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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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結界が決壊して陥穽が待っている

奈良町屋のカフェ

鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになって下さい」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣たちを呼んで、鹿、馬のどちらかであるかを尋ねてみて下さい」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく呼んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります(『太平記』巻二六)。

『獄中記』 佐藤 優 P.280

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[Review]: 臨床とことば

臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知

聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

“臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知” (河合 隼雄, 鷲田 清一) P.210

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[Review]: 化粧する脳

化粧する脳 (集英社新書 486G)

自分にとっていちばんの死角は、自分の顔である。
日夜、他人に曝しておきながら、自分自身ではその顔を見ることができない。
鏡を使って確認することはできるが、それは「鏡像(左右が逆転している像)」であり、ほんとうの顔の左右が入れ替わった像に他ならない。試しに鏡像を反転させて「正像」をつって「鏡像」と見くらべてみればよくわかる。[…..]多くの人が自分の「正像」にはどうしても違和感を覚えるだろう。「いつもの自分ではない」と。

それもそのはずだ。普段、見慣れている自分の顔は「鏡像」なのだから。
しかし、他人が見ているあなたは「 「正像」だ。「わたしが知っている自分とちょっと違った顔」を、他人はあなたの顔として識別しているのだ。

“化粧する脳 (集英社新書 486G)” (茂木 健一郎) P.50-51

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