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7×7=49
- 2008-07-13 (Sun)
- Diary
『ベア速 12×12=144の素敵さ加減』のスレがたまらなくおもしろい。「7は分数にすると美しい」にうっとり。『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』に登場する真賀田四季が、西之園萌絵とかわす冒頭の会話を思い出す。書棚からひっぱりだして再読。ちなみに私はミステリィを読まなくなった(大学まで読んでいた)。「誰がどのように殺したか」に興味を抱かなくなったから。ミステリィの目的はエレガントなトリック。その目的に関心が薄れた。だけど、森博嗣先生のS&Mシリーズと真賀田四季は別格(Vシリーズは位相が違う、だけど堪能)。エレガントなトリックは手段。では目的は何か? わからない。考えろと読者に啓示しているかのよう。ゆえにいまだに再読する。答えは知っているけど、問題を考えたいから。
真賀田四季は面会に訪れた西之園萌絵に指摘する。
「いいえ、貴女は気がついていないのね。初めて九九を習ったとき、貴女は、7の段が不得意だったはずよ。幼稚園のとき? もっと小さかったかしら? 7は特別の数ですものね。貴女、兄弟がいないでしょう? 数字の中で、7だけが孤独なのよ」『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』 P.12
そして問いかける。
「[...]1から10までの数字を二組に分けてごらんなさい。そして、両方とも、グループの数字を全部かけ合わせるの。二つの積が等しくなることがありますか?」
「ありません」萌絵は即答した。「片方のグループに7がありますから、積は7の倍数になりますけど、もう片方には7がないから、等しくなりません」
「ほら、7だけが孤独でしょう?」真賀田女史が言った。 同 P.16
「7だけが孤独」って美しい響きだなぁと思った。そして7×7は49。日本人なら忌み嫌われる数字が二つ並ぶ。
孤独と孤独を乗ずると死と苦が訪れる。なんとも美しい凛とした数式だと思う。
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[Review]: 日本という方法
- 2008-06-25 (Wed)
- Review
コメンテーターが「元来、日本という国は」なんて口にしたら「チープでシンプルなナラティヴ」の鋳型かもしれないと眉に唾をぬってみる。天皇制が日本史を仕切っていた歴史はなく、武士道は徳川初期や明治前期の所産とのこと。ならば、日本が単一民族国家である説にいかが答えようと問われれば、その説は『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』によって論破された(らしい)。なるほど日本の歴史の年表を眺めたとき、「○○時代」で区切られているだけで、縄文時代から現代まで一本道で描かれる。世界史に散見されるような国そのものが変わったり王朝の交代などない。驚くばかり。だからといって、一貫性を主張するのは早計だ。
そもそも日本の自信って何なのでしょうか。明治維新で得たもの? 徳川鎖国体制がしからしめたもの? 芭蕉のサビや近松の浄瑠璃? 武士道みたいなもの? 信長らしさ? 竜安寺の石庭? それともずっとさかのぼって藤原道長の王朝文化や聖徳太子あたりにあったもの? それなら、その自信はどういうものだったのか。説明してほしいものです。
私は、このような問答があるたびごとに、日本のよさやおもしろさというのは、必ずしも「自信」や「強さ」や「一貫性」にあるわけではないと話してきました。歴史のなかのどこかに強いナショナル・アイデンティティの軸の確率があったわけではなく、また数人の思想家や芸術家によって日本の代表するイデオロギーが確立されていたわけではないと私は思っているからです。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.9
いやいやそんなはずない。「一途」は確立されていないか。確かに一途ではある。同時にたいそう多様でもある。日本は「一途で多様な国」といえる。代表格は多神で多仏(ステレオタイプだけど)。天皇と将軍、関白と執権、仏教と神道、それに儒教と民俗信仰。それらがヨーロッパのように二項対立で語られない。二項同体。二極を消すように腐心した。「正」と「反」が止揚して「合」にいたる。失敗すれば二項は対立したまま残る。それはまずい。事象は根本に撞着があるからこそ次の発動をおこす原動力となる。根本撞着が新たなモノを産む。
私たちの祖先は実におもしろい。枯山水から水を抜いた。キャンバスにすべてを描き尽くす油絵と異なる日本画を編集した。水を感じたいから、墨を感じたいから「余白」を産んだ。極度に短い詩歌のスタイルをとった和歌や俳句、省略が効き過ぎた禅庭や数寄屋造りなど「静かな日本」という面影を残しているかと思うと、他方、歌舞伎や日光東照宮の装飾、派手な山車の華麗で過剰な装いなど「賑やかな日本」という顔を持つ。前者は引き算をいかし、後者は足し算をいかした。どちらが本当の日本ではなく両方とも日本だ。一見、「黒と金」や「侘びと黄金」のように対比されて説明することもあるけど、静かな日本と賑やかな日本には共通の方法が潜んでいる。主題を述語的につなげた。主語的につなげていないところがおもしろい。主語が見えにくい日本。
宗教や文化だけじゃない。東国では貫高制の金の決済、西国では石高制の銀の決済が江戸後期まで続いた。東は水田優位社会、西は畑作優位社会。道具や言葉遣いも多様だ。神主さんと禰宜さん、湯と風呂、いろりとかまど、オトトイとオトツイ。
松岡先生はそういった日本の方法を「日本の方法」ではなく「日本という方法」と表現する。
表題を『日本という方法』としました。日本が「方法の国」であってほしいと思っているからです。「日本の方法」ではなく、あくまで「方法の日本」というところが眼目です。
そんなこと、同じだろうと思ってもらっては困るのです。たとえば「映画の都市」と「都市の映画」、「仮説の作業」と「作業の仮説」はちがいますし、「数学の方法」と「方法の数学」はあきらかにちがうのです。私は、古代アジア社会から日本が自立したときすでに、東アジア的方法から日本が生まれてきたと見ているのです。第2章にその経緯に一端を詳しく書いておきました。その方法の記憶こそ母なる日本だと見ているのです。[...]
方法は主題ではありませんが、主題を包摂する数々の可能性をもっています。たとえば茶碗のもちかた、測定のしくみ、板書の書きっぷり、交渉のやりかた、刺身の切り口、摺り足の運びには、茶や料理や能の、技術や教育や外交の本質があらわれることがあるのです。いや、以前も現在も、そのようなところにこそ、日本が日本自身を編集してきた特色が静かに発露しているのだと思われます。それが私が語ってみたかった「日本という方法」です。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.317
「日本という方法」を語るのに縄文時代まで遡り、そして昭和日本の「日本の失敗」まで駆け抜ける。まさに日本の歴史を「編集」した。編集された日本は「絶対矛盾的自己同一」の葛藤に向きあってきたと読み取った。矛盾を排除せず受け入れ、かといって矛盾のまま残さず同一しようと試みる。だから二項対立どころか多項対立も決めこまない。多項同体。矛盾を同一しようなんてできるわけがないと「わかっている」のに漸進していく。その過程で創造されるはたらきを矛盾と同一の相互作用として感じとる。その感性が「日本という方法」の国の母じゃないかな。
『Pirates of Silicon Valley』という映画に登場する言葉。Steven Paul Jobsが好んで使う言葉。
「Good Artists copy, Great Artists steal」(優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は盗む)
パブロ・ピカソの名言。この言葉の意味が本書を読むと少しだけ理解できた。
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[Review]: 3分間コーチ
- 2008-06-19 (Thu)
- Review
コミュニケーション、コミュニケーションと口にするけど、コミュニケーションが免罪符になっていたり。「コミュニケーションって言っておけば問題意識を持っていると思ってもらえる」という気持ちもなきにしもあらずかな。評価制度や人事制度のサービスを眺めていると、案外、提供している側に人事や評価がなかったりする。あるいは、人が人を評価することの不可能性を評価する人が自覚しているかどうかをスルーして「制度」に萌えだったり。でないと「商品」にならないからあたりまえですが。評価する側になると、「神」になったかのように「人を錯覚する」人になる。そういう人は評価のパラドックスに気づいているのかなぁと興味津々。
<三分間コーチ>は、今すぐ可能なマネジメント手法として考えられました。一回に三分ぐらい、コーチとして部下と話す、というマネジャーにも部下にも負荷のかからない関わり方、そして、お互いに効果の上がる方法として考案され、実際に試され、効果を上げている方法です。[...]<三分間コーチ>は、次の<二つの時間>をとることを最優先させた、きわめてシンプルなマネジメント手法です。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.4
二つの時間とは、
- 部下について考える時間
- 部下と的を絞った短い会話をするための時間
であって、この二つの時間をとることを最優先にするマネジメント手法が3分間コーチ。なるほどと感じたのは、3分間コーチでなくて、3分間コーチと3分間コーチの「間」。3分間コーチのイメージは、駅のプラットフォーム。たとえば、電車が来るまでの待ち時間、あなたと部下が駅のプラットフォームで会話する。そんなイメージ。やがて電車がやってくる。乗車は仕事の実践に例えられる。そして、次の駅で降りる。乗り換えの電車や次の電車が来るまでまた会話をする。じゃぁ「間」は?
待ち時間と待ち時間の「間」、いわば乗車しているとき(=仕事の実践)に私たちは<自分の内側の会話(=セルフトーク)>を経験する。自問自答という形。プラットフォームで交わした会話のなかで反応できなかったけど頭に残っている要素がある。セルフトークは要素を問いに変換して答えを探し続けたり、要素をアイデアに育む展開に必要不可欠。答えを探し続けるプロセスや会話の内容を咀嚼するプロセスはセルフトークで生成される。セルフトークは行動に影響をもたらす。
よく、気づけば行動は変わると思われるようですが、気づいただけでは行動は変わりません。<気づき>には、いわば暗闇をサーチライトで照らすような働きがあり、それは貴重なものですが、サーチライトで暗闇を照らしただけで行動が起こるわけではないのです。ライトに映し出されたものを見て、熟考し、選択する時間が必要です。<熟考>し、次に<選択>してはじめて行動に移すことができます。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』P.46
私は「気づき」を大切にする。だけど、それだけじゃ足りないと反省。
- 「気づき」→「行動」は虫がいい話
- 「気づき」→「熟考」→「選択」→「行動」のプロセス
「気づき」は視座を変える。視点や視座の変化は解釈の幅に広がりをもたらし時間軸を長くさせる。それらの変容が行動に影響を与える。だから「気づき」が行動の原初だと私は確信しているけど、行動までの「間」を待ったり寄り添ったりする会話ができていなかったわけだ。気づきと行動の関係は上司と部下にとどまらない。ジョークのような実話を耳にすることもしばしば。たとえば、コンサルタントを入れて事業計画を作成したけど、数年経つとまるで予定が違う。で、また新しい事業計画を立てる。新しい計画は役員全員が関与して納得した。そして蓋を開けると、「途中でいろいろ予定外のことが起こった」から計画にムリがあったとあきらめる。事業計画は立派だけど実行されない組織。おしゃべりだけど会話していない上司と部下。
ほんとうの会話とは、創造以外の何ものでもありません。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.46
ほんとうの会話は「気づき」を産み、「間」を経て「行動」へ導く。だけど、そもそも気づきを生み出す「きっかけ」は何だろう? もちろん会話の量と質、ココで言うなら「3分間コーチ」の頻度と内容だ。だとしたら頻度を上げて、内容を濃くしていけば「きっかけ」が掬い取れるのかな。そのあたり根っこが気になる。
コミュニケーションが活性化するには、それなりの環境が必要です。その環境とは、談話室ではなく、イントラネットでもなく、<問いの共有>です。会社全体で、部や課で、上司部下の関係で、<問いが共有>されていることです。それによって、コミュニケーションを始める動機が生まれます。
<問いが共有>されていればこそ、問いかけに対して、自分はどのような行動をとるべきか、どのような判断を求められているのか、また、自分はどの位置にいるのか、そられを知るために、コミュニケーションを交わす必要が出てくるでしょう。いっっしょに仕事をしている人たちとの間でコンセンサスをとる必要も感じてくるでしょう。『ひとりでも部下のいる人のための世界一シンプルなマネジメント術 3分間コーチ』 P.150
<問いの共有>のための問いが問われる。ああ、ややこしい。ややこしいけどとても大切だと思う。一見、「問い」のようで「非生産的な問い」は山ほどある。あるいは、「自分は問うている」けど「相手が問うてこない」という錯覚。そもそもコミュニケーションが大切かと問われれば、YESと答えるのにコミュニケーションが放置されている。放置されていないくても、コミュニケーションが組織を疲弊させる。「関わりをつくり出せない」コミュニケーションだから。不思議な点は、コミュニケーションの質問をしたとき、「自分のコミュニケーションに問題がない」と答える人が7割以上にのぼる。いったいどうして?
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問題を切り分ける難しさ
- 2008-06-18 (Wed)
- Diary
SANKEI EXPRESSに掲載されていた記事で感じたこと。昨今の報道とからめて。「問い」が硬直化して思考停止に至る恐怖を感じたので。
温暖化が実際に差し迫っているのか、それとも杞憂にすぎないのか、ということは、しばしば「白か黒か」というイメージで論じられるが、気候の専門家の話を聞いてみると「9割」の確率で人間による温暖化が進行中、というのが科学的な実態らしい。科学には定性的な議論と定量的な議論があるが、気候学者が出してくる細かいシミュレーションの中身は門外漢にはわからないので、なかなか「9割」という意味が伝わりにくい。SANKEI EXPRESS 2008.06.15 『「偽エコ」にはだまされるな』
『99.9%は仮説-思い込みで判断しないための考え方』の著者、竹内薫氏の記事。公共放送の環境特別番組に出演して気候学者の方々と3時間ほど論戦した内容をQ&A方式で掲載。そのなかの一文。気候学者たちが提示する定量的な議論に「門外漢」とはいえ得心している様子。それに反温暖化論者の議論は「定性的な議論」にとどまっていると指摘。だけど、反温暖化の風潮にも一理あると。
「人間のせいで地球が急速に温暖化している」という科学の話と、「だから、なんでもリサイクルしようと、エコ生活しようと」という対策の話は、まったく次元が違うからだ。対策は、政治、外交、経済の分野にまたがっており、科学とは無縁のところで、ドロドロとした儲け話が「エコ」の名の元に進行していたりする。そういった偽エコ活動にだまされずに地球温暖化を防止するのは、案外、難しい。
なるほど。「案外、難しい」は言い得て妙。居酒屋タクシーも同じ。「居酒屋がなぜ悪いのか」や「税金の使途」を俎上に載せる記事は多いけど、「深夜残業」の意味を問う機会は少ない。官僚をやり玉にあげる絶好の機会といわんばかり。
では、なぜ官僚は深夜残業が多いのか。
結論的に言えば、官僚が通常の業務の他に、
政治家への対応に時間を取られているからである。
「質問取り」や「質問主意書」を丁寧に解説してくださり、長妻氏の鬼の首を取ったような態度の解説までおまけつき。ブロゴスフィアでは専門家や政治に興味を抱いている人をはじめてとして、「なぜ深夜残業が発生するのか?」という問いから出発して論じている。ブログというメディアの醍醐味。
猫猫先生も怒っている。
『週刊朝日』の見出しはひどいなあ。「若者に気をつけろ」だって。実は私にも取材申し込みがあったのだが、通り魔無差別殺傷事件のようなものは五年、十年に一度くらい、社会的に不遇な者によって起こされているもので、当人の「彼女ができない」といった言に過剰に意味づけするのは間違いである、マスコミはこういう事件に意味づけしすぎる、と電話で言ったが、どうやら採用されなかったようだ。この手の事件に若者も中年もないのである。調子に乗るのもいい加減にしてほしいものだ。
via: 猫を償うに猫をもってせよ
同感。YouTubeには白黒映像がアップされている。昭和に発生した通り魔無差別殺傷事件の報道。ずいぶん古い。私が知らないスゴ本さんも憤る。
どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。
新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。
1936年まで時代を遡り、理不尽な要求を突きつける親の「名称」を紹介。
ブロゴスフィアに棲むようになってありがたいなぁと感謝する日々。知識が増える喜びじゃない。 「私の問いの立て方は稚拙だ」という認識をもたらしてくれる。知識を過度に軽視したりさげずむのは短見だけど、まずは知識を捨て去ることからはじめた。問いをゼロベースから見直す。「他者を受け入れる」というフレキシブルな姿勢を貫いているようで、その実確固たる己を持つことを私はもっとも恐れる。なぜなら、確固はやがて硬直をもたらし、ひいては停止に至る。
ただし代償は大きい。いつまでもたっても”頼りない”わけで。わはは。
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教えない教育
- 2008-06-08 (Sun)
- Article
協和発酵工業の「教えない教育」が 眠れる能力を目覚めさせた:NBonline(日経ビジネス オンライン)になるほど。2ページ目からは会員でないと読めないみたい。ザンネン。2ページ目が響いたのに。以下。
2006年度から協和発酵が取り組み始めたのは「教えない教育」。いわゆる講義形式で一方的に教えるのではなく、受講者に自ら目標設定をさせ、様々な情報源から知識を収集させ、討論させる。その過程で学習への動機づけをし、やる気を引き出していく。「知識そのものではなく、知識の習得の方法を教えるのです」(加藤マネジャー)。こうした「教えない教育」手法は、業界では既に日本ベーリンガーインゲルハイムなど数社が取り組んでおり、効果を上げているという。
「知識そのものではなく、知識の習得の方法を教える」という点。「知識資本主義」が到来するとサローは説いたけど、どうも「消費的情報」がもてはやされているような感じ。消費的情報や知識自体はGoogle先生やWikipedia先生に任せる。GoogleとWikipediaのレイヤーでは、「教える」側は陥穽にはまりやすい。「教える」=「優れている」、置換すれば「知識」=「人」の数式を持っていると要注意。「知識」の多寡に魅了されるのじゃない。
「知識の習得の方法」、その方法を掴もうとする姿勢、その姿勢を支える欲望、欲望のベクトルに人は魅了される。
「知識」に魅了される人は答えの多い会話に頭を置き、「欲望」に魅了される人は問いの多い対話に身を置く。
タグ: dialogue, education, management「教えない」ためには、教える側のインストラクターが相当な意識改革を迫られる。「あれもこれも教えたい、口を出したいという気持ちをいかに我慢するかが最大の課題。
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雇用したことない人のパラドックス
- 2008-05-31 (Sat)
- Diary
先日、ある先生から経営の相談を受けた。文脈の前後や背景を省略するけど、私の稚拙な問いかけを先生なりに整理。すると、スタッフの問題が浮かび上がってきた。そこにフォーカスしてピントをあわせる。
ピントがあったとき、コンサルタントなら「人材育成」や「人事」のシャッターをきって快刀乱麻の手腕をいかんなく発揮するんだろうな。経営の問題を対処するとき、メソッドは有効かつ魔力を持つ。フルサイズやハイアマチュアのデジタル一眼レフのよう。使いこなせる腕を持つコンサルタントは問題を切り取りフレームにおさめる。可もなく不可もない。みごとなフレーム。使いこなせないコンサルタントはメソッドに助けられる。フレームにブレはあっても「きれいな写真」が撮れる。
経営者が気づいていようがいまいが、もっとつっこめば、望んでいようがいまいが、メソッドから経営の問題を浮彫にするアプローチは正しいと思う。メソッドは心血注いで開発したノウハウだ。たとえ「前提」が間違えていても「大勢」の経営者の役に立った実積を持つ。いかんせん、私はそんなスキルもタレントも持ち合わせていない。それを歯痒いと感じたこともない(といえばウソ、社会人になって数年間はあった)。
パラドックス、じゃない、アイロニーかな。「従業員を雇用したことがない経営者」に「ヒトの問題」がやってくる。このパラドックス(にしておこう)を体感した。体感の有無は余計なお世話だけどね。体感してクールにふるまうコンサルタント、体感に気づかない専門家、体感をスルーする山師、海千山千だ。
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Bill Gatesが語る3つの施策
- 2008-03-14 (Fri)
- Article
1,100人のエグゼクティブが集ったbreakfast。そこでBill GatesとCraig Mundieがスピーチした内容に本邦との位相の違いを痛感。Craig Mundieはマイクロソフトの最高研究戦略責任者。彼が質疑応答で語った連邦議会への苦言?!
Members of representative democracy are supposed to know how to balance those competing goals, but Congress’s decisions are “too skewed to the short term right now,” Mundie said.
「矛盾する目的」のバランスをとる方法を議会制民主主義のメンバーなら知ってるはずと前置きしつつ、今の議会は「短期の目的に偏りすぎ」と指摘してる。世論調査とのにらめっこせざるを得ず、シリコンバレーの主張を政策に組み込んでもらうのにご苦労されている様子。
ここまでは日本も同じ。財政緊縮と格差是正の両立とか。目も当てられないけど。
じゃぁ、「短期の目的」じゃなく「長期の目的」はというと、Bill Gatesが連邦議会で提言したと。3つの施策。
Gates was on Capitol Hill Wednesday morning speaking to a House of Representatives committee about the need for three major areas of action: increasing the number of H-1B temporary visas and green-card permanent visas that are allotted to high-tech workers; increasing investments in federal research programs; and focusing on ways to improve the educational system, particularly in the math and science fields.
Bill Gatesが演説した3つの施策
- ハイテクエンジニアへ発行するビザやグリーンカード枠の増大
- federal research programsへの投資の増額
- 教育、とりわけ”数学”と”科学”のシステムを改善
なんだか「目線」が違うというか。日本がこの3つに取り組む姿勢がないというわけじゃない(1.は論点が別だけど)。ただ、最近の「上げておいて落とす」ような報道や批判の矛先を眺めると、「成長」をどこに置き忘れたかのような印象。
「成長」といっても高度経済成長期のような奇跡じゃなくて、sustainable noninflationary growth(インフレなきはちょっとね…..)を構築できる「長期の目的」がもっと語られないかと傍観。
まぁ、ねじれている間に今までのウミを全部出しちゃえよと思うけど。
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感想文#2
- 2007-09-06 (Thu)
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感想文#1のつづきです。芸について600年前に記された世界に冠たる書物がありますと書きました。それは世阿弥 の『風姿花伝』です。
本の内容については、ブロゴスフィアに秀逸なエントリーを公開している方がいらっしゃいますのでそちらをご覧ください(笑)
このなかに、わたくしが心にとめている箇所があります。それが、以下です。
タグ: culture, dialogue, education, miscそも/\、花と云ふに、萬木千草において、四季折節に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。申樂も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで殘るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。住せずして、餘の風體に移れば、珍しきなり。
ただし、様あり。珍しきといへばとて、世になき風體をし出だすにてはあるべからず。花傳に出だす所の條々を悉く稽古し終りて、さて、申樂をせん時に、その物數を用々に從ひて、取り出だすべし。花と申すも、萬の草木において、いづれか、四季(折節)の、時の花の外に、珍しき花のあるべき。その如くに、習ひ覺えつる品々を極めぬれば、時・折節の當世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風體を取り出だす、これ、時の花の咲くを見んが如し。花と申すも、昨年咲きし種なり。能も、もと見し風體なれども、物數を極めぬれば、その數を盡す(ほど)久しし。久しくて見れば、また珍しきなり。花傳第七 別紙口傳 P.92
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感想文#1
- 2007-09-04 (Tue)
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いつも拝読しているM先生のブログにこんなエントリーがアップされていてびっくりした。先日、私がお話しした内容の感想文。
タイトルは「衛生士として何を学ぶべきか?」
その感想文です。
さてそのFさんのお話の真意を汲み取れたか?(笑)
Fさんいかがでしょう?
つたない話の真意をくみ取っていただけて恐縮です。わたくし自身が「自分は一体何を話し出すのだろう」とわからぬまま、「自分はそんなことを考えていたのか」と脳裏に浮かべて、脈絡のない話を口にしました。なので衛生士のお二人がどのようにうけとめていただいのか拝読でき、満腔の感謝の意を捧げます。
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自分は不要の食育
- 2007-06-24 (Sun)
- Article
時事ドットコム: 食育「自分は不要」=民間調査に過半数の母-栄養士の8割「親にも必要」
「親に対する食育」を望む栄養士は8割、「自分にも必要」と感じている母親は半数以下-。食品会社「日本ケロッグ」(東京都新宿区)が、食に対する関心や知識を高める「食育」について、全国の小学生の子を持つ母親と学校栄養士を調査したところ、両者の意識の違いが浮き彫りになった。
食育の現場にたずさわる方々もうなづく結果なのでしょうか?
このあたり営利・非営利問わず「機会」があるような印象をうけます。お子さんの歯を大切に育てる観点から、歯科医院の先生方もこの問題にとりくまれているように見聞します。
善悪の価値観はとりあえず横へ置くとして、近くのイオンに足を運ぶと、平日でもファーストフードやデザート屋さんに、「えっ、こんな時間に?!」とかお子さんが率先してキャラクターグッズを選びながらメニューを口にしている姿を、子供のいない私は結構興味深く眺めています。それぞれの家庭で諸事情はありますしね。
先日、SUGAKIYAと蓬莱の豚まんのことでパートナーと話をしていたとき、ふっと口にした言葉が残っています。というのも、私が子どものころ、大阪(東大阪市)にはSUGAKIYAはなく、それに551も豚まんよりもアイスキャンデーを食べていました。
だから、「小さいときに食べたことがないからあまり食べない」と衒いなく口にしたらパートナーは驚いた様子。でも、確かにそんな食べ物が多いような気が。
そういえば、ウソかホントか、昔、マクドナルドの創業者の話でこんなこと聞いたことがあります。
「三歳までにマクドナルドに来店させろ」
三歳までにマックシェイクやハンバーガーを食べてもらい、その味を「標準」にしてもらえれば、大きくなっても足を運ぶといった話です。
だいぶ食育から話がそれましたが、私は歯科医院のサイトをお手伝いしてますので、このあたりの情報発信や企画をお手伝いしたいところです。
食卓にならぶ野菜や総菜の「もと」を想像しながら一緒に食べる人と話をすると勉強になりますし、またどうやって作られて市場に出されるのか知ると、ほんと感謝です。
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