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[Review]: 文章読本さん江

文章読本さん江 (ちくま文庫 さ 13-4)

ブログをはじめて5年目に突入した。裏ブログの最初の頃を読み返すとフルチンで町中を疾走しているような気分。ブログB.C.から「文章読本」なるジャンルに興味をいだき、『谷崎版文章読本』でデビューをはたし、『三島版文章読本』で打ちのめされ、論文の書き方で路頭に迷った。おお、斉藤美奈子氏が御三家と銘打つではないか!

「私は、文章に実用的と藝術的との区別はないと思います」を説き、世に衝撃を与え、1934年に刊行された谷崎本をもって「文章読本」の嚆矢とされる(って私が勝手に書いてるだけ)。衝撃。そ、そうなんだ、自分の云いたいことを明瞭に書けばそれでいいのか、バンザーイ。意気揚々とブログを書く。書けない。呆然。やや、これはマズイ。今度は三島本に手を出す。「観賞用の果物/実用的な果物」と比喩して谷崎本を痛罵しているのを読み、深い絶望の淵に立たされた。え〜い、だったら、観賞用文章と実用的文章やら自分の云いたいことを明瞭に書くとかに惑わされず、論理的に書いたらどっちつかずでイイだろ!と思い清水本へ逝った。ここから冥想、いや迷走がはじまる。

まるで「食品本」のように。

殊勝な態度で文章読本を読んでいた時期が、かつては私にもありました。

それがいつ、どんな事情で「もう降りた」になったのか、具体的には思い出せません。[...]いずれにしても、いまの私は「上手な文章」などに何の興味も未練もなく、おかげで文章読本も無責任な野次馬の立場で鑑賞できるになりました。外野席から眺めると、ありがたいはずの文章作法が、あら不思議、滑稽なドタバタ喜劇にも見えてくる。名文家をめざすみなさまには、くれぐれも私の轍を踏まないようにと注意を促しておきましょう。『文章読本さん江(ちくま文庫 さ 13-4)』 P.339

ブログ全盛の時代、「文章読本」は姿を消したけど、「文章の書き方」系は次から次へと出版される。もう、ガチな文章読本は拒絶されるから、「こうやったら文章って書けるよ」みたいなライフハック系でライトな感じで。ついには魂の文章術―書くことから始めようなんてタイトルが登場してスビリチュアルへきたかと遠くに目をやり気づいたらアマゾンでポチ。とにかく書けだと。悟りだ。

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[Review]: 人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔

人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔 (朝日文庫)ブログで本の感想を書き散らしていると、他の人が何を読んでいるのか気になる。やがて「どんな読み方」をしているのか読みたくなる。それが高じると作家や詩人が執筆した書評を読みたくなる。そして、『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔 (朝日文庫)』に出会った。

だいたい読書は、知識を深め情操を高めてくれる高級な趣味なんかじゃない。「ぼくを読んで」「わたしを見て」「ぼくのことを知って」「わたしだけを好きになって」と連呼する、自己中な連中の告白に耳をかたむけるのがなにより好き、ってなんかヘンではないだろうか?
本当のところ、本だけあれば外の世界でなにが起ころうが人間関係がどうなろうがどうだっていいと思っている(ぼくはそうです)なんてオカシきゃないだろうか? あとがきより

御意。オカシイです。(ぼくもそうです)。知識を深め情操を高めてくれるわけなんてない。ただ活字が好きで好きで中毒になりたい(他の人に比べられると足下にもおよびませんが自己満足的に)から読んじゃう。それだけっすね。ただ、著者のようにどっぷりになれない。どうしても「読書」に棲んでいる人のことばが気になる。本だけあれば外の世界でなにが起ころうが人間関係がどうなろうがどうだっていいまで腹がくくれないわがままなやつと反省。だって、読書に棲んでいる人が口にするストックフレーズでないナマなことばを聴きたくてしょうがない。これが私の罪深い愉しみ。

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[Review]: 正しく生きるとはどういうことか

正しく生きるとはどういうことか (新潮文庫 い 75-3)前作、『他人と深く関わらずに生きるには』と比べても内容に大差はない。ただ、いくぶん受ける印象が変わった。理由は前景に思想がおかれたから。前作は後景に思想があった。思想を前景か後景のどちらに描くかは、作品の仕上がりに影響を与える。こうも様変わりするとすこしばかりのけぞった。前景化された思想を原理主義に染めないようにコントロールするのは難しい。その手綱さばきを味わえる一冊。

じゃ、何が書いてあるかって。善く生きるための原理が書いてあるのだ。原理といったって別に難しいことじゃないよ。善く生きるやり方は人によって様々だし、同じ人だって、状況によって変わることもある。[...]この原理をひとことで説明することはできない。ひとことで説明できるのなら本を書く必要なんてないからね。でも、あえて言えば、自分なりの規範を決める、ということかな。『正しく生きるとはどういうことか』P.8

池田清彦先生は「自分なりの規範」という。私はこれを規矩と読む(正解かどうかはわからない)。自分なりの規範は道徳や倫理と違う。道徳や倫理は他人が決めた規範だ。本書のいう規範はあなたが決める。

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[Review]: 他人と深く関わらずに生きるには

他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)『やがて消えゆく我が身なら』が「身も蓋もない話」なら本書もやはり身も蓋もない話だ。ただ、それを「身も蓋もある話」に変換する知性が私に求められる。歯に衣着せぬ物言いが心地よい。

他人と深く関わらずに生きる、とは自分勝手に生きる、ということではない。自分も自由に生きるかわりに、他者の自由な生き方も最大限認めるということに他ならない。[...]他人と深く関わらずに生きるためには、とりあえずは世間という呪縛から自由になる必要がある。
世間で流通している常識なるものをまずは疑ってみる必要がある。その上で、納得できることは受け容れて、納得できないことはイヤだと言えばよいわけである。世の中には様々な人がいる。[...]これらの人が、皆それなりに幸せに生きるには、互いに相手の自由を尊重する必要がある。しかし、自分にある程度の余裕がなければ、他人の自由を尊重するのは難しい。『他人と深く関わらずに生きるには』P.5

本書は第一部と第二部の二部構成。第一部は他人と深く関わらずに生きるためのヒントが書かれている。

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[Review]: 知的な距離感

知的な距離感

この本で説明するプライベートエリアという言葉は、「プライベート(私的な)」という単語と「エリア(空間)」という単語の組み合わせです。心理学や行動学では「パーソナルスペース」と呼ばれることもあります。簡単い説明すると「他人に侵入されると不快に思う空間」です。
しかし、これは土地や住宅の話ではありません。いま本を読んでいる、あなたの周囲をオーラのように包んでいる、見えないバリアのようなもの、と説明すると想像しやすいかもしれません。『知的な距離感』 P.23

前田知洋氏の著書。著者は日本のクロースアップ・マジック(観客のすぐそばでマジックを披露する)の第一人者。クロースアップ・マジックのマジシャンは「距離感」を大切にあつかう。観客との距離感をはかりそこねたとき、マジックのネタがバレかもしれない。そればかりか、観客から嫌われることすらあるという。著者自身、「プライベートエリア」をはかりそこねて数々の失敗を犯したらしい。

マジシャンがマジックの経験を土台に書くプライベートエリア。ただし、マジック独特の雰囲気を伝えているのではない。周囲との距離感をはかるふるまいは、仕事場や生活で求められる。それにこたえるかのように、本書では、マジックの話のみならず、歴史、建築、脳科学、行動心理学などにふれている。

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[Review]: ことばの顔

ことばの顔 (中公文庫)

ことばはいつもちぐはぐだ。いつも過剰、いつも過少。ことばはそうしたずれを孕んだままでやりとりされる。充足したコミュニケーションなどというものは思ってみたこともない。だが、ことばを表現とか記号というふうにかんがえずに、ふるまいや身ぶりだとかんがえれば、ことばのちがった面も見えてくる。手を差しのべる、ちょっかいを出す、吐き棄てる、歌う、啼く、呟く、遊ぶ、懐深く受けとめる…..。ことばの<顔>というのが気になりだしたのはそれからだ。『ことばの顔』 P.283

その<顔>について執筆した断片を一冊にまとめた。ことばを表現として考想せず、ことばにふるまいを挿入して論考する。五感を味わうための<ことば>が目に飛び込んでくる。

鷲田先生の著書を読むと(哲学論考をのぞく、まったくわからないので)、「ことばを粗末にあつかっているなぁ」と自省する。いや、粗末にあつかうというのも的確ではない。あつかいすらできず、口から吐きだしているにすぎない。うなだれる。ことばに対して鈍い。

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[Review]: 生きて死ぬ私

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

今まさに時間が流れているということ、そして、そのような流れる時間の中に私たち人間が存在しているということ、そして、そのような時間の流れの中で、私たちがさまざまなことを経験し、考え、意思決定しているということ。このようなことを思うと、私たちの存在の不可思議は、時間の流れの不可思議と深く関係しているということがわかる。私たちの生も死も、時間という舞台の上で演じられるドラマである。人間存在を理解するためには、時間を理解しなければならない。 生きて死ぬ私 P.57

出版当時33歳。羨ましい、33歳にしてこんなテキストを書けるのかとため息をついた。歳は関係ないのだろう。感じることができる人は感じ、表現できる。感性をまとっているかどうかだけ。

「今」と「少し前」—–両方<私>であっても、その差異を認識できるのはなぜか?「時間」と「記憶」は深くかかわる。

しかし、33歳の茂木先生がふれていないことがひとつある。

「記憶」を失った人に魂は存在するのか?

人の心から情感が抜けていき記憶が失われつつあるとき、「人が壊れた」というのだろうか。その時、「あの人には命がなくなった」と判断できるのは、私かあなたか。

「人間存在を理解するためには、時間を理解しなければならない」としたら、気の遠くなるようなもがきを経て、「時間を共有できる喜び」が我が身にやってくるのかもしれない。一瞬を「共有」できたかどうかを私には確認できない。ただ信じるのみ。

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[Review]: 時間はどこで生まれるのか

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

無限は何を表すのか愚考していたとき手にとった。無限と時間をリンクさせ、「時間とはそもそも測定可能な物理的現象なのだろうか?」とさらなる愚考を重ねたのでAmazonで検索したところ本書がヒット。

「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間と、ミクロの世界における時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は、同一のものではない」 『時間はどこで生まれるのか』 P.19

古今東西、「時間論」は語り尽くされてきた。古くはアリストテレスの『自然学』、カントの『純粋理性批判』、そしてハイデガーは『存在と時間』のなかで、「時間性が人間(現存在)の存在論的意味だ」と結論づけた。なのに今になってなぜ「時間論」を語ろうとするのか?

筆者は、「目からウロコの落ちる時間論」に出会えていないからだと言う。その原因は、近代以降の哲学と科学の乖離にあると指摘する。

現代の哲学者が語る時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性を無視し、科学者による時間論は科学の枠から出てこない。今こそ現代物理学をふまえた哲学論的時間論を書いてみたいと切望し上梓した。

  • 第一章 なぜ今、時間論なのか
  • 第二章 相対論的時間と時間性
  • 第三章 量子論における時間の非実在性
  • 第四章 時間を逆行する反粒子
  • 第五章 マクロの世界を支配するエントロピーの法則
  • 第六章 主観的時間の創造
  • 第七章 時間の創造は宇宙の創造である

たとえば、「1秒」とは何を表すのか?

1秒や1時間は地球の自転公転をもとに決められている。1967年以降、1秒を以下のように厳密に定義している。

「一秒は、セシウム一三三原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の遷移に対応する放射の九一億九二六三万一七七〇周期の継続時間」

しかし、これは「役所の公文書」のようなもので、ミクロの世界ではどうかというと、まったく現実にそぐわない。そもそも、我々は技術的に上のように測定できる手段をもちえない。定義は定義であって、時間の測定そのものとは関係ない。

時間を「ある」か「ない」かと考察すれば、現代物理学を無視した哲学的考察に終始する。だから、本書は「どこから生まれるのか」という表題をかかげている。

冒頭の引用は筆者が提起した命題である。ここから時間論を出発させて真偽を検証する。この命題から導き出される結論を最終章で読んだとき驚いた。なぜなら私が持っている「過去・現在・未来」という一直線の時間軸を覆してくれたから。

「過去・現在・未来」が一直線上ではないななら一体何なのか?

そこには「実在」が何であるのかを私に突きつける刹那があり、「意思」があり、「自由」がある。

「時間の創造は宇宙の創造であり、われわれはそれに参画しているのだ」

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