高級な趣味なんかじゃない。「ぼくを読んで」「わたしを見て」「ぼくのことを知って」「わたしだけを好きになって」と連呼する、自己中な連中の告白に耳をかたむけるのがなにより好き、ってなんかヘンではないだろうか?
本当のところ、本だけあれば外の世界でなにが起ころうが人間関係がどうなろうがどうだっていいと思っている(ぼくはそうです)なんてオカシきゃないだろうか?

『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』 高橋 源一郎 あとがきより

御意。オカシイです。(ぼくもそうです)。知識を深め情操を高めてくれるわけなんてない。ただ活字が好きで好きで中毒になりたい(他の人に比べられると足下にもおよびませんが自己満足的に)から読んじゃう。それだけっすね。ただ、著者のようにどっぷりになれない。どうしても「読書」に棲んでいる人のことばが気になる。本だけあれば外の世界でなにが起ころうが人間関係がどうなろうがどうだっていいまで腹がくくれないわがままなやつと反省。だって、読書に棲んでいる人が口にするストックフレーズでないナマなことばを聴きたくてしょうがない。これが私の罪深い愉しみ。

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[Review]: 正しく生きるとはどういうことか

正しく生きるとはどういうことか (新潮文庫)

前作、『他人と深く関わらずに生きるには』と比べても内容に大差はない。ただ、いくぶん受ける印象が変わった。理由は前景に思想がおかれたから。前作は後景に思想があった。思想を前景か後景のどちらに描くかは、作品の仕上がりに影響を与える。こうも様変わりするとすこしばかりのけぞった。前景化された思想を原理主義に染めないようにコントロールするのは難しい。その手綱さばきを味わえる一冊。

じゃ、何が書いてあるかって。善く生きるための原理が書いてあるのだ。原理といったって別に難しいことじゃないよ。善く生きるやり方は人によって様々だし、同じ人だって、状況によって変わることもある。[…]この原理をひとことで説明することはできない。ひとことで説明できるのなら本を書く必要なんてないからね。でも、あえて言えば、自分なりの規範を決める、ということかな。

『正しく生きるとはどういうことか (新潮文庫)』 池田 清彦 P.8

池田清彦先生は「自分なりの規範」という。私はこれを規矩と読む(正解かどうかはわからない)。自分なりの規範は道徳や倫理と違う。道徳や倫理は他人が決めた規範だ。本書のいう規範はあなたが決める。

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[Review]: 他人と深く関わらずに生きるには

他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)

『やがて消えゆく我が身なら』が「身も蓋もない話」なら本書もやはり身も蓋もない話だ。ただ、それを「身も蓋もある話」に変換する知性が私に求められる。歯に衣着せぬ物言いが心地よい。

他人と深く関わらずに生きる、とは自分勝手に生きる、ということではない。自分も自由に生きるかわりに、他者の自由な生き方も最大限認めるということに他ならない。[…]他人と深く関わらずに生きるためには、とりあえずは世間という呪縛から自由になる必要がある。
世間で流通している常識なるものをまずは疑ってみる必要がある。その上で、納得できることは受け容れて、納得できないことはイヤだと言えばよいわけである。世の中には様々な人がいる。[…]これらの人が、皆それなりに幸せに生きるには、互いに相手の自由を尊重する必要がある。しかし、自分にある程度の余裕がなければ、他人の自由を尊重するのは難しい。

『他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)』 池田 清彦 P.5

本書は第一部と第二部の二部構成。第一部は他人と深く関わらずに生きるためのヒントが書かれている。

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[Review]: 知的な距離感

知的な距離感

この本で説明するプライベートエリアという言葉は、「プライベート(私的な)」という単語と「エリア(空間)」という単語の組み合わせです。心理学や行動学では「パーソナルスペース」と呼ばれることもあります。簡単い説明すると「他人に侵入されると不快に思う空間」です。

しかし、これは土地や住宅の話ではありません。いま本を読んでいる、あなたの周囲をオーラのように包んでいる、見えないバリアのようなもの、と説明すると想像しやすいかもしれません。

『知的な距離感』 P.23

前田知洋氏の著書。著者は日本のクロースアップ・マジック(観客のすぐそばでマジックを披露する)の第一人者。クロースアップ・マジックのマジシャンは「距離感」を大切にあつかう。観客との距離感をはかりそこねたとき、マジックのネタがバレかもしれない。そればかりか、観客から嫌われることすらあるという。著者自身、「プライベートエリア」をはかりそこねて数々の失敗を犯したらしい。

マジシャンがマジックの経験を土台に書くプライベートエリア。ただし、マジック独特の雰囲気を伝えているのではない。周囲との距離感をはかるふるまいは、仕事場や生活で求められる。それにこたえるかのように、本書では、マジックの話のみならず、歴史、建築、脳科学、行動心理学などにふれている。

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[Review]: ことばの顔

ことばの顔 (中公文庫)

ことばはいつもちぐはぐだ。いつも過剰、いつも過少。ことばはそうしたずれを孕んだままでやりとりされる。充足したコミュニケーションなどというものは思ってみたこともない。だが、ことばを表現とか記号というふうにかんがえずに、ふるまいや身ぶりだとかんがえれば、ことばのちがった面も見えてくる。手を差しのべる、ちょっかいを出す、吐き棄てる、歌う、啼く、呟く、遊ぶ、懐深く受けとめる…..。ことばの<顔>というのが気になりだしたのはそれからだ。

『ことばの顔 (中公文庫)』 鷲田 清一 P.283

その<顔>について執筆した断片を一冊にまとめた。ことばを表現として考想せず、ことばにふるまいを挿入して論考する。五感を味わうための<ことば>が目に飛び込んでくる。

鷲田先生の著書を読むと(哲学論考をのぞく、まったくわからないので)、「ことばを粗末にあつかっているなぁ」と自省する。いや、粗末にあつかうというのも的確ではない。あつかいすらできず、口から吐きだしているにすぎない。うなだれる。ことばに対して鈍い。

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