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認識を認識できるか?

lake BIWA

世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

『自由論』 J.S. ミル P.132

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視る要点の差異

琵琶湖

脳科学の最終目的の一つは、意志決定のメカニズムの解明でしょう。「なぜ自分はこのような選択をするのか」という疑問は、誰にとってもいまだ明確な答が見つかっておらず、考えれば考えるほどに誠に不思議な気持ちなるのではないかと思います。

『つながる脳』 P.155

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ためらわない倫理

琵琶湖

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。

『ためらいの倫理学―戦争・性・物語』 内田 樹 P.42

僕が数週間前に書いた文章を読んで、そんなことを書いたなと思い出し、数ヶ月前に書いた文章を読んで、そんなこと書いたかなと小首を傾げ、数年前に書いた文章を読んで赤面する。バカと出会った。

まるでブロンクス動物園の鏡の間みたい。”THE MOST DANGEROUS ANIMAL IN THE WORLD”と書かれた看板。檻の中をのぞくと自分が映し出される。ウソかホントか知らない。ブロンクス動物園へ行った人へ聞いてみたい。

数年前の自分の文章を読んでバカと出会って赤面。そして、数年前に書いてある文章と今の文章を読み比べて変わっていない脈絡に出会って赤面。成長していない自分、変化のない自分、固着した自分との出会い。

なんとなく混沌。自分が書いた文章は、目の前に現れた時点で他者なんだなぁ。そう混乱してきた。だけど、書かれたことのすべてには、それを書いた誰かがいる。

誰か、は自分。羞恥。

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際際と瀬戸際

飛行機雲

「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか?この言明が真であるという根拠を私はどこに見いだしたのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ・・・(以下無限)

via: 池谷さんの本を読む (内田樹の研究室)

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No Complexity, No Simplicity.

僕は名刺をよくとっかえひっかえする。自分で作った拙い名刺の上、交換する機会はあまりないけど、開業して5年間に4回変えた。今は、英単語を書き込むシート(左側にリングを通す穴があいている)に印刷している。表は「名前」だけ。屋号も書いていない。屋号もそろそろ変えたい、というか、もう必要ないなと感じている。

名刺の裏に刻んでいる言葉。「No Complexity, No Simplicity.」

有名な某キャッチからいただいた。知覚できる事象は単純だけど、認識できない複雑や複雑にしたがる人間、単純である現象とか。複雑と単純が融合する矛盾なんて意味をこめて刻んだ。

ビスポークと呼ばれるオーダーメイドの靴がある。「ビスポーク 山口千尋」とGoogleで検索すればいい。山口千尋氏は茂木健一郎先生に尋ねる。靴を履いている時と裸足の時、どちらが快適かと。もちろん先生の答は裸足。違う。靴を履いている時だ。目から鱗の先生。その瞬間、先生の脳裏に映像が浮かぶ。ヨーロッパのホームパーティの一コマ。

「裸足で、かかとの部分を誰かに両手でやさしく包んでもらっているところを想像してください。本格的なビスポークの靴は、それくらい快適なのです」

“脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

その対価は? 驚くかどうか。僕は、最近、高いなや安いなと感じないよう訓練している。それもあってか息をのむことはなかった。それよりどうしてその対価かを記憶するよう意識している。食料品や日用品でも同じ。

今日、F先生とミーティングで話していて、ふとこれが頭によぎった。F先生と僕は価値についてよりそえるから苦労しない。仮に近似値を合意できなくても、気が置けない(誤用でないほうの意味)先生だから、かえってそれが楽しい。とはいえ、F先生以外(内側と外側含む)の人たちは異なるだろう。価格の高低に感情を露わにする。医療と価格の距離を直視しない。かまわない、そのかわり、身も蓋もない言い方になるけれど、保険制度が存在する「前提」を忘却している。今ある制度をあたりまえとせずに、一度破壊してゼロベースから枠組みを構築する。いかなる医療行為も無償じゃない。対価。お金は「交換」の役割を果たす手段としてきちんと機能している。交換は、治療のみならず。言葉の交換、礼節の交換、先生への尊敬と感謝の贈与など。

僕は、ビスポークの価値を理解できていない。先生によると、全身を構成する200余りの骨の1/4が足に集中しているとのこと。貧弱な想像力しか持たない僕は、「足」を包む靴をつくる複雑性を映像と言葉で描けない。つくづくバカだと嘆息するだけ。ため息まじりに左へと目を移す。

最後に、どうしても残る疑問を山口さんにぶつけた。
「靴下の厚さによって、履き心地も変わってきますよね。その点はどうなのですか?」
「簡単です。本当に合う靴を手に入れたら、靴下は一種類に決めて、それしか履いてはいけないのです」

“脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

質問が秀逸なら回答は素敵。

目の前に見える現象は単純、その単純を描いているのは複雑。複雑であればあるほど単純に表現する。その対価は? 高低にあらず。

それが「あたりまえ」だ、と僕は思う。

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子供の発想にはかなわない

昨日は財産コンサルタントのH氏と打ち合わせ。ウェブサイトをリニューアルするのでサンプルをご覧いただいた。イメージを膨らませてもらうため。H氏との打ち合わせで自分の観察をよく確認する。ある現象について、正しいか間違っているか、良いか悪いかじゃなく、自分が想像している範囲内か想像できない範囲か。昨日は、少し前に書いた論理的に破綻する効率的な文章の観察を確認できた。

「量」の書き手はその「量」を上回る読み手の出現によって退場を命じられる、と書いた。このときは書き手が仕入れる「情報」と「流行」の量を示したけど、「情報と流行」を知識に置き換えても同じ。知識の量に執着する人は自分の知識の量を上回る人に遭遇したとき、自分が棲む領域から退場を命じられる(仕事に限定するとですが)。この話はまた後日にでも。

H氏に先日の感想(歯科医院の院内改装に携わった)を聞いてもらった。リニューアルオープンに贈ったオモチャの話。それを選んだときの自分の視点を話した。今回のリニューアルオープンにあたり、関係者の方々は、お祝いの花を贈ってこられた(様子だった)。恥ずかしいけど、それに気づいてはじめてお祝いといえば花なのかと認識した(花を見ていた自分は赤面していたと思う)。私はというと、新しく設けられた多目的ルームにとオモチャを持って行った。自分がオモチャ好きだし、多目的ルームで遊ぶ子供たちの姿を具体的に想像できたから。それに家で遊ばないようなオモチャならオモシロイかなと思った。

ガラスの熊

選んだオモチャは、積木・カプラ 200ピースカプラ デザインブック 初級・建物。欧州のオモチャと限定していたのにけっこう悩んだ。自分で組み立てた積み木に玉をころがすオモチャがあって、何度も手に取った。その積み木はセットになっていて拡張できる。ほとんどそれに決まりかけていたけど、玉を誤飲するかもしれないと思いやめた。自分が遊ぶときと違うし、子供がいないので四苦八苦。ようやくカプラに決めたとき、200ピースで組み立てられるモノがわかればいいかと考え、デザインブックもいっしょに買った。

そんないきさつをH氏に話したとき、「子供がいないからわかりませんね」と口にしたら、H氏は、「そう思うやろ。だけど子供はどうとでも遊ぶんやで」とおっしゃりながらご子息(子女)の話をされた。少し聞いただけでも唸った。電卓が携帯電話になるなんて震えた。すごいな、子供は。

ふくろうの音楽隊

月曜日にお伺いしたとき、院長先生からお礼の言葉をいただき、子供たちがカプラをどうやって遊んでいるか聞き、また唸った。震えた。デザインブックなんていらなかった。子供たちは5分、10分ほどで「何か」をどんどん組み立てていくとのこと。すごいな。デザインブックをマニュアルにしてほしいとは思わなかったけど、「こんなものが創作できるんだよ」ってぐらいの気持ちを持っていた。だけど子供たちには必要なかった。そんなものがなくても自分たちの世界を表現できる。自分たちが作りたいモノをそのまま作っていく。

デザインブックに写っている建物より、自分たちが頭の中で描いている創造物を忠実に再現していく。あるいは(何も考えていないかのように)積んでみて、「できあがった」ものが作りたかったモノかもしれない。ほんとうに素敵だ。大人は知識と引き替えに、発想と視点を失っていく。まるで発想と視点を払って知識を買っているかのよう。子供たちはどんな服を着ていようが走る。大人はスポーツメーカーの服を着ないと走らない。

伝達できないストレスが伝える

伝達できないストレスが、頭の中の映像と文字を伝えてくれる源なのかな。ここ数日、医院のリニューアル工事に参加していた。といっても、院内のネットワークを再構築していただけ。リニューアルにともない、院内のネットワークを見直して最適化した。ネットワークのデザインを正確に描き、必要な機器を過不足なく調達して、手順書を書けば、もうおしまい。あとは作業だけ。何も考えない。今回は作業中に不具合が発生したため、それを解決するプロセスが発生したので、テクニカルな知識を習得できたけど、作業自体に価値はない。それよりも、最適化されたネットワークの意味をお客さまへ伝えるほうがはるかにむずかしい。

名前を知らない花

昨日、気になる点の確認とやり残した作業の仕上げに足を運んだ。その後、食事へのお誘い。これは予定外だった。嬉しい。ただリニューアルして間もないので、バタバタしていて申し訳ないなと恐縮。こんなとき、相手に気をつかわせないようなはにかみができればいいなぁ、といつも思う。診療後、ついこの間もごちそうになったイタリア料理のお店(JR鶴橋駅/ミエット)に行った。

ひさしぶりに院長先生との食事(いつもはスタッフの方々もいっしょ)。時間はあっという間に過ぎていく。自分の考えを伝えようとしても伝えられない。そもそも単語や文章にできない自分にストレスを感じる。でも身体を蝕むストレスじゃない。むしろ心地よいほう。適度に負荷をかける運動のようなものかもしれない。どうやったら伝えられるか、伝わるか。わかった瞬間に「わかった」は手元からスルリと抜け落ち、錯覚だったと認識する。目の前にわからないの静寂。

伝達できないストレスを感じるようになって思うこと。立て板に水のような語りや書き物は、その時々に輝いているけど、数年(ひょっとすれば1年未満も)もすれば、あれは一体何だったと首をかしげるシロモノが多い。それよりも、伝えられない(能力的な問題じゃなく)、言葉にできない部分に大切なモノがある、と思う。

昨日の食事がそう。お礼の美辞麗句をメールで書き綴っても、あのときの喜びを伝えられないし、読んでいる人にも感じとってもらえない。伝達できないストレスを感じたとき、どれだけ楽しめるか。ストレスに目を向けず、手っ取り早い「借り物の知識」に手を出してはいけないな。借り物の知識を纏った饒舌家になるより、「素敵だ」と素直に相手に伝えられるようにしたい。素敵な笑顔で。