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[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉

日本の行く道 (集英社新書 423C) (集英社新書 423C)

「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114

幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。

『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。

「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117

「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。

「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。

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顔・顔・顔

スポーツ観戦が好き。特定のスポーツ観戦じゃなく幅広く観る。といっても、「観戦」が好きじゃなく、スポーツの現象を眺めるのが好きといった感じ。眺めた現象を自分で再構成するのが習慣になっていた。「観戦」自体が好きじゃないと書く理由はあって、昨年あたりから観る機会が減ってきた。好きなら減らない(と思う)。減った理由は単純で、時間配分を見直したから。ベクトルが変わると、それに応じて費やすリソースと配分の時間は変わる。おまけに勉強(そんな大げさものじゃないけど)したいから、その分の時間を増減させないといけないので。

それでも欠かさず観るスポーツはある。その一つが全英オープン (ゴルフ) 。他にはウィンブルドン選手権モナコグランプリとか。共通点は分かってもらえるかな。今年の全英オープンは眠い目をこすってテレビにかじりついた。グレグ・ノーマン のプレーに魅了された。もちろんゴルフはやったことないのでわかるはずもなく、ひたすら表情と振る舞いをインプットしていた。

私は「顔」と「声」に興味を持っている。興味というより観察の対象のほうが適切。「顔」には滲み出る「何か」があると錯覚しているし、「声」には惹きつける(あるいは忌み嫌われる)「何か」があると誤解している。身体が感知する信号みたいな。なかなか言葉にできませんね、やっぱり。

前置きが長すぎた。興味深い記事を引用。

翌最終日の2番ホール、ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったままセカンドショット地点まで歩いていった。尾崎は、そこでいつもそうするように、ボールの後ろの芝生をドライバーで押さえつけると、クラブをアイアンに持ち替えてショットを打ったのだ。彼は、前日までも同じような行為を繰り返していた。いやそれは長年にわたる彼特有の「習慣」でさえあった。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

尾崎将司の「習慣」にノーマンは競技委員を呼んだ。

ノーマンは違った。競技委員を呼ぶと、尾崎の行為は「ライの改善」に該当する可能性があるという指摘を行ったのだ。“世界最強”で、かつ当時の“世界最良のゴルファー”からの指摘はまったくもって妥当なものであった。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

協会、主催者、同伴競技者、ゴルフジャーナリストたちが見て見ぬふりをしてきた「習慣」に対して日本ゴルフ協会の競技委員はノーマンに言い放った。

「日本と米国では芝の質が違うため、日本ツアーではそれはルール違反には当たらない」という意味不明の説明でノーマンの忠告を退けたのだ。

via: ゴルフの精神を蔑ろにする日本ゴルフ界は、ノーマンの品格に学べ|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

ノーマンは次の言葉を残して日本を去った。

「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」

今より良いクラブを常に求めた尾崎将司と同じクラブを調整しながら長く使った青木功。日本の尾崎と世界の青木。ゴルフの外側にいる人ほど対比にのめりこみやすい。対比は現象を観察するのに必要かもしれないけれど、対比の表面張力に頼ると思考はあらぬ方向へすすむ。

毎日、自分の顔と対面する。見ているようで見落としている。馬齢を重ねた私の顔を自分で認識するのは困難だ。だから他者から自分の顔を確認する。その作業を怠った顔にはなりたくないなと独りごちる。

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何かのせい

夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER (講談社文庫)

たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15

「人のせいにしてはいけません」と子供のときに叱られた。「他人に迷惑をかけていけません」と子供のときに諭された。「謝りなさい」と子供のときに教えられた。大人の言葉は正しいのだろう。だけど「正しい」は世の移ろい。言葉の意味は認識する人によって変わる。「正しい」と発声した途端、言葉の内側に包まれる「正しい」は外側に広がる「わからない」を対象から隠す。内側と外側の境界に「間違っている」が囲っている。

「人のせいにしてはいけません」と言った大人は、「社会のせいにしていけません」と言わない(ゼロじゃない、断定調に自己陶酔)。それどころか「社会のせい」にしたがる人もいるぐらい。不思議だ。「人」と「社会」を使い分ける。社会は表象しづらいから制度に置き換えたり。制度も腑に落ちないなら公務員、政治家、官僚、経営者…..。集合の範囲を狭める。抽象から限定へ。限定はラベルにすぎない。「人のせいにしてはいけません」の人が構成する仕組みの名称だ。名称なら「せい」にできる。実害はない。

「正しい」の外側にある「わからない」を認識しようとしない。恐い。恐いから「何かのせい」にしたい。したいけど「人のせいにしてはいけません」という「正しい」がある。大人が「正しい」を言った。大人が言った「正しい」は彷徨い、すべての「正しい」が子供たちへふりそそぐ。そして大人は「正しい」を忘れる。自分が言った「正しい」だけを残して。

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できる人、できない人

先週の土曜日、JR京都駅の地下にあるスターバックスへ。あいにく週末の列。店内で飲食する人は入口に並ぶ。私はスルーしてテイクアウト。数分後、タンブラーを片手に外のベンチに腰掛けた。このベンチ、店のすぐそばにあるから入口の行列とスタッフうかがえる。二組ほどが待ってる列に四人家族がやってきた。外国人。スタッフはお父さんに、「店内で飲食されますか?」と日本語で尋ねたところ、「???」がとびかう。スタッフはすぐさま切り返した。「OK」だが「All right」かのあと、

「ただいま店内が満員ですので店内をご利用なさるときはこちらへお並びください。テイクアウトならこちらから店内に進みオーダーしてください」

みたいなことを英語で説明(知らん、想像の話)。お父さんはニッコリとテイクアウトを告げ、店内に。しばらくして、ニコニコ顔の娘と息子と母親が出てきた。右手にマクドナルドのテイクアウトこんもりバージョンと左手に生クリームたっぷりカップを持って。

行列はとぎれない。常に二、三組待っている状態。そこへ男女の組。男性は両耳に補聴器をつけていた。女性の耳は私から確認できなかった。さきほどのスタッフが先の外国人と同じセリフを今度は日本語で。ゆっくりと。同じセリフをずっと耳にしていた私は速度を掴んでいる。感嘆の声をあげた。

わざと大きな声をあげるでも、イントネーションがおかしいゆっくりとした口調でしゃべるのでもない。いままで説明していた日本語の内容を同じ抑揚でテンポだけを遅めた。

先日、鎌倉へ行ったとき、横浜のHOTEL NEW GRANDに連泊した。

HOTEL NEW GRAND

三日目の朝、山下公園の海が望めるレストランで朝食をいただくとき、あくせく歩き回っているスタッフのなかで、ひとり物腰がやわらかい男性のスタッフがいた。バイキングのチケットを持っていない私はその方にお願いしてメニューを用意してもらった。そのときの説明が心地よかった。ムダがなく淡々とした語り口。それでいて冷たさを感じない。贅沢な朝食をすませたあと、部屋付けをお願いして入ってきたドアから帰ろうとすると、その男性から呼び止められた。

「お客さま、旧館にご宿泊のようですのでこちらからお帰りになられていかがでしょうか。せっかくですので」

キョトンとした私に事情を説明。優しい笑顔でやわらかい口調。男性が手招く反対の方向が旧館へ直接もどれる通路らしい。どうやらサインしたルームナンバーから察知してのこと。なるほど「旧館たる所以」を味わえた。マッカーサー元帥が執務室に使っていた客室、その隣室の318号室を大佛次郎先生が愛用されていた旧館。客室だけの堪能ではもったいない。ありがたかった。一声かけてくれて。

HOTEL NEW GRAND

旧館のロビー受付口。この階段を降り立った数々の要人の姿を思い浮かべる。旧館に宿泊できてよかったと思い、あの男性のスタッフに感謝。

できる人、できない人、両者に関心あらず。両者の差異に目を向ける。どちらに出会おうとも笑顔でふるまえと我が身を律する。

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不安で立ちどまりかけた私を

金曜日、午前中はWordPressのデザイン制作に四苦八苦。夕方からM先生とミーティング。そのまま重ね土器。城山三郎先生が不安で立ちどまりかけたとき、先生を励ました先輩作家が二人いたという。私にとってはM先生がそれにあたる。いや、最良の師。いままで幾度となく杯を重ねていただき、その時間と空間から金言を賜った。先生の言葉はしなやかに道理を詰む。不思議な感覚。言葉のひとつひとつが凛としていて、渇いた私の身体に潤いを与える。不安で立ちどまりかけた私を、前に向くよう導いて下さった。ありがたい。

相酌一刻、そこへOさんが現れた。場所が近いこともあって、M先生にお会いする前に会っていた。本日、二度目のお目通り(笑)

M先生を起点とした私とOさん、あるいはM先生とOさんのやりとりが楽しい。特に海外経験が豊富なOさんにM先生があざやかに応対する様を目の前で堪能すると、贅沢だなぁと心中にんまり。

その日はいつもより少し多めにビールを飲んだ。場所は四条河原町。いつもならタクシーに乗って京都駅までだが、どうも身体がすんなり向かわない。よほど心地よかったのだろう。四条河原町から烏丸四条へ、そして烏丸通を京都駅へとぶらぶら歩いて帰った。金曜日の夜、いくつもの集団とすれ違う。みな笑っている。そこへひとりニコニコしながら歩いてすれ違う。怪しい奴だけど、それは自意識過剰というもの。誰も見ていない。森博嗣先生の「混ぜる」が脳裏によぎる。日本人はいっしょに遊ぶとき、「混ぜる」という。英語のミックス。液体をいっしょにするときの言葉。他方、欧米はジョイン。つながる。液体の社会の日本と固体の社会の欧米。リキッドな日本人。

西之園萌絵と同じ質問を浮かべる。「現実とは何か?」

「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐに答えた。「普段はそんなものは存在しない」 『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』 P.357

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マクドナルドと老人 突然変異の若者

午前中、制作中のサイトで使うサーバーの設定に四苦八苦。今回はWordPressで制作。同時進行でもうひとつ。こちらもWordPress。WordPressのサイト構築は諸刃の剣…..かもしれない。ウェブサイトのマネジメントは効率的に。反面、クライアントはカンタンに更新できるので、私は御役御免も。ここからが腕のみせどころ。クライアントだけの更新と私が支援する更新との差異を体感してもらわなければ(笑)

午後から近所のマクドナルドへ。190円の書斎。WIRELESS GATEに契約しているからマクドナルドでネットにつながる。最近、ここを通りかかるとマック難民なる言葉が脳裏をかすめる。

「マック難民」という言葉が誕生した。ハンバーガーショップ「マクドナルド」の24時間営業店舗に「寝泊り」する人々のことで、多くは日雇い労働者風男性だが、高校生などの若年者もいる。「アパートが借りられずマンガ喫茶に寝泊りしていた人達が、単価の安いマックへ移った」という背景もあるらしい。マクドナルドも対応に困っている。

via: J-CASTニュース : コーヒー1杯で「宿泊」 「マック難民」が急増

ただし客層が記事と違う。年配の方が多い。私の前に3人の老人たち。お店側も慣れているようだけど、やっぱりテンポが合わない。で、スタッフが注文内容を聞き間違えたか、あるいは老人たちが言い間違えたか、とにかく注文した商品がでてこなかった。老人は店に苦情を申し立てる。その言い方が耳に残った。居丈高な物言いに聞こえた。私の耳は程度が悪いのであしからず。

私はホットコーヒーを注文して老人たちの隣に腰をかけた。5分ほどすると着信アリ。一人の老人が甲高い声で話し始める。どうやら今ドコにいるのかとの友人からの電話。マックにいるからおいでと。以下、つらつら書きつづるよりもよきにご想像のほどを。

耳学問で恐縮。市場は団塊世代や老人へとシフトしている一方で、その世代に隠れていた貧困がうごめいているらしい。今風にいえば格差とのこと。どこまでほんとうの話か知らないけど、マクドナルドに座る人たちを眺めてなきにしもあらずかと独りごちる。

老人を枕に言いたかったこと。それは老人そのものじゃなく老人たちのふるまい。言葉づかい、店員への物言い、食事中のしぐさ。3人から世代まで風呂敷をひろげるのは短見。とはいえ、突然変異のごとく「キレる若者」が生まれたのであるまい、と私は思う。

それを備忘しておきたかった。

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[Review]: 無所属の時間で生きる

無所属の時間で生きる城山三郎先生は四十にさしかかるころ、仕事の上でのストレスから体重が47kgにまで落ちた。その頃、三種類の睡眠薬を飲んでも眠れなかったという。三十代半ばから筆一本。不安にかられると、「なぜ、退職したのか」との悔いが顔を出した。三十代最後の年、「耐えること、耐えること、耐えること」と、三度反復したメモ(ご本人は忘却の彼方のご様子)。会社勤めを一度も経験せずに経済モノを執筆なさった。周りには「岡目八目」と韜晦。「物事を過度に考える性格」と自己分析した先生。その三十代の風景を36歳の私は脳裏に描く。

戦後最大の財界人石坂泰三を調べていて、幾日か出張するとき、空白の一日の日程を組み込んでいることに、私は注目した。

旅先で好奇心の湧いた場所や人を訪ねるためもあるが、ただ風景の中に浸っていたり、街や浜辺を散歩したり。経団連会長や万博会長など、日本でいちばん忙しい男であるはずの時期でも、そうであった。

その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。私はそれを『もう、きみには頼まない』(毎日新聞社、のちに文春文庫)の中で、「無所属の時間」と叫び、その時間の大切さを、私なりに確認したつもりでいたのにーーーーー。『無所属の時間で生きる』 P.18

政官財界の偉人には、大病を患い入院生活を余儀なくされた時期を過ごした人がいる。無所属の時間と色合いが似ている。それら偉人や城山先生と比較する気は毛頭ない。私はといえばずいぶんとさもしい無所属の時間を手に入れた。いつまで続くかわからない。ただ自分なりに無所属の時間で生きている。 まったくなにもかも違う先生と私。ひとつだけ同じモノをすくい取れた。

もっとも無所属の身である以上、ふだんは話相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声を掛ける他はない。

檄や掛声である以上、三度繰り返したり、また、毎年似たような文句を繰り返すことにもなる。

度し難い話だが、それが人間ということなのであろう。『無所属の時間で生きる』 P.127

度し難い話。うなづいた。絶えず自分で監視していると、過ぎてしまえば何ということもないモノに心配したり怯える。見えぬ姿に恐怖を先取りしたり。あらゆる方向から手をうたねばと思い、それがかえって己を惑わしたり。万事つつがなくは無縁。万事過ぎてしまって、のちに呵々大笑で呑めたら万々歳。それでいいと思っている。周りの草木がかわる景色を味わいつつ、自分は相変わらず自分に語りかけ、自分を叱る。

最近、中野孝次『人生を励ます言葉』(講談社現代新書)を読んで、

「何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず」(『徒然草』)

といったところに、マークをつけ、また、ある青年が、

「金を稼ぐつもりのものは左手で書いて、ぼくにとって大事なものは右手で書きますよ」

と言ったのに対して、ノサックが、

「その左は同じ身体についているのです。左手が触れた堕落の毒は、右手に感染するでしょう」

と答えたという話のところにも、マークをつけた。『無所属の時間で生きる』 P.128

マークをつけて自戒の日々。「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ 明日憂来らば 明日憂えん」を唱え、「一日を生きる」を大切にしようともがく毎日。ほど遠い。悶々として夜を明かしてしまうときも。翌日なにも考えずに外へ。数分歩けば歴史が現れる。歴史の場所から琵琶湖を望めばゆうに千年は変わらぬ景色を再認識。そしたら胸の渇きが薄れていく。周囲の景色に身を溶かし、五感が掬い取ってくれた水で胸の渇きを満たす。ときにはファインダーに。それだけで贅沢。

先生は言う、「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である」と。深く生きる、ステキな言葉だ。小林秀雄先生の逸話。たしか、どなたか同じ逸話を紹介していたはず、出てこない。まぁいい。これもまた深く生きた証、と私は思う。

たとえば小林秀雄さんは、ゴルフが終わった後のパーティーなどでは、ほとんど箸を手にされなかった。

一食たりとも不本意なものは口にせぬ、という主義で、空腹のまま鎌倉へ帰り、小町通りの天ぷら屋など、ひいきの店へ行くという習わしであった。『無所属の時間で生きる』 P.107

口腹の快。楽しみを知る人が通う店がおりなす街。その街も深い。深さは一日にして成らないけど、深くありたいがため一日を生きる。どれだけ深いか自身で知るよしもない。見えるわけでもない。やがて私を往来する人が気づけば幸、気づかずば修養を積めておらぬと自分を叱咤。浅学非才の身、そんな程度だろう。

城山先生は還暦にあたってメモを残された。私にはまるで五箇条の御誓文のよう。それを肝に銘じてまた無所属の時間を生きよう。

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年の功と気配り

あるときは年の功で、あるときは暴走老人!だったり、老人がフォーカスされる。

「モスバーガー」では注文を受けてからハンバーガーやポテトなどを作るために、待ち時間が5〜10分程度発生する。その時間を退屈させないのが、良いところだという。若い店員の場合は注文を受けた後はお客に背を向けて、作業に没頭してしまうが、「今日はお天気でよかったですね」といった会話をしてうまく間をつなぎながら作業をする。こうした気配りは店が教えたのではなく、自発的にやっているそうだ。同店の30代の店長や若いスタッフらは、「こうした姿勢を学ばなければいけない」といっているそうだ。

広報担当者によると、五反田東口店は駅前に立地する大型店で、お客が多く訪れ、スタッフの確保が課題だった。そこで店長がアルバイトの募集年齢を60歳に引き上げたところ、59歳の女性の応募があった。採用すると、接客が見事なことがわかり、それ以降同店では採用方針を見直し、今では60歳以上が10人にも増えた。

当時59歳だった女性店員は、10年間働いていて今では70歳。立ち仕事で体力的に厳しい面もあるが、「お客と接するのが好き」「若い人と働きたい」といい、楽しんで仕事をしている。

via: 気配り上手は評価される 60歳以上でファストフード店で働く人(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

「接客が見事なこと」がわかって採用方針を見直したところ成功した。この事例はときおりメディアでとりあげられている。シマッタなぁ、思い出していれば先週なら足を運べたのに。自分の目で見たかった。お手本となった70歳の方にお会いして聞きたい。源は?

「お客と接するのが好き」「若い人と働きたい」のも源のひとつなのかな。お客と接するのが好きだから接客が見事になったのか、接客するようになってお客と接するのが好きになったのか、あるいは気配りは親のしつけだったのかなどなど。興味がつきない。「年の功」だけで片付けてしまうと、なんだかしっくりこない。以前、F先生からフォーカスグループインタビューを依頼された。私の役割はファシリテーター。そのなかで強烈に印象に残った老人がいらっしゃった。とてもいきいきとして矍鑠たる老人で笑顔がすてきだった。その方が私に与えた影響は大きい。

ほんとによかった。88歳の女性に、「あなたにとって幸せは?」と聞いて、「今です!」と力強く、笑顔で答えられたのを目の前で見ることができて。

via: loaded <THINKSELL /> - QOL

何かを論じるとき、歳や世代をひとまとめにすると考察しやすい。だけど、それによって見落としてしまう要素もあるのじゃないかと思う。見落としてしまった要素が鍵だったり。ただ、そういう要素は暗黙知ですぐに培養できない。ゆっくり時間をかけて育まれた感性があって、自分自身でもそれに気づかない。それを周囲の人たちが肌で感じとるような。他者が承認してはじめて「形式知」になる。「おいしい」という一声で食事を鮮やかな色で描く人はいる。そんな人と食事をすれば楽しくて楽しくて時間なんて忘れる。食べたモノはしっかり覚えている。不思議だ。

モスバーガーの若い人たちが見習ってやってみたらどうなるだろう? 変なトーンの声でちょっぴり意図的な会話になってしまいかねない。そういう波長を感じとる人はいて、波長がしっくりこないと逆効果も。でもやらないよりやったほうがいい。そう思う。「おいしい」の一言は案外むずかしい。

組織は人の問題をマークシートのように解決できない。存続すればずっとつきそってくる。たいへんだ。だけど、答えのでない問題をみんなでじっくりと解いてゆく根気を失わず、何とか前を向こうとする人たちがいればそこに人は集まってくる。そうあってほしいと願う。

愛読しているブログの一コマ。いつもするどい視点で切り込んでいく姿に感嘆の声をあげていたけど、こちらもすばらしい。相好を崩した。

ああ、前に来たとき(30年前)、差し歯にしたんだったね〜
と、簡単に思い出してくれたらしい。
歯医者の受付のおばさん、畏るべし。

via: 天漢日乗: 30年ぶりの歯医者に行くと受付のおばさんが変わってなかった件

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問題を切り分ける難しさ

SANKEI EXPRESSに掲載されていた記事で感じたこと。昨今の報道とからめて。「問い」が硬直化して思考停止に至る恐怖を感じたので。

温暖化が実際に差し迫っているのか、それとも杞憂にすぎないのか、ということは、しばしば「白か黒か」というイメージで論じられるが、気候の専門家の話を聞いてみると「9割」の確率で人間による温暖化が進行中、というのが科学的な実態らしい。科学には定性的な議論と定量的な議論があるが、気候学者が出してくる細かいシミュレーションの中身は門外漢にはわからないので、なかなか「9割」という意味が伝わりにくい。SANKEI EXPRESS 2008.06.15 『「偽エコ」にはだまされるな』

『99.9%は仮説-思い込みで判断しないための考え方』の著者、竹内薫氏の記事。公共放送の環境特別番組に出演して気候学者の方々と3時間ほど論戦した内容をQ&A方式で掲載。そのなかの一文。気候学者たちが提示する定量的な議論に「門外漢」とはいえ得心している様子。それに反温暖化論者の議論は「定性的な議論」にとどまっていると指摘。だけど、反温暖化の風潮にも一理あると。

「人間のせいで地球が急速に温暖化している」という科学の話と、「だから、なんでもリサイクルしようと、エコ生活しようと」という対策の話は、まったく次元が違うからだ。対策は、政治、外交、経済の分野にまたがっており、科学とは無縁のところで、ドロドロとした儲け話が「エコ」の名の元に進行していたりする。そういった偽エコ活動にだまされずに地球温暖化を防止するのは、案外、難しい。

なるほど。「案外、難しい」は言い得て妙。居酒屋タクシーも同じ。「居酒屋がなぜ悪いのか」や「税金の使途」を俎上に載せる記事は多いけど、「深夜残業」の意味を問う機会は少ない。官僚をやり玉にあげる絶好の機会といわんばかり。

では、なぜ官僚は深夜残業が多いのか。
結論的に言えば、官僚が通常の業務の他に、
政治家への対応に時間を取られているからである。

via: 財務省タクシー接待問題はなぜ起きたのか。 - かみぽこぽこ。

「質問取り」「質問主意書」を丁寧に解説してくださり、長妻氏の鬼の首を取ったような態度の解説までおまけつき。ブロゴスフィアでは専門家や政治に興味を抱いている人をはじめてとして、「なぜ深夜残業が発生するのか?」という問いから出発して論じている。ブログというメディアの醍醐味。

猫猫先生も怒っている。

『週刊朝日』の見出しはひどいなあ。「若者に気をつけろ」だって。実は私にも取材申し込みがあったのだが、通り魔無差別殺傷事件のようなものは五年、十年に一度くらい、社会的に不遇な者によって起こされているもので、当人の「彼女ができない」といった言に過剰に意味づけするのは間違いである、マスコミはこういう事件に意味づけしすぎる、と電話で言ったが、どうやら採用されなかったようだ。この手の事件に若者も中年もないのである。調子に乗るのもいい加減にしてほしいものだ。

via: 猫を償うに猫をもってせよ

同感。YouTubeには白黒映像がアップされている。昭和に発生した通り魔無差別殺傷事件の報道。ずいぶん古い。私が知らないスゴ本さんも憤る。

どの世代(職場・教室・地域)にも「困ったちゃん」がいるように、理不尽な要求を突きつける親たちはいる。しかし、そうした「困ったちゃん」が激増しているかのような印象操作をくり返すマスコミ・ライター連を見ると、「また君か」という気分になる。根拠と数字を元に議論しようよ。

新しい名前をつけて「発見」した気になるのはコロンブス・メソッド。ちっとは過去を見ろ。ママゴン、未熟児ならぬ未熟親、「ローカルちゃん」ママ、「責任転嫁」親、廊下すずめ、いろいろな名前で呼ばれてきた。「モンスターペアレントは、どこにいるか?」ではなく、「モンスターペアレントは、何と呼ばれてきたか」なんだね。

via: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: モンスターペアレントはどこにいるのか?

1936年まで時代を遡り、理不尽な要求を突きつける親の「名称」を紹介。

ブロゴスフィアに棲むようになってありがたいなぁと感謝する日々。知識が増える喜びじゃない。 「私の問いの立て方は稚拙だ」という認識をもたらしてくれる。知識を過度に軽視したりさげずむのは短見だけど、まずは知識を捨て去ることからはじめた。問いをゼロベースから見直す。「他者を受け入れる」というフレキシブルな姿勢を貫いているようで、その実確固たる己を持つことを私はもっとも恐れる。なぜなら、確固はやがて硬直をもたらし、ひいては停止に至る。

ただし代償は大きい。いつまでもたっても”頼りない”わけで。わはは。

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雇用したことない人のパラドックス

先日、ある先生から経営の相談を受けた。文脈の前後や背景を省略するけど、私の稚拙な問いかけを先生なりに整理。すると、スタッフの問題が浮かび上がってきた。そこにフォーカスしてピントをあわせる。

ピントがあったとき、コンサルタントなら「人材育成」や「人事」のシャッターをきって快刀乱麻の手腕をいかんなく発揮するんだろうな。経営の問題を対処するとき、メソッドは有効かつ魔力を持つ。フルサイズやハイアマチュアのデジタル一眼レフのよう。使いこなせる腕を持つコンサルタントは問題を切り取りフレームにおさめる。可もなく不可もない。みごとなフレーム。使いこなせないコンサルタントはメソッドに助けられる。フレームにブレはあっても「きれいな写真」が撮れる。

経営者が気づいていようがいまいが、もっとつっこめば、望んでいようがいまいが、メソッドから経営の問題を浮彫にするアプローチは正しいと思う。メソッドは心血注いで開発したノウハウだ。たとえ「前提」が間違えていても「大勢」の経営者の役に立った実積を持つ。いかんせん、私はそんなスキルもタレントも持ち合わせていない。それを歯痒いと感じたこともない(といえばウソ、社会人になって数年間はあった)。

パラドックス、じゃない、アイロニーかな。「従業員を雇用したことがない経営者」に「ヒトの問題」がやってくる。このパラドックス(にしておこう)を体感した。体感の有無は余計なお世話だけどね。体感してクールにふるまうコンサルタント、体感に気づかない専門家、体感をスルーする山師、海千山千だ。

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