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コンテンツは卵,プロモーションは鶏?!
- 2008-08-07 (Thu)
- Article
同誌は、販売者登録しているホームレスが路上で販売。定価は300円で、このうち160円が収入となる仕組み。2003年9月の創刊から6月末までに登録した777人のうち、76人が収入を元手に新たな仕事を見つけた。
先週、四条河原町の交差点で買った。はじめて買ったときの気持ちをいまでも覚えている。
面映ゆく、欺瞞への自己嫌悪、いったい誰のため何のために買っているのだろうと脳細胞が心にインプットした。イヤだな。やがてそんな気持ちも薄らいでいった。自分のため、読みたいから。じゃぁ、誰が販売しても買うかと自問すれば、答えはわからない。矛盾を理解している。
たぶん、ホームレスというラベルに興味がなくなり、目の前に読みたい本があり、目の前の人が販売している。太古の「交換」を想像して。自分の持っている物質が貨幣でなければ、もう少し違った感情をアウトプットできるかもしれない。目の前の人は書店の人の数倍もの「ありがとう」を渡す。身体を折り曲げて。イヤって感情を抱えているときは、どこか照れがありつつ嬉しかった。その気持ちが薄らぐにつれ、照れとか嬉しさはなくなり、こちらこそありがとうにかわった。感謝と違う。「自分の読みたい雑誌を書店に行かなくても売ってくれてありがとう」と翻訳した。
「雑誌を路上販売する文化はなく、ホームレスに近づきたくない人も多い」という苦悩。でも、「なぜ路上販売してくれないのだろう」と疑い、「ホームレスはラベルだろう」と素通りすれば、抵抗はなくなる。むしろ、「路上販売がもっとふえればいいのに」と身の回りの不便を呪う。本屋が大きくなればなるほど探す時間は増え不便になる。本屋は本が売れるから総面積を大きくする。冷徹な司書が一人いればいいのに、PCを並べて検索させる。そのPCの前に人が並ぶ。並ぶというよりも並ばされているみたいだ。
販売部数は1号当たり約3万部。04年からの3年は年間1000万円前後の赤字が続いた。昨年10月、それまで200円だった定価を300円に引き上げる。懸念した部数減もなく黒字化に成功した。
200円から300円、抜群の経営だと唸った。世に経営の専門用語をまくし立てる人はいる。その人たちは経営の専門用語を発声するのが仕事だ。「100円値上げすればいいじゃないですか」と素直に進言できない。作ること、そしてコンテンツを知らないから。
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私には関係ない
- 2008-07-19 (Sat)
- Diary
今日、JR京都駅のポルタに展示されている『洛中洛外図』 上杉本の高精細複製作品を眺めていた。そこへ警備員さんが声をかけてきた。
わかりますか? (私が少し首をかしげると)これが清水寺で…これがナニナニで、春・夏・秋・冬で…..
と説明してくれた。びっくりした。人なつっこい顔と優しい声だけにフォーカスすると説明に違和感を抱かない。だけど、首から下の容姿を認識すれば、普通なら想定外のシチュエーション。この違和感というかモヤモヤを持って帰るのはイヤだなぁと思い、無邪気を装って尋ねてみた。
よくご存じですね。
そしたら警備員さんは答えた。嬉しそうな笑顔で。こういう笑顔ができる人はステキだと心の中で思った。
いえね、学芸員さんの説明が耳に入ってくると、理解できるようになって…..それで説明をはじめました。
「説明」という単語を耳にしてギモンが頭によぎる。「説明」と「解説」は違うのだろうか? 帰ったら調べてみよう。そんなギモンから、警備員さんのふるまいを他者はどう受け入れるのかななんて連想ゲームのようにつながっていった。警備員さんのふるまいが越権行為かどうか私には判定できない。質問に答えられない場面に遭遇するかもしれない。だけど、私は警備員さんの説明を素直に聞いていた。
「私には関係のないこと」と「自分の仕事」を判定する人はいる。大半の判定基準は「量」であって、たんにやりたくないだけかなぁと思う。「与えられた仕事」みたいな幻想があって、その仕事を除けば私には関係ないことなのかも。あるいは、「役に立たない仕事」と錯覚してやらないのかと。もしそうなら、「仕事が役に立たない」と判断する自分は、世間の役に立っているのだろうかと不思議に思ったり。自分が役に立つ人だと自分自身を評価した経験がないので興味津々。「私には関係のないこと」と判断した人はたとえ手持ちぶさたであっても「仕事をしている」とふるまう。もちろん何でも引き受けろとかってわけじゃない。
警備員さんの数分の説明を聞いてから私はその場を離れた。少し距離を置いたところからしばらく洛中洛外図を説明する警備さんを眺めていた。出会った人々の反応は千差万別。驚き、訝り、喜び、作り笑い、相槌….
でも、わずかな時間の間とはいえ、なにもトラブルは起こらなかった。それでいいよなと独りごちて洛中洛外図をあとにした。
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[Review]: 演劇入門
- 2008-07-01 (Tue)
- Review
演技と演出の違いを知らない。そんな浅学も演出家の仕事を読んで感銘を受けた。だけど肌で感じるような理解に至っていない。なのに平気で「演出」と口にする。これは変わらない。「演劇は誰でもそこに参加できる表現形態」であり「戯曲というものは誰もが書けるもの」だと同書は言う。ただし趣味に興ずるならばだろう。そうはいっても趣味に興ずるほど演劇は近いか。誰でもそこに参加でき、誰でも戯曲を書けるほどなのか。なぜ演劇は少なからず「離れて」いるのだろう。そのヒントは平田オリザ先生が指摘する「演劇の技術」にあるのかな。「演劇が技術ってナニ?!」って感じだ。技術なら伝えられるのか。
演劇の技術とは、「自分の妄想を他者に伝える」技術である。それが技術として確かなものであるならば、それは、ある程度の部分まで言語化できるはずなのだ。本書でまず初めに試みたいのは、これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術を、できるだけ解りやすい言葉で書き記すことである。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.5
これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術と断ずるのに驚いた。Wikipediaに助け船を出す。そうなんだ、得心。人が棲む「位置」を思い浮かべる。第一線の人から無名の戦士まで、誰もが世に棲む分野に「位置」を持つ(と私は思う)。位置は自分が定めても、たいてい他者が評価する。その位置のズレに一喜一憂。そう思うと、平田オリザ先生の「演劇の技術」を演劇界の標準値だと誤解してはならない。
リアルな台詞とは何か?
これは、相当に難しい問いかけだ。だが確かに、リアルでない台詞、説明的な台詞、もっと簡単に言ってしまえば「ダメな台詞」というものがある。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.12
舞台は美術館。主人公がいきなり入ってきて、いきなり、「あぁ、美術館はいいなぁ」と台詞をしゃべる。一見、極端な事例だと思った。そうでもないらしい。案外、この手の「ダメな台詞」は多い。物語を無造作に切り取ってしまう台詞。観客の想像力を奪う台詞。ドキリ。実生活でもそんな台詞をはいているかも。同書が問うとおり、「演劇のリアル」と「現実のリアル」は位相が異なる。現実の私が彼女と美術館に訪れて、「あぁ、美術館はいいなぁ」と口にしても周りの想像力を奪わない。微妙な空気が二人の間をほんのりと漂うだけ。他方、演劇で私が同じ台詞を口にしたらそこで終わる。ただし、同じ台詞をもう少し後、すなわち「遠いイメージ」から入ってだんだん「近づいた」ときに発話すれば、観客は「確かに」とシンクロする。言葉の不思議。コンテクストの魔力。
「あぁ、美術館はいいなぁ」の台詞をダメにしてしまうのは「リアル」の喪失。それは、「現実のリアル」と「演劇のリアル」の位相を重ね合わせる点を見いだそうとしない対話の欠如。位相を重ねるあわせるために先生は三つの問題を提起した。
- 現実世界の「リアル」と、演劇世界のリアルは、一見違うもののように思える。それはどうしてか?
- 演劇世界の「リアル」とは何だろう? また、それがあるとすれば、演劇の「リアル」は、どのように獲得されるものだろうか?
- なぜ、人は、「リアル」な演劇、「リアル」な台詞が書けないのだろう? 人間を「リアル」から遠ざけるものは何だろう?
他者とのコンテクストの摺り合わせが課題。演劇では「観るー観られる」の関係性に固定される。現実世界は「観るー観られる」の関係性が固定されていない。と、私が思っているにすぎない。現実世界だからという理由ですべてを無前提に受け入れているのではなく、無意識に世界の文脈を瞬息の間に捉え直し続けているだけだ。現実世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」には時間と空間と発話のコンテクストが無数に存在する。その存在を他者とキャッチボールしている。演劇世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」は、限定されたコミュニケーションに存在する。限定と非限定の差異が二つの「リアル」を引き離す。
演劇世界では、表現者と鑑賞者の間には、現実世界で行われるような、発語行為を伴う対話は成立しない。だとすれば、表現者と鑑賞者の間での、コンテクストの摺り合わせは不可能だということになってしまう。『演劇入門 (講談社現代新書) P.190
不可能を可能する「内的対話」。同書が打ち立てた仮説。「内的対話」は言葉なき無限の反復。現実世界は混沌に満ちている。それを演劇世界が解りやすく省略した図式で描こうとすれば内的対話は失敗する。演劇が求められているのは二つ。ひとつは、混沌を混沌のまま受け入れること。もうひとつは内的対話によって混沌の解像度を上げる作業。あとは観客がそれぞれの知性と照合して他者や外界との交点を探っていくだろう。
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[Review]: 日本という方法
- 2008-06-25 (Wed)
- Review
コメンテーターが「元来、日本という国は」なんて口にしたら「チープでシンプルなナラティヴ」の鋳型かもしれないと眉に唾をぬってみる。天皇制が日本史を仕切っていた歴史はなく、武士道は徳川初期や明治前期の所産とのこと。ならば、日本が単一民族国家である説にいかが答えようと問われれば、その説は『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』によって論破された(らしい)。なるほど日本の歴史の年表を眺めたとき、「○○時代」で区切られているだけで、縄文時代から現代まで一本道で描かれる。世界史に散見されるような国そのものが変わったり王朝の交代などない。驚くばかり。だからといって、一貫性を主張するのは早計だ。
そもそも日本の自信って何なのでしょうか。明治維新で得たもの? 徳川鎖国体制がしからしめたもの? 芭蕉のサビや近松の浄瑠璃? 武士道みたいなもの? 信長らしさ? 竜安寺の石庭? それともずっとさかのぼって藤原道長の王朝文化や聖徳太子あたりにあったもの? それなら、その自信はどういうものだったのか。説明してほしいものです。
私は、このような問答があるたびごとに、日本のよさやおもしろさというのは、必ずしも「自信」や「強さ」や「一貫性」にあるわけではないと話してきました。歴史のなかのどこかに強いナショナル・アイデンティティの軸の確率があったわけではなく、また数人の思想家や芸術家によって日本の代表するイデオロギーが確立されていたわけではないと私は思っているからです。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.9
いやいやそんなはずない。「一途」は確立されていないか。確かに一途ではある。同時にたいそう多様でもある。日本は「一途で多様な国」といえる。代表格は多神で多仏(ステレオタイプだけど)。天皇と将軍、関白と執権、仏教と神道、それに儒教と民俗信仰。それらがヨーロッパのように二項対立で語られない。二項同体。二極を消すように腐心した。「正」と「反」が止揚して「合」にいたる。失敗すれば二項は対立したまま残る。それはまずい。事象は根本に撞着があるからこそ次の発動をおこす原動力となる。根本撞着が新たなモノを産む。
私たちの祖先は実におもしろい。枯山水から水を抜いた。キャンバスにすべてを描き尽くす油絵と異なる日本画を編集した。水を感じたいから、墨を感じたいから「余白」を産んだ。極度に短い詩歌のスタイルをとった和歌や俳句、省略が効き過ぎた禅庭や数寄屋造りなど「静かな日本」という面影を残しているかと思うと、他方、歌舞伎や日光東照宮の装飾、派手な山車の華麗で過剰な装いなど「賑やかな日本」という顔を持つ。前者は引き算をいかし、後者は足し算をいかした。どちらが本当の日本ではなく両方とも日本だ。一見、「黒と金」や「侘びと黄金」のように対比されて説明することもあるけど、静かな日本と賑やかな日本には共通の方法が潜んでいる。主題を述語的につなげた。主語的につなげていないところがおもしろい。主語が見えにくい日本。
宗教や文化だけじゃない。東国では貫高制の金の決済、西国では石高制の銀の決済が江戸後期まで続いた。東は水田優位社会、西は畑作優位社会。道具や言葉遣いも多様だ。神主さんと禰宜さん、湯と風呂、いろりとかまど、オトトイとオトツイ。
松岡先生はそういった日本の方法を「日本の方法」ではなく「日本という方法」と表現する。
表題を『日本という方法』としました。日本が「方法の国」であってほしいと思っているからです。「日本の方法」ではなく、あくまで「方法の日本」というところが眼目です。
そんなこと、同じだろうと思ってもらっては困るのです。たとえば「映画の都市」と「都市の映画」、「仮説の作業」と「作業の仮説」はちがいますし、「数学の方法」と「方法の数学」はあきらかにちがうのです。私は、古代アジア社会から日本が自立したときすでに、東アジア的方法から日本が生まれてきたと見ているのです。第2章にその経緯に一端を詳しく書いておきました。その方法の記憶こそ母なる日本だと見ているのです。[...]
方法は主題ではありませんが、主題を包摂する数々の可能性をもっています。たとえば茶碗のもちかた、測定のしくみ、板書の書きっぷり、交渉のやりかた、刺身の切り口、摺り足の運びには、茶や料理や能の、技術や教育や外交の本質があらわれることがあるのです。いや、以前も現在も、そのようなところにこそ、日本が日本自身を編集してきた特色が静かに発露しているのだと思われます。それが私が語ってみたかった「日本という方法」です。『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 P.317
「日本という方法」を語るのに縄文時代まで遡り、そして昭和日本の「日本の失敗」まで駆け抜ける。まさに日本の歴史を「編集」した。編集された日本は「絶対矛盾的自己同一」の葛藤に向きあってきたと読み取った。矛盾を排除せず受け入れ、かといって矛盾のまま残さず同一しようと試みる。だから二項対立どころか多項対立も決めこまない。多項同体。矛盾を同一しようなんてできるわけがないと「わかっている」のに漸進していく。その過程で創造されるはたらきを矛盾と同一の相互作用として感じとる。その感性が「日本という方法」の国の母じゃないかな。
『Pirates of Silicon Valley』という映画に登場する言葉。Steven Paul Jobsが好んで使う言葉。
「Good Artists copy, Great Artists steal」(優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は盗む)
パブロ・ピカソの名言。この言葉の意味が本書を読むと少しだけ理解できた。
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[Review]: モードの迷宮
- 2008-04-04 (Fri)
- Review
一昨日、NHK 番組たまご 東京カワイイ★TVを視た。オモシロイ。「カワイイ」は世界中で”そのまま”使えるらしい。P.ヒルトンを世界のセレブが東京へやってきては、「カワイイ」を連発していた。こういう現象は、言葉と意味が対にならないときに生じると思う。「カワイイ」という概念を表現する言葉がないのかなぁと思いながら視ていた。
不思議な気分。衣服の機能性を大きくかけ離れたり、本来の役割を果たしていない布に惹かれるひとたち。驚いたのは男性が購入したパーカー。沢村一樹さんはパーカーのキャラクターを指さし「サメ?」と尋ねた。私にもそう見えた。違った。パンダらしい。それが29,400円。番組によると、このブランドに若者は列をなすだって。20代以下の新車離れを映像から納得できた気分。
衣服の多くは布で仕立てられている。衣服は身にまとうものであり、さらに身体はたえまなく動くものだから、衣服の素材としては、軽くて伸縮性があり、身体の動きに合わせてそのつどシルエットを変化させることのできる布地がもっとも適している。これは機能性という観点からしえ自明のことだ。布地が裁断され縫い合わされてひとつの衣服に仕立てられ、それをいざみにつける段になれば、ある程度の遊びをのこしながらもだぶつかないようにまとめ、絞り込み、ずり落ちないようにどこかで留め、固定しなければならないというのも、これまた当然のことだ。そしてその場所は、首や腰など身体のくびれた部分が適しているということも。『モードの迷宮 』 P.33
自明であるずがどうやらそうでもない。ネクタイやベルトは衣服をまとめて留める機能から逸脱して、「縛る」といった働きへと転換している。衣服の領域を超えて身体へと及んできた。テレビの前に映る若者も。機能性を無視した衣服。顔のいたるところに穴があいている。果ては携帯電話に「衣服」をまとわせている。それを「カワイイ」という。携帯電話と衣服。まるで携帯電話を自分の身体の一部と化しているかのように。
とはいえ、モードの「身体への攻撃」は今に始まったことではない。19世紀には、体中を雁字搦めに拘束して、包み隠した。歪めた。異様に細い腰。肋骨が変形してまでも流行したコルセット。それが当時の美。
日本も同じ。吉原の太夫。花魁道中でえがくハの字に人々は見せられる。太夫は「オリジナル」の八の字を描くべく探求する。視線が注がれる先にあるのは八の字を描く「高下駄」。異様なまでに高い下駄。30cmにも及んだ。介添人なしでは歩けない。ゆっくりとゆっくりと、その姿が痛々しい。悲痛と凜、それが太夫の美をきわだたせる。
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いか焼きってご存知ですか?
- 2008-02-04 (Mon)
- Diary
猛烈に風月のお好み焼きを食べたい と書いたところ、ご覧になってくださったある会社のメンバーの方からつっこみが。その方々と会議終了後に飲みにいくことになって、「大阪粉もん文化」が話題に。
メンバーのなかに福井出身の方がいらっしゃって、「いか焼き」は「いかの姿焼き」と思っていたとのコメント。ここにも一人いらっしゃったか。やはり。大阪人以外で「いか焼き」といえば「いかの姿焼き」と想像する人はかなりの率で高いと確信。京都は微妙。
「な、なんですと〜」と驚かず。その後のレスポンスにひっくり返った。
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感想文#2
- 2007-09-06 (Thu)
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感想文#1のつづきです。芸について600年前に記された世界に冠たる書物がありますと書きました。それは世阿弥 の『風姿花伝』です。
本の内容については、ブロゴスフィアに秀逸なエントリーを公開している方がいらっしゃいますのでそちらをご覧ください(笑)
このなかに、わたくしが心にとめている箇所があります。それが、以下です。
タグ: culture, dialogue, education, miscそも/\、花と云ふに、萬木千草において、四季折節に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。申樂も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで殘るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。住せずして、餘の風體に移れば、珍しきなり。
ただし、様あり。珍しきといへばとて、世になき風體をし出だすにてはあるべからず。花傳に出だす所の條々を悉く稽古し終りて、さて、申樂をせん時に、その物數を用々に從ひて、取り出だすべし。花と申すも、萬の草木において、いづれか、四季(折節)の、時の花の外に、珍しき花のあるべき。その如くに、習ひ覺えつる品々を極めぬれば、時・折節の當世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風體を取り出だす、これ、時の花の咲くを見んが如し。花と申すも、昨年咲きし種なり。能も、もと見し風體なれども、物數を極めぬれば、その數を盡す(ほど)久しし。久しくて見れば、また珍しきなり。花傳第七 別紙口傳 P.92
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感想文#1
- 2007-09-04 (Tue)
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いつも拝読しているM先生のブログにこんなエントリーがアップされていてびっくりした。先日、私がお話しした内容の感想文。
タイトルは「衛生士として何を学ぶべきか?」
その感想文です。
さてそのFさんのお話の真意を汲み取れたか?(笑)
Fさんいかがでしょう?
つたない話の真意をくみ取っていただけて恐縮です。わたくし自身が「自分は一体何を話し出すのだろう」とわからぬまま、「自分はそんなことを考えていたのか」と脳裏に浮かべて、脈絡のない話を口にしました。なので衛生士のお二人がどのようにうけとめていただいのか拝読でき、満腔の感謝の意を捧げます。
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[Review]: トラフィック
- 2007-05-25 (Fri)
- Review
「もっとも印象に残るラストシーンをひとつあげなさい」と問われたら、指折り数えるなかでこの映画がまっさきに折られるだろう。場所はTijuana、夜の公園に照明がともされ、子供たちが野球をしている。ごくごく平凡なラストシーン。でも、2時間以上にわたって観てきた私は、このささやかな情景が特別な未来をもたらす可能性を秘めていることに気づかされる。
アメリカを揺るがし続けて久しい麻薬犯罪コネクション。そのルートのもとであるメキシコで、組織に翻弄(ほんろう)されながら職務をまっとうしようとする捜査官(ベネチオ・デル・トロ)、アメリカで麻薬ぼく滅に乗り出す国家の責任者(マイケル・ダグラス)と麻薬におぼれるその娘、また夫を救うために麻薬ルートに手を染めざるをえなくなっていく妊娠中の専業主婦(キャサリン=ゼタ・ジョーンズ)などなど、多彩なドラマを同時並行させながら、麻薬戦争の全貌を追うスティーブン・ソダーバーグ監督の問題作。『トラフィック』
英語のトラフィックは交通を意味する。IT用語では、「流れる情報量」を表す。なぜタイトルが「TRAFFIC」 なのか?
動詞は”trafficking “、意味は”売買(取引)する”。リーダーズをひくと、《特に不正な》と前書きしてある。そして、”drug trafficking”は”麻薬密売”と訳される。麻薬取引をテーマにしているので、そこから付けられたのかもしれない。また、邪推するに、劇中には司法や情報の「取引」が映像化されている。これも含まれているのではないか。
でも、おそらくもう一つの「売買取引」の意味もこめられているのではないか。それが、人身売買(=human trafficking)。
群像劇。詳細はWikipediaに。それぞれの舞台でドラッグの深刻な問題とそれがもたらす悲劇が繰り広げられ、最後はひとつの舞台に交わってくる。
- 誰が、麻薬を密売し
- 誰が、麻薬に手を染め
- 誰が、麻薬を取り締まるのか
が無情にも淡々とつづられている。家庭にはドラッグに手を染めた娘がいて、自身が麻薬を取り締まるマイケルダグラスが言う。
「この(麻薬)戦争を徹底させれば、多くの家庭のなかで戦争がおきるだろう。家族を敵とみなせとは私には言えない」
この言葉の裏側には今も続く無情な現実が存在するのかと私は受け取った。日本でもここ数年、覚醒剤以外のクスリが流通し、それを過剰摂取する若者の問題が取り上げられている。つい最近では少年誌マガジンがドラッグの問題を二週にわたりとりあげた。
もう一度、ラストシーン。 ティファナの子供たちが夜の公園で照明の下、野球をしている。日本では「もう夜遅いから帰りなさい」といった声がかけられるかもしれない。とはいえ、それらの風景は日本ではあたりまえだ。
あたりまえのことがあたりまえでなく、さらに、少しの”光”があるだけで、未来が変わるかもしれないところに深く魅せられた。
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見えちゃっている
- 2007-05-06 (Sun)
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前回レビューした想像のレッスンに、「見えちゃっている」へ苦言を呈する一節がある。
「見えちゃっている」というあの言葉には、<わたし>の生を編む偶然の出逢いとそれに由来する存在の特異性への予量が欠けている。ひとの生は、まっすぐな一本線でではなく、異なる出逢いの断続というかたちでしかイメージできないはずのものである。〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015 P.159
「見えちゃっている」という一言で「定型化」された未来を語る。「定型にそって一生を紡ぐ」ことを不遜だと言うのではない。「見えちゃっている」という言葉には、決定的に欠けているものがある 。”それ”を不遜だと抵抗する。欠けているもの、それは「”偶然”をすべて欠落させて人生を語る」行為。
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