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そのままで結構です
- 2008-08-18 (Mon)
- Diary
こんな書店があったらいいな。
- 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
- ベストセラーが平積みされていない
- 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)
たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。
カバーと袋の有無を尋ねるように心がけている人とそうでない人の違いかと思う(身の回りのごくわずかな書店だけの話)。些細な違いだけど、何か大切な要素が含まれているようでついつい観察してしまう。その観察結果から推察した錯覚。
委託販売制が主流だから書店は場所を貸している。売れなければ返品すればいい(参照: 本の返品4割 ムダ減らせ 小学館、同一書籍で併用制 販売方法は店が選択 (1/2ページ) - MSN産経ニュース)。ベストセラーはどんどん平積みされ、過去の名作(メジャーという意味じゃなく)は書棚に並んでいない。ステレオ的なポップで目を引き、企画モノ(夏休みに読みたいシリーズや読書感想文とか)で名作(メジャーという意味)を買ってもらおうと頑張っている。それらを眺めると、本の「中身」を売っているのではなく、本を売っているのだなと納得。
自分の身の回りに目をむけると、生活の大半がRSSみたいになっている。四方八方から飛び込んでくる情報を受けて、それを返す能力は伸びる。返す能力とは、「知っている」という状態。たくさんの情報を知っている。他方、目を養うことが疎かになっている。自分で問題を考えて、自分で探す力を失ってしまったようで怖い。
本屋は偶然の出会いがあるから素敵だ。ランダムな意識からシークエンスな状態へ自分を近づける。はじめから読みたい本があるのならAmazonで注文すればいい。と、かつては考えていた。少し立ち止まってみよう。そもそもなぜ読むのか。多読はうんざりだ。「はじめから読みたい本」と書いたけど、なぜ「はじめから読みたい本」と言えるのか。「知っている」という状態から開放されるには? RSSな生活から脱獄するには?
その一歩が「そのままで結構です」。自分から伝える言葉。
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こだわるに拘泥しない
- 2008-08-08 (Fri)
- Diary
先日、 天然染料のオーガニックコットンTシャツなどを作っている手染メ屋【京都】さんでTシャツを一枚買ってきた。次は白地のTシャツを購入して手染めを教えていただくつもり。お店で手染め講習を受けながら自分で染める。はじめてお店に伺い粗相をしてしまったけど、ご主人と奥様の応対に感銘を受けた。よいお店に出会えた。帰宅後、お礼のメールを書いた。
こういうお店を紹介するとき、「こだわる」を頻用する。もうずいぶん前から指摘されている話。こだわるは「つまらないことに心がとらわれて、そのことに必要以上に気をつかう」という意味でマイナスの評価に使う単語。それが、「細かなことにまで気をつかって味覚などの価値を追求する」と意味が変わり、プラスの評価に用いられるようになった。年配の人に使うときは気をつけたほうがいいのかもしれない(とこだわっている)。
天の邪鬼なので、「こだわる」を使わずに表現しようとこだわって、「拘泥する」を使ったりする。ところがで、「そういうところに拘泥すると」なんて言い回しを口にしたら、まれに相手は、鳩が豆鉄砲を食ったようになる。拘泥という漢字が思い浮かばないのかなと思い、そのままスルーする。漢字は絵画だと実感する瞬間。
この言葉ひとつとっても会話って難しい。書けば前後の文脈で理解してもらえるし、辞書を引けばおおよその意味は通じる。だけど、「こだわる」という単語を会話のなかで使うとき、発話する方は「マイナスの評価」で使ったとして、受け取る方は「プラスの評価」に受け取ることも想定できる。極端な会話かもしれないけど(笑)
誤解を回避するために今度は漢字を使うと、混乱を招き、事態はあにはからんや。
言葉に拘泥すると伝達の手段に使いにくくなるし制限されてしまう。かといって品のない言い回しは極力避けたいし、できれば最適な意味を選択できるような言葉にこだわりたい。アレ、なんだかよくわからなくなってきたのでおしまい。
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(多数他人-自分)×意識=個人
- 2008-08-07 (Thu)
- Diary
「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483
8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。
茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」
宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」
via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ - finalventの日記
宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。
本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)
私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。via: 感情教育 (内田樹の研究室)
「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。
構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。
「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。
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自分以外は天才
- 2008-08-04 (Mon)
- Diary
人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P. 127
記憶力が良い、計算が速い、走るのが速い、高く跳べる、重い物を持ち上げられる…..世界中の誰よりも。道具を使わない状況下では「誰よりも優れている」と評価できる。「誰よりも優れている」なかの「誰か」が道具を発明して、それを使えば評価は一変する。人間は道具を使う。そして、「誰」の範囲を「何」に広げた途端、人間は「何」かよりも劣る。道具を使わない状況下、道具を使う状況下、「何」との比較、それらいずれにも当てはまらない価値を人間は持つ。人間が持つ価値。それは思考。
“天才”を思考したことがない私が、言葉に還元された「天才」に出会って、「意味」を知る。思考は言葉に還元される。こう書くと、思考は言葉によって行われるように受け止めてしまう。受け止めてしまえば躓く。それを疑問に抱くかどうか。
自分の思考を表現する手段として言葉を選択したとき、意味を判断して、必要と無用をフィルタにかけ、的確な単語を選び、適当な文字数を算出して道理の文章を脳裏に描き、発話する。それらを瞬時にフロー化できれば、接続詞はいらない。言い訳なんて単語は辞書から消えるだろう。
「人間のほとんどは馬鹿です」犀川は立ち上がりながら微笑んだ。「僕の試算では、九十四パーセント。ただし、忘れないで下さい。馬鹿は、悪いことではない。低いことでもない。卑しいことでもありません。死んでいる人間は、生きている人間よりも馬鹿ですし、寝ている人間は、起きている人間より馬鹿です。止まっているエンジンは、回転しているエンジンよりも馬鹿です。それが馬鹿の概念です」『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P.425
他者と馬鹿の概念が一致していれば、感情を考慮にいれる回数は減る。オブラートに包んで伝えるなんてフレーズは存在しない(その行為がすでに馬鹿なのだろうけど)。いや、伝えない方がいいのかも。伝える/伝えないの判断すらできないから私は馬鹿なんだ。「それは言い訳です」と相手に言えば終わる。だけど、その言葉は勇気を私に求める。相手に対する勇気じゃない。自分へ課す勇気。果たして自分はそこまで自分を制御できているのか。否、言葉と勇気を関係づける考えが愚かだ。
私は自分が馬鹿だと思っている。その集合は私一人。それ”以外”は天才。ただし、「思考」を認識できていればのお話。たぶん認識していない。だから、犀川助教授が指摘する馬鹿ではなく、私はいわゆる「馬鹿」だなと納得。
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[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉
- 2008-08-01 (Fri)
- Review
「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114
幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。
『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。
「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117
「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。
「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。
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何かのせい
- 2008-07-24 (Thu)
- Diary
たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15
「人のせいにしてはいけません」と子供のときに叱られた。「他人に迷惑をかけていけません」と子供のときに諭された。「謝りなさい」と子供のときに教えられた。大人の言葉は正しいのだろう。だけど「正しい」は世の移ろい。言葉の意味は認識する人によって変わる。「正しい」と発声した途端、言葉の内側に包まれる「正しい」は外側に広がる「わからない」を対象から隠す。内側と外側の境界に「間違っている」が囲っている。
「人のせいにしてはいけません」と言った大人は、「社会のせいにしていけません」と言わない(ゼロじゃない、断定調に自己陶酔)。それどころか「社会のせい」にしたがる人もいるぐらい。不思議だ。「人」と「社会」を使い分ける。社会は表象しづらいから制度に置き換えたり。制度も腑に落ちないなら公務員、政治家、官僚、経営者…..。集合の範囲を狭める。抽象から限定へ。限定はラベルにすぎない。「人のせいにしてはいけません」の人が構成する仕組みの名称だ。名称なら「せい」にできる。実害はない。
「正しい」の外側にある「わからない」を認識しようとしない。恐い。恐いから「何かのせい」にしたい。したいけど「人のせいにしてはいけません」という「正しい」がある。大人が「正しい」を言った。大人が言った「正しい」は彷徨い、すべての「正しい」が子供たちへふりそそぐ。そして大人は「正しい」を忘れる。自分が言った「正しい」だけを残して。
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私には関係ない
- 2008-07-19 (Sat)
- Diary
今日、JR京都駅のポルタに展示されている『洛中洛外図』 上杉本の高精細複製作品を眺めていた。そこへ警備員さんが声をかけてきた。
わかりますか? (私が少し首をかしげると)これが清水寺で…これがナニナニで、春・夏・秋・冬で…..
と説明してくれた。びっくりした。人なつっこい顔と優しい声だけにフォーカスすると説明に違和感を抱かない。だけど、首から下の容姿を認識すれば、普通なら想定外のシチュエーション。この違和感というかモヤモヤを持って帰るのはイヤだなぁと思い、無邪気を装って尋ねてみた。
よくご存じですね。
そしたら警備員さんは答えた。嬉しそうな笑顔で。こういう笑顔ができる人はステキだと心の中で思った。
いえね、学芸員さんの説明が耳に入ってくると、理解できるようになって…..それで説明をはじめました。
「説明」という単語を耳にしてギモンが頭によぎる。「説明」と「解説」は違うのだろうか? 帰ったら調べてみよう。そんなギモンから、警備員さんのふるまいを他者はどう受け入れるのかななんて連想ゲームのようにつながっていった。警備員さんのふるまいが越権行為かどうか私には判定できない。質問に答えられない場面に遭遇するかもしれない。だけど、私は警備員さんの説明を素直に聞いていた。
「私には関係のないこと」と「自分の仕事」を判定する人はいる。大半の判定基準は「量」であって、たんにやりたくないだけかなぁと思う。「与えられた仕事」みたいな幻想があって、その仕事を除けば私には関係ないことなのかも。あるいは、「役に立たない仕事」と錯覚してやらないのかと。もしそうなら、「仕事が役に立たない」と判断する自分は、世間の役に立っているのだろうかと不思議に思ったり。自分が役に立つ人だと自分自身を評価した経験がないので興味津々。「私には関係のないこと」と判断した人はたとえ手持ちぶさたであっても「仕事をしている」とふるまう。もちろん何でも引き受けろとかってわけじゃない。
警備員さんの数分の説明を聞いてから私はその場を離れた。少し距離を置いたところからしばらく洛中洛外図を説明する警備さんを眺めていた。出会った人々の反応は千差万別。驚き、訝り、喜び、作り笑い、相槌….
でも、わずかな時間の間とはいえ、なにもトラブルは起こらなかった。それでいいよなと独りごちて洛中洛外図をあとにした。
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必然の伝えると偶然の伝わる
- 2008-07-16 (Wed)
- Diary
考えていることを伝える。「それは”考える”ではない」と指摘されても。伝える手段はたくさんある。数多のなかから言葉を選択する。言葉は無限か有限か、今の私は知らない。その前に思考が無限か有限かも知らない。もっと前、「思考」をしたことがないと思う。極めて少ない己の語彙を取捨選択して伝える。伝えるは言葉を選択した者に訪れる必然。だけど伝わるのは偶然にすぎない。
伝えることを表現したとき、「伝える」とおりに「伝わる」機会はやってこない。いかように伝わっているかを知るよしもない。否、そもそも自分が発話した言葉が自分の耳に到着したとき愕然とする。「伝えることはそうじゃない」と。常に自分は遅れてやってくる。その自分に呆然とする。
Action is eloquence
必然の伝えると偶然の伝わるに拘泥したとき、我が身に訪れた。表現しているのは行為、それを言葉にした。煌びやかな逆説。
伝えると伝わるに存在する径庭。そこに伏流する言葉。そして最後に思考。最後にして原始の思考。
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何のために会うのだろう?
- 2008-07-13 (Sun)
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G8が始まったらしいと思ったら終わったらしい。「らしい」毎日を送っていたので、「らしい」を出汁に日常のギモンを。洞爺湖サミットについてネットで流し読む程度しか知らない。イギリスでは「豪華なディナーを食べながら食糧危機を語る」と非難されているらしい。日本が投じたサミットの費用は600億円。400万人のエイズ患者の年間治療代に充てられるらしい。いずれの「らしい」や「成果」に関心を持たず。メディアの論評を知らない。
ただひとつのギモン。そもそも「何のために会うのだろう?」というギモン。こんなこと誰もが抱いているギモンだからなにもブログに誇張するまでもないと思うけど。調子にのってみる。テーマはナニって意味の「何のために」じゃなく、移動について。G8の首脳が事前に日程を告知してまで一個所に集まる理由を理解できない。インターネット全盛の時代、一つの場所にわざわざ移動してきて警備をつける理由がどこになるのだろうかと。有限のエネルギを効率的に分配しようとするとき、最小の移動を考えることも必要ではないかと。
国連にIRCサーバ を置き、各国の首脳がIRCクライアントに接続すれば移動しなくてすむ。サイバーテロと盗聴への対策費用は600億円を上回るのかな。別にそんな大仰でなくてもテレビ電話でも。通訳はややこしいのかな。
メールやチャットの文字ベースに加えて、Skypeのように映像+音声といったツールはある。それにWikiやメーリングリスト、グループウェアのように議事録や会議録、記録を保管したりディスカッションするツールもある。
バーチャルかリアルかなんてナンセンスで境目がなくなりつつあるなか、「何のために会うのか?」という病識を持ち続けておけば、自分のなかの中庸がすくい取れるような気がする。
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7×7=49
- 2008-07-13 (Sun)
- Diary
『ベア速 12×12=144の素敵さ加減』のスレがたまらなくおもしろい。「7は分数にすると美しい」にうっとり。『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』に登場する真賀田四季が、西之園萌絵とかわす冒頭の会話を思い出す。書棚からひっぱりだして再読。ちなみに私はミステリィを読まなくなった(大学まで読んでいた)。「誰がどのように殺したか」に興味を抱かなくなったから。ミステリィの目的はエレガントなトリック。その目的に関心が薄れた。だけど、森博嗣先生のS&Mシリーズと真賀田四季は別格(Vシリーズは位相が違う、だけど堪能)。エレガントなトリックは手段。では目的は何か? わからない。考えろと読者に啓示しているかのよう。ゆえにいまだに再読する。答えは知っているけど、問題を考えたいから。
真賀田四季は面会に訪れた西之園萌絵に指摘する。
「いいえ、貴女は気がついていないのね。初めて九九を習ったとき、貴女は、7の段が不得意だったはずよ。幼稚園のとき? もっと小さかったかしら? 7は特別の数ですものね。貴女、兄弟がいないでしょう? 数字の中で、7だけが孤独なのよ」『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』 P.12
そして問いかける。
「[...]1から10までの数字を二組に分けてごらんなさい。そして、両方とも、グループの数字を全部かけ合わせるの。二つの積が等しくなることがありますか?」
「ありません」萌絵は即答した。「片方のグループに7がありますから、積は7の倍数になりますけど、もう片方には7がないから、等しくなりません」
「ほら、7だけが孤独でしょう?」真賀田女史が言った。 同 P.16
「7だけが孤独」って美しい響きだなぁと思った。そして7×7は49。日本人なら忌み嫌われる数字が二つ並ぶ。
孤独と孤独を乗ずると死と苦が訪れる。なんとも美しい凛とした数式だと思う。
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