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egoism
思うほど時間は残されていない
- 2008-08-19 (Tue)
- Diary
日本人の平均寿命は、男性79歳・女性85歳らしい(平均に意味はないと思うけど)。人間はだいたい80年くらい生きるらしい。約3万日(29,200日ほど)。そのうち1/3を睡眠やぼぅっとしている時間としてまとめて過ごしたとしよう。27歳まで寝ていたことになる。今、36歳だからようやく9歳。奇跡的に平均寿命まで生きても残り2万日しか残されてない。平均寿命まで生きるなんて考えるのはムダだし、生きるわけないのでもっと少ないだろう。
違う角度から。約3万日を1/365に縮小して(1年を1日で考える)、約80日間生きたとすれば、人間の一生は3ヶ月に満たない。1月1日に生まれたら桜が咲く頃には死んでいる。この手の縮尺を考えるとき、地球誕生から現在までを一年に縮尺するカレンダーがよく用いられる。地球誕生を1月1日の0:00とすると、11月29日頃に植物や恐竜が現れ、人類が誕生するのは12月31日の23:00前後になる。近代科学は23:59ごろ。
自分の一生を換算すると1秒も生きていない。平均寿命なら0.5秒ほど。一瞬だ。3ヶ月弱の縮尺でも1時間は約10秒ほどある。一瞬ではない。1時間を10秒ほどで過ごした錯覚に襲われるような経験はあるだろうし(私の場合、”SO”と過ごしたときそう感じた)、10秒を1時間で過ごすムダもある。
時間に焦ったり、時間に後悔したりしない。ただ時間とは何かと考えているだけ。あとは自分のやりたいことがあって、残りの時間を換算したとき、何を削らなければならないのかが自ずと見えてくる。身の回りをどんどん削っていき、自分のやりたいことに注力する環境をつくっていく。まだもう少し時間がかかる。焦ってはいけない。2万日も残されていないのだから。一瞬のできごとだ。のんびりしながら急ぐとしよう。
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(多数他人-自分)×意識=個人
- 2008-08-07 (Thu)
- Diary
「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483
8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。
茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」
宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」
via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ - finalventの日記
宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。
本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)
私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。via: 感情教育 (内田樹の研究室)
「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。
構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。
「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。
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[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉
- 2008-08-01 (Fri)
- Review
「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114
幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。
『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。
「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117
「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。
「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。
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何かのせい
- 2008-07-24 (Thu)
- Diary
たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15
「人のせいにしてはいけません」と子供のときに叱られた。「他人に迷惑をかけていけません」と子供のときに諭された。「謝りなさい」と子供のときに教えられた。大人の言葉は正しいのだろう。だけど「正しい」は世の移ろい。言葉の意味は認識する人によって変わる。「正しい」と発声した途端、言葉の内側に包まれる「正しい」は外側に広がる「わからない」を対象から隠す。内側と外側の境界に「間違っている」が囲っている。
「人のせいにしてはいけません」と言った大人は、「社会のせいにしていけません」と言わない(ゼロじゃない、断定調に自己陶酔)。それどころか「社会のせい」にしたがる人もいるぐらい。不思議だ。「人」と「社会」を使い分ける。社会は表象しづらいから制度に置き換えたり。制度も腑に落ちないなら公務員、政治家、官僚、経営者…..。集合の範囲を狭める。抽象から限定へ。限定はラベルにすぎない。「人のせいにしてはいけません」の人が構成する仕組みの名称だ。名称なら「せい」にできる。実害はない。
「正しい」の外側にある「わからない」を認識しようとしない。恐い。恐いから「何かのせい」にしたい。したいけど「人のせいにしてはいけません」という「正しい」がある。大人が「正しい」を言った。大人が言った「正しい」は彷徨い、すべての「正しい」が子供たちへふりそそぐ。そして大人は「正しい」を忘れる。自分が言った「正しい」だけを残して。
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何もなければ何も残せない
- 2008-06-12 (Thu)
- Diary
私がいまもっともあこがれている人。言葉の掬い方や文脈を紡ぐ術、写真やモノへの感性に強く惹かれる。iPhoneが発表された”会場”でその人がアップした言葉。
iPhoneは「何を残して、何を捨てるべきか」を徹底的に追求された製品であると言うことができます。だからコピー&ペーストすらできない「コンピュータ」にこれだけの人々が熱狂するのです。
「何を残して、何を捨てるべきか」…..Leicaで日常を切り取る感覚に近いのかも。身も蓋もない言い方になるけど、「何もない人」は「何も残せない」と思う。削ることは難しい。判断の基準を持っていないと迷子になる。「なんでもできる」と主張したとき、「何を残しますか」と尋ねたら沈黙がやってきた。もっとも残したいもの、世に送り出したいものに自信を持っていないから。
身近にもひそむ。一日の仕事をふりかえる。「何を残して、何を捨てるべきか」と考えると、身体が震える。コワイ。
「何を残して、何を捨てるべきか」を我が身に置き換えて考える。その行為は「自分が何をできないか」へと導く。「自分が何をできないか」の査定は自信の有無をあぶりだす。結果、「自信」があぶり出されればLeicaのファインダーに収まり、「無力」があぶり出されればフィルムに焼き付けられない。
負のベクトルじゃなくて、「自分が何をできないか」という可能性をひとつひとつそぎ落としていく作業は、徹底的に自分と向きあえる。一本の木からゆっくりと削り落としていく。現れた姿を他者が認識してくれたとき、「作品」なのかな。ずいぶん遠回りだけど。
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雇用したことない人のパラドックス
- 2008-05-31 (Sat)
- Diary
先日、ある先生から経営の相談を受けた。文脈の前後や背景を省略するけど、私の稚拙な問いかけを先生なりに整理。すると、スタッフの問題が浮かび上がってきた。そこにフォーカスしてピントをあわせる。
ピントがあったとき、コンサルタントなら「人材育成」や「人事」のシャッターをきって快刀乱麻の手腕をいかんなく発揮するんだろうな。経営の問題を対処するとき、メソッドは有効かつ魔力を持つ。フルサイズやハイアマチュアのデジタル一眼レフのよう。使いこなせる腕を持つコンサルタントは問題を切り取りフレームにおさめる。可もなく不可もない。みごとなフレーム。使いこなせないコンサルタントはメソッドに助けられる。フレームにブレはあっても「きれいな写真」が撮れる。
経営者が気づいていようがいまいが、もっとつっこめば、望んでいようがいまいが、メソッドから経営の問題を浮彫にするアプローチは正しいと思う。メソッドは心血注いで開発したノウハウだ。たとえ「前提」が間違えていても「大勢」の経営者の役に立った実積を持つ。いかんせん、私はそんなスキルもタレントも持ち合わせていない。それを歯痒いと感じたこともない(といえばウソ、社会人になって数年間はあった)。
パラドックス、じゃない、アイロニーかな。「従業員を雇用したことがない経営者」に「ヒトの問題」がやってくる。このパラドックス(にしておこう)を体感した。体感の有無は余計なお世話だけどね。体感してクールにふるまうコンサルタント、体感に気づかない専門家、体感をスルーする山師、海千山千だ。
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わからないという免罪符
- 2008-05-02 (Fri)
- Diary
「ホームページとかってまったくわからない」
「ブログなら今すぐ作れますよ」
「ウソ!」
ホームページとブログは違う。共通点は手段。目的を達成するためにどちらかを選択したり、両方を採用する。ホームページとブログの「違い」を知らないし、ホームページを理解できない人が、「ウソ!」と口にする。ブログなら今すぐ始められますよ、と私が言ったとき。
自分で「ホームページとかってまったくわからない」と言いながら「ウソ!」と疑う。支離滅裂を認識していない。「ブログなら今すぐ始められる」と言った私は途方に暮れる。
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書くことはツライ
- 2008-04-24 (Thu)
- Diary
昨年後半あたりからどうも書けない。ジャンクを書いて凌いでいる。自分の気持ちにさからってムリヤリ書いている。まぁ、「それなりにやってますよ」と発信するツールであったりするから。机の隣に置いてあるプラスチックのA4ボックスをのぞくと、レビュー待ちの書籍が放り込んである。ざっと数えたところ40冊を越えていた。
今も手にとってパラパラめくりながら何か書こうかなぁと思ったけど、やっぱりうまく書けない。ボックスにもどした。
どうして書けないかを掌握できれば苦労しない。言葉にできない。ただ、レビューは言葉を出力するよりテンプレートにそった方が書きやすい。テンプレートを持っていない。そのあたりテクニカルの問題も含んでいるかな。
結局、「考えているようで実は何も考えていない」なんて古典的なオチだったり。要は「考える仕方」を忘れているとでも。
ここ数日にわたる侃々諤々の光市母子殺害事件や後期高齢者医療制度にも言及したいなとチラっとよぎる。明日はJR福知山線脱線事故。でも書けない。まとまらない。単語を並べるけど文章にできず。なにより関心の濃度が薄くなってきた。無関心じゃない。事件や事故そのものに自分をフォーカスするよりも、少し距離を置いた視点から眺めてみたい。「事件」や「事故」という集合とは違う集合からギリギリで交わろうとするような感じ。かろうじて裏ブログで愚痴を書き綴って「事件」や「事故」の集合のなかにいようとするぐらいか。「中の人なんていません」ってツッコまれそうだけど。
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スタッフさんの声が忘れられない
- 2008-04-23 (Wed)
- Diary
先日、F先生とスタッフのみなさんでミーティングのあと、食事をごちそうになった。そのとき、スタッフの方から声をかけられた。
「シンクセルさんと会いたいです」
正確にはシンクセルは私の名字で、もう少し前後の脈絡もあるわけだけど。で、私はというと、もちろん嬉しくもあり、照れた。仕事とはいえ、女性から「会いたいです」と声をかけられて、嫌がる男性は性差を超越した存在だろうし
だけど、どうして嬉しいと自問したら位相は異なるのかな。あれからずっと考えている。どうして嬉しいか。ちょっと感触を得てきた。ヒントは別のスタッフさんが私にかけた言葉。
「シンクセルさんは私が考えない点があるから」
ごめんなさい。正確に記述できない。まぁ、「着眼点が違う」とも受け止められる。
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点と点の過去 孤独がつなげる
- 2008-04-17 (Thu)
- Diary
「こんなはずではない」と自分に憤る。そして未来を求めて「今」から去る。そのとき尋ねられるなら次の言葉を尋ねてみたい。
「未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけだ。だからこそ、バラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない」
(スティーブ・ジョブズ)
過去を振り返っただろうか?
『無所属の時間で生きる』が書店に並ぶ。どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間としての時間。関係と時間。孤独へ溶け込む。
自宅が世界遺産に登録されているメキシコの建築家、ルイス・バラガンは生涯独身を通し、多くの時間を自宅での瞑想に費やしたという。自宅のダイニングの壁には「孤独」と書かれた皿が一枚掛けられており、「孤独とは良き友のことだ。」という言葉を本人も残している。自宅で一人、人と建築の関係について考え続けたのだという。最初にこの事を知った時、僕はうさんくさいなど通り越して、ぞっとするような畏怖の念を覚えた。
via: 弱者からの革命 - jkondoの日記
「孤独とは良き友のことだ」の言葉。はてなの創業者は畏怖の念を抱いた。私はぞっとしない。親しみを覚えた。同時に、懐かしさも。高校で教わった言葉。
連帯を求めて孤立を恐れず、 力及ばずして倒れることを辞さないが、 力尽くさずして挫けることを拒否する。
『東大安田講堂落書き』
「孤立」と「孤独」は同義語だろうか。私は違うと受け止める。孤立は絶望、孤独は希望。「孤独」を恐れない。「無所属」は心地よい。大勢に囲まれても「孤立」、「孤独」であっても誰かがよりそっていてくれたりする。自分を削りながら「孤独」と真摯に向きあうとき、「優しい」が姿を現す。他者の優しさが身体に染みこみ、他者の言葉が琴線にふれる。
孤独は対話を生む。ひとりしかいないはず。自分と何かの「関係」について、「他者である自分」との対話がはじまる。無所属の自分が、所属している自分を眺めて、「かかわること」を考える。思考は言葉へ。言葉を放擲して突き刺す。
言葉を放擲した自分と放擲した言葉が突き刺さった自分、両者の差異。差異に孤独があり、絶望の淵にたって希望への橋を架けようと深淵をのぞきこむ。
孤独とは礼節をもたらす使者のこと
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