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[Review]: ぼちぼち結論

ぼちぼち結論 (中公新書 1919)表題が妙味。2001年から7年にわたって『中央公論』に連載した「鎌倉傘張り日記」が終了した。ここから『こまった人』『まともな人 (中公新書)』が出版された。7年間、日本の社会も変わったし、私自身の意見もずいぶん違ってきたと先生は言う。計3冊の読後感は「ずいぶん違った」と受け取らなかった。ということは、筆者と読者の私に差異がある。この差異がオモシロイ。相手は自分の主張をどう受け取るか? そんなものコントロールできない。そこから伝達がはじまる。

まだなんとか死なずに生きているが、あとは付録にすぎない。もっとも世間がこの先どうなるか、まだ見てみたい気持ちはある。予想通りになったのでは面白くない。予想が当たれば嬉しい。そういう矛盾した二つの気持ちを抱えたままである。『ぼちぼち結論(中公新書 1919)』 P.241

もともと社会的関心が高くなかった養老先生。だけども7年間、あまたの社会的事象を見てブツブツと書いてこられた。どこまでホンネかわからない。養老先生と対談した内田樹先生は、対談の大半を掲載できないとどこかで書いていらっしゃった。ラディカル”すぎる”らしい。編集もできない。ナマをご覧になった声から察するに毒をおさえた執筆なのだろう。それが7年間、自家中毒もころあいかと邪推。

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[Review]: すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会 (新潮文庫 こ 39-1)テレビの司会者とコメンテーターに首をかしげたことありません? 「どうしてこの人にその質問をするのだろう?」とか「どうしてこの人にコメントを求めるのだろう?」って。テレビって素人目にもオカシイことがフツーなの?! たとえば金融の専門家に犯罪とか謝罪会見とか親論なんか尋ねてたり。エエ〜と思うのは、独身の人が親子論を滔滔とまくたてる画面。そういうとき思うわけデス。ひとつの専門的知識を持っている=全人教育を受けたかのように錯覚させるのはどうかなぁと。まぁ、錯覚するのほうにも課題アリですけど。

私は昔から、政治家が政治をやるのは許せるが、学者が政治をやるのは許せない、と思ってきた。同じように、高卒や短大卒の者が仮に知識・教養において劣っていても当然のことだが、有名大学や大学院を出て、なお愚であるとすれば、それをもって真の「愚民」と呼ぶべきである。『すばらしき愚民社会』 P.303

私は大阪経済大学卒業。なので猫猫先生の主張によると三流大学卒。うっ、まさにそのとおり。だから「学士」の称号を与えてもらうのは失礼な話。おまけにそのバカが意見を言うようになってきた。だから始末に負えない。ウンウンそのとおりと納得。どうして納得か? 本書の醍醐味は多数の実名を一刀両断しちゃうところ。それぞれの主張を批評する。その批評たるや容赦なき。批評って難しいですよ、ホント。ってしたり顔で書くコト自体、”バカ”な愚民の証なんですけどね。でもいやマジで、膨大な知性と自己を知覚する叡智を宿していないと批評なんてできやしない。だから得心。

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[Review]: 脳のシワ

脳のシワ (新潮文庫)『脳のシワ』を読んだ。ふと書棚に目をやり養老孟司先生の著書をずいぶん読んできたんだなぁと気づく。とはいえ専門分野の書籍(『唯脳論(ちくま学芸文庫)』を除く)は読んでない。わかる・わからないすら判断できないのでふれてもムダだから。じゃぁなぜ読むか? 対偶がすぅと身体に入ってくる快感。それを忘れられない。あとは、先生のワガママか。先生曰く、「河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った」という言動は意地悪ばあさんみたいで諧謔にみちあふれている。現象から本質をつかみ取る毒舌ここにあり。

現代社会ほど死が語られ、そのわりには死の蔭が薄い社会はない。昨年、必要があって『平家物語』を読み直した。うかつな話だが、この物語がまさに死者の書であることに、やっと気がついた。ほとんどすべての登場人物が死ぬのである。人が死ぬことはわかりきったことだが、現代人は自分が死ぬとは思っていない。死について語れというが、それだけに自分が死ぬとは本気で思っていないのである。本気で思っていれば、他人から死の話を聞く必要などない。死はそれぞれだからである。P.36

先生が指摘するように私も「死に触れた」ことはない。肉親も含め、誰の臨終にも立ち会っていない。小学5年生のとき臨終直前の祖父を見舞った。末期癌でほとんど反応できない祖父に私が大きな声でよびかけ手をにぎったとき、かすかに口元がゆがんだそうだ(私は覚えていない)。

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[Review]: 正しく生きるとはどういうことか

正しく生きるとはどういうことか (新潮文庫 い 75-3)前作、『他人と深く関わらずに生きるには』と比べても内容に大差はない。ただ、いくぶん受ける印象が変わった。理由は前景に思想がおかれたから。前作は後景に思想があった。思想を前景か後景のどちらに描くかは、作品の仕上がりに影響を与える。こうも様変わりするとすこしばかりのけぞった。前景化された思想を原理主義に染めないようにコントロールするのは難しい。その手綱さばきを味わえる一冊。

じゃ、何が書いてあるかって。善く生きるための原理が書いてあるのだ。原理といったって別に難しいことじゃないよ。善く生きるやり方は人によって様々だし、同じ人だって、状況によって変わることもある。[...]この原理をひとことで説明することはできない。ひとことで説明できるのなら本を書く必要なんてないからね。でも、あえて言えば、自分なりの規範を決める、ということかな。『正しく生きるとはどういうことか』P.8

池田清彦先生は「自分なりの規範」という。私はこれを規矩と読む(正解かどうかはわからない)。自分なりの規範は道徳や倫理と違う。道徳や倫理は他人が決めた規範だ。本書のいう規範はあなたが決める。

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[Review]: 他人と深く関わらずに生きるには

他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)『やがて消えゆく我が身なら』が「身も蓋もない話」なら本書もやはり身も蓋もない話だ。ただ、それを「身も蓋もある話」に変換する知性が私に求められる。歯に衣着せぬ物言いが心地よい。

他人と深く関わらずに生きる、とは自分勝手に生きる、ということではない。自分も自由に生きるかわりに、他者の自由な生き方も最大限認めるということに他ならない。[...]他人と深く関わらずに生きるためには、とりあえずは世間という呪縛から自由になる必要がある。
世間で流通している常識なるものをまずは疑ってみる必要がある。その上で、納得できることは受け容れて、納得できないことはイヤだと言えばよいわけである。世の中には様々な人がいる。[...]これらの人が、皆それなりに幸せに生きるには、互いに相手の自由を尊重する必要がある。しかし、自分にある程度の余裕がなければ、他人の自由を尊重するのは難しい。『他人と深く関わらずに生きるには』P.5

本書は第一部と第二部の二部構成。第一部は他人と深く関わらずに生きるためのヒントが書かれている。

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[Review]: 逆立ち日本論

逆立ち日本論 (新潮選書)

この対談では、内田さんに大いに語ってもらいたかった。だから私は聞き手のつもりでいた。内田さんの発言は長くなっている部分があるのは、そのためである。あたりまえだが、自分の発言なんて、自分にとっては、なんの参考にもならない。しかも古希に近くもなれば、他人にとっても参考になるかどうか、あやしいものである。それでも相づちだけでは対談にならないから、いわずもがなのことをブツブツと述べた。『逆立ち日本論P.6

『街場の中国論』の書評で、養老孟司先生が内田樹先生の思考を「対偶」と評したことについてふれた。それが本書。対談中に登場する。

養老: この人はぼくと同じ考え方をする人だと勝手ながら感じました。考える経路が似ているのではないかと思ったのです。ぼくはそれを「対偶」の考え方と呼んでいます。「AがBだ」というときに、「AがBではないとは、どうしたらいえるだろうか」と、反対側から考えてみるんです。「逆さまから考える」と言ってよいのかもしれません。P.41

対談しているお二人には、共通項が二つある。

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[Review]: おいしいハンバーガーのこわい話

おいしいハンバーガーのこわい話

この本には、食品に加える香料の味見役をしている子たちや、牧場を守るために賢明に働くティーンエイジの女の子、家計を支えるために長い時間ファーストフード店で働く女の子、ファーストフードを食べすぎて胃のバイパス手術を受けた男の子など、さまざまな子どもの話が出てきます。みんな、ファーストフードが大きな力を持つようになったせいで、多かれ少なかれ影響を受けた子どもたちです。そんなファーストフードの代表格、ハンバーガーを発明したのが、ティーンエイジの少年だった、というのも興味深い話です。『おいしいハンバーガーのこわい話』 あとがきより

ファストフードが世界を食いつくすの著者がティーン向けに描いたファーストフード業界の書。イラストとは裏腹にブルっと身震いする内容が淡々と記述されている。目を引いた箇所をほんの少しけだけ列挙。

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[Review]: 官僚とメディア

官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62)ニュースや新聞の見方を再考させてくれる一冊。

事件記者たちが 当局の捜査を批判する記事のスタイルを持っていないのは、日本のメディアの報道が「客観報道主義」に基づいているからだ。記事のスタイルはこの客観報道主義に基づいて交通事故や窃盗事件から誘拐殺人のような大事件にいたるまでそれぞれに応じて決められており、新人記者はそれを覚え込まされる。『官僚とメディア P.116

新聞原稿にはスタイルがあり、それは学生時代に書いてきた文章とはまったく違う。火事には火事の 、殺しには殺しのスタイルがあるという。このスタイルにそって記事を書かなければならない。

記者の「主観」は排除される。徹底して主観の視点が排除され、官庁が集めたデータや、官庁の見方に依拠する。だから「誤報」はあり得ない。当局発の情報に依拠しているから間違えないという論法だ。

ただし、その姿勢が時に「官庁の広報」と化す。

さらに日本のメディアの特質を形成している要因がひとつある。それが、記者クラブ制度。

新聞やテレビが流す情報の七・八割(私の実感に基づく推測値)は各種の官庁から供給されている。記者たちの多くが官庁のなかに設けられた、閉鎖的な記者クラブに所属し、そこで役人のレクを受けたり、役人宅に夜討ち朝駆けをかけたりして情報をとる。記者たちに要求されるのは官庁情報をいち早く簡潔に、しかも正確に記事化することだ。それができる記者は優秀とされ、そうでない者には「ダメ記者」の烙印が押される。同P.120

風邪薬に中国産毒性物質混入されていた海外ニュースがどうして報じられず、ペットフードの記事も旧聞になってから朝日が報じる程度。その理由も本書によって氷解した。

「メディアは情報幕僚の一役を担ってもらいたい」———-そんな官僚の算段が見え隠れするし、メディアも確信犯的ふるまいに終始していないか。そこに”なれあい”が生まれ、批判を排除された客観的事実が流される。

しかし、それは果たして客観的事実なのか。主観/客観を形而上学的に論じれば甲論乙駁となる。それを捨象したとして、マスコミが報道する記事は、官庁が編集した主観的事実のように私には映った。

本書には「耐震偽装問題」が登場する。人心を惑乱させるかのように飛び交ったメディアの報道はいったい何だったのか。当初から政財官のトライアングルを報じようとした。しかし、蓋をあければ姉歯の個人犯罪だと裁かれている。「姉歯の個人犯罪 」という見解の一部始終が本書で述べられている。

私は新聞も読むし、ニュースも視聴する。とはいえここ数年、それに割く時間が激減した。メディアリテラシーという単語で片付けるのではなく、じっくりと立ち止まって考える時間と空間が必要だと思う。

ジレンマは事件の一次情報を自ら取得できないということ。こればかりはマスコミの「広報」に頼らざるを得ない。そこに「気づいた」とき、ジレンマを抱えたが、今は違う。

もう新聞やテレビから自らを遠ざけていけば、痛痒を感じない。無関心ではなく、何を取捨選択するのかを、日々の事件や事故から吟味するのではなく、ひとつ次数をあげた視座から掬い取れるようになりたい。それを再認識させてもらった一冊。

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[Review]: 下流志向

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

先日もふれたけどくりかえす。多くの者が「方法」を知りたがり訊くけど、「なぜその方法なのか?」と意味を問う者は少ない。その「意味」のとば口に立たせてくれる一冊。「学び」は学術用語ではなく、ビジネスにも通用する行動だと思う。「学び方」を探求しようとする組織は常に進化している印象をうける。

自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する。そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができます。ですから、一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができます。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにあるからです。『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』 P.152

私が支援している歯科医院のミーティングに参加したり、院長先生から話を伺うとき、まず二つの事象に切り分ける。それが、「学び方」を模索しているかどうか。模索しているところは漸進している。

他方、模索していないとき、「そもそも学び方に気づいているのかどうか」に耳を傾けないといけない。そこで「設問する能力」が求められる。この「問題」について内田樹先生は『メノン』を引用する。

「問題」というのは、よく考えると、実はそれ自体が逆説的なものです。というのは、解き方がまるでわからない問題はそもそも「問題」としては意識されないし、解き方がすでにわかっているなら、それは「問題」ではないからです。つまり、僕たちが「問題」と呼んでいるのは解き方がわかりかけているけれど、まだ完全にはわかっていないような問題のことなのです。同P.153

「学び方」を探求している歯科医院は「学び方」を全員で共有する。あるいは共有しようと試行錯誤する。その過程によって以心伝心が強化される。その空間に「学び方」を知らないスタッフが加わったとき、「調和」が崩れる。そこで真価が問われる。

「わからないこと」を「わからないまま」に維持して、自分たちの知性の活性化に利用すべくそのスタッフに接するか、それとも「わからないこと」を気にしないかによって、行く手がわかれる。

専門家は顧客の質問全てに解答できる。それ自体すばらしいことだと思う。高度に専門的な知識を必要とする領域では重宝される。しかし、私はそのような領域に棲息していないので、「聞かれることすべてに答えてくれる専門家」を必要としない。

むしろ私には「完全にはわかっていないような問題を設問する」人が必要だ。私の少ない経験だけで愚考すると、そういう方々は、「何を質問しなければならないのか」を頭の片隅に置いている。そして、その「質問」が「発見」をもたらしてくれ、「共感」を与えてくれる。

手元にある本書は発売日に購入したので今第何版かわからない。でも、内田樹先生の著作の中で平積み期間が長いような気がする。そんな雰囲気から「学び方」に飢えている人も結構いらっしゃるのかなぁと感じたりするけどどうなのでしょう(タイトルも「釣り」的で上手ですが…)?

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