Home > Tags > cognition

cognition

思うほど時間は残されていない

日本人の平均寿命は、男性79歳・女性85歳らしい(平均に意味はないと思うけど)。人間はだいたい80年くらい生きるらしい。約3万日(29,200日ほど)。そのうち1/3を睡眠やぼぅっとしている時間としてまとめて過ごしたとしよう。27歳まで寝ていたことになる。今、36歳だからようやく9歳。奇跡的に平均寿命まで生きても残り2万日しか残されてない。平均寿命まで生きるなんて考えるのはムダだし、生きるわけないのでもっと少ないだろう。

朝顔

違う角度から。約3万日を1/365に縮小して(1年を1日で考える)、約80日間生きたとすれば、人間の一生は3ヶ月に満たない。1月1日に生まれたら桜が咲く頃には死んでいる。この手の縮尺を考えるとき、地球誕生から現在までを一年に縮尺するカレンダーがよく用いられる。地球誕生を1月1日の0:00とすると、11月29日頃に植物や恐竜が現れ、人類が誕生するのは12月31日の23:00前後になる。近代科学は23:59ごろ。

自分の一生を換算すると1秒も生きていない。平均寿命なら0.5秒ほど。一瞬だ。3ヶ月弱の縮尺でも1時間は約10秒ほどある。一瞬ではない。1時間を10秒ほどで過ごした錯覚に襲われるような経験はあるだろうし(私の場合、”SO”と過ごしたときそう感じた)、10秒を1時間で過ごすムダもある。

枯れた花

時間に焦ったり、時間に後悔したりしない。ただ時間とは何かと考えているだけ。あとは自分のやりたいことがあって、残りの時間を換算したとき、何を削らなければならないのかが自ずと見えてくる。身の回りをどんどん削っていき、自分のやりたいことに注力する環境をつくっていく。まだもう少し時間がかかる。焦ってはいけない。2万日も残されていないのだから。一瞬のできごとだ。のんびりしながら急ぐとしよう。

タグ: , , ,

関連する投稿

(多数他人-自分)×意識=個人

今はもうない―SWITCH BACK (講談社文庫)

「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483

8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。

茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」

宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」

via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ - finalventの日記

宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。

本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)

私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。

via: 感情教育 (内田樹の研究室)

「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。

構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。

「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。

タグ: , , ,

関連する投稿

[Review]: 日本の行く道 - 錯覚すると恐ろしい言葉

日本の行く道 (集英社新書 423C) (集英社新書 423C)

「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[...]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114

幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。

『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。

「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117

「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。

「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。

タグ: , , , , , , ,

関連する投稿

何かのせい

夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER (講談社文庫)

たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15

「人のせいにしてはいけません」と子供のときに叱られた。「他人に迷惑をかけていけません」と子供のときに諭された。「謝りなさい」と子供のときに教えられた。大人の言葉は正しいのだろう。だけど「正しい」は世の移ろい。言葉の意味は認識する人によって変わる。「正しい」と発声した途端、言葉の内側に包まれる「正しい」は外側に広がる「わからない」を対象から隠す。内側と外側の境界に「間違っている」が囲っている。

「人のせいにしてはいけません」と言った大人は、「社会のせいにしていけません」と言わない(ゼロじゃない、断定調に自己陶酔)。それどころか「社会のせい」にしたがる人もいるぐらい。不思議だ。「人」と「社会」を使い分ける。社会は表象しづらいから制度に置き換えたり。制度も腑に落ちないなら公務員、政治家、官僚、経営者…..。集合の範囲を狭める。抽象から限定へ。限定はラベルにすぎない。「人のせいにしてはいけません」の人が構成する仕組みの名称だ。名称なら「せい」にできる。実害はない。

「正しい」の外側にある「わからない」を認識しようとしない。恐い。恐いから「何かのせい」にしたい。したいけど「人のせいにしてはいけません」という「正しい」がある。大人が「正しい」を言った。大人が言った「正しい」は彷徨い、すべての「正しい」が子供たちへふりそそぐ。そして大人は「正しい」を忘れる。自分が言った「正しい」だけを残して。

タグ: , , , , , ,

関連する投稿

必然の伝えると偶然の伝わる

考えていることを伝える。「それは”考える”ではない」と指摘されても。伝える手段はたくさんある。数多のなかから言葉を選択する。言葉は無限か有限か、今の私は知らない。その前に思考が無限か有限かも知らない。もっと前、「思考」をしたことがないと思う。極めて少ない己の語彙を取捨選択して伝える。伝えるは言葉を選択した者に訪れる必然。だけど伝わるのは偶然にすぎない。

伝えることを表現したとき、「伝える」とおりに「伝わる」機会はやってこない。いかように伝わっているかを知るよしもない。否、そもそも自分が発話した言葉が自分の耳に到着したとき愕然とする。「伝えることはそうじゃない」と。常に自分は遅れてやってくる。その自分に呆然とする。

Action is eloquence

必然の伝えると偶然の伝わるに拘泥したとき、我が身に訪れた。表現しているのは行為、それを言葉にした。煌びやかな逆説。

伝えると伝わるに存在する径庭。そこに伏流する言葉。そして最後に思考。最後にして原始の思考。

タグ: , , , , , ,

関連する投稿

7×7=49

すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER(講談社文庫)『ベア速 12×12=144の素敵さ加減』のスレがたまらなくおもしろい。「7は分数にすると美しい」にうっとり。『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』に登場する真賀田四季が、西之園萌絵とかわす冒頭の会話を思い出す。書棚からひっぱりだして再読。ちなみに私はミステリィを読まなくなった(大学まで読んでいた)。「誰がどのように殺したか」に興味を抱かなくなったから。ミステリィの目的はエレガントなトリック。その目的に関心が薄れた。だけど、森博嗣先生のS&Mシリーズ真賀田四季は別格(Vシリーズは位相が違う、だけど堪能)。エレガントなトリックは手段。では目的は何か? わからない。考えろと読者に啓示しているかのよう。ゆえにいまだに再読する。答えは知っているけど、問題を考えたいから。

真賀田四季は面会に訪れた西之園萌絵に指摘する。

「いいえ、貴女は気がついていないのね。初めて九九を習ったとき、貴女は、7の段が不得意だったはずよ。幼稚園のとき? もっと小さかったかしら? 7は特別の数ですものね。貴女、兄弟がいないでしょう? 数字の中で、7だけが孤独なのよ」『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』 P.12

そして問いかける。

「[...]1から10までの数字を二組に分けてごらんなさい。そして、両方とも、グループの数字を全部かけ合わせるの。二つの積が等しくなることがありますか?」

「ありません」萌絵は即答した。「片方のグループに7がありますから、積は7の倍数になりますけど、もう片方には7がないから、等しくなりません」

「ほら、7だけが孤独でしょう?」真賀田女史が言った。 同 P.16

「7だけが孤独」って美しい響きだなぁと思った。そして7×7は49。日本人なら忌み嫌われる数字が二つ並ぶ。

孤独と孤独を乗ずると死と苦が訪れる。なんとも美しい凛とした数式だと思う。

タグ: , , , ,

関連する投稿

論理的に破綻する効率的な文章

ITベンダーの営業担当者にはもっと、当社の業務を理解しようという姿勢を見せてもらいたい。提案書を見て、「使い回している」と感じることが多く、がっかりすることもある。

via: 使い回しの提案が目立つ「できます」と簡単に言うな:ITpro

なるほど。毛色の違う話をひとつ。文章を書くとき、自分の言葉を大切にしたい。ただし、自分の言葉とは”オリジナル”じゃない。私には書けない。私が言う「自分の言葉」とは自分で考えて書く文章。じゃぁ、「自分で考える」の意味がのしかかる。

自分の言葉で書かない人に、「論理的に破綻する効率的な文章」を書く人がいる。おかしな言い回しだけど。「効率的」というのは、崩せばコピー&ペースト。おかしい、コピー&ペーストなら「論理的に破綻する」わけない。にもかかわらず論理的に破綻するのは、前後の脈絡をとばして文章をつなぐ由。その文章は、豊富な知識と専門的な単語が配列され、ときおりカタカナが混じってトレンドの単語がちりばめられている。最初はウンウンとうなづけるけど、数行、数ページほど読み進めると、混乱する。一体、ナニが言いたいのかと。部分は論理的にコピー&ペーストされている。ところが前後の文脈が欠落しているから、部分が全体になったとき破綻している。

テンプレートは情報と流行の量で書かれた文章。量を否定しない。ただ、「量」の書き手はその「量」を上回る読み手の出現によって退場を命じられる。もしくは、常に自分より「量」の少ない読み手を探す旅に出る。その量が顧客から受け入れられているのであれば、それでいい。それだけの話なので。

自分の言葉で書く人に、「論理的に破綻した非効率的な文章」を書く人がいる。おかしな言い回しだけど。「非効率的」というのは、崩せば難産の文章。一行書くのに一日かかることもある。おかしい、そんなに時間をかけるなら「論理的に破綻する」わけない。にもかかわらず論理的に破綻するのはなぜか。それがわからない。わからないから、読んでいるとワクワクする。最初は一体ナニを言っているのかわからないけど、数行、数ページほど読み進めると、ウンウンとうなづける。「わかった」までいかないけれど。

テンプレートは情報と流行の質で書かれた文章。流行の質とは、トレンドをスルーした構え。質の書き手は質を上回る読み手の出現によって、「創る」。量に左右されず、時代の濾過に耐えようと苦しむ。

最後に天才。天才は論理を破綻させずに一切の無駄を省いて文章をつづる。一分の隙もない。「天才」の判断基準と定義を私は持ってないので巡り会えず。この先もお目にかかることもないだろうし。ただ想像で書いている。天才が綴るそぎ落とされた言葉。その言葉が描く矛盾を超越した世界。そんな妄想を抱く。

「意味不明」は拒否するけど、「わからない」には感謝したい。「論理的に破綻する効率的な文章」に解多し、「論理的に破綻した非効率的な文章」に問多し。

天才の文章にはナニが棲んでいるのだろう。

タグ: , , ,

関連する投稿

できる人、できない人

先週の土曜日、JR京都駅の地下にあるスターバックスへ。あいにく週末の列。店内で飲食する人は入口に並ぶ。私はスルーしてテイクアウト。数分後、タンブラーを片手に外のベンチに腰掛けた。このベンチ、店のすぐそばにあるから入口の行列とスタッフうかがえる。二組ほどが待ってる列に四人家族がやってきた。外国人。スタッフはお父さんに、「店内で飲食されますか?」と日本語で尋ねたところ、「???」がとびかう。スタッフはすぐさま切り返した。「OK」だが「All right」かのあと、

「ただいま店内が満員ですので店内をご利用なさるときはこちらへお並びください。テイクアウトならこちらから店内に進みオーダーしてください」

みたいなことを英語で説明(知らん、想像の話)。お父さんはニッコリとテイクアウトを告げ、店内に。しばらくして、ニコニコ顔の娘と息子と母親が出てきた。右手にマクドナルドのテイクアウトこんもりバージョンと左手に生クリームたっぷりカップを持って。

行列はとぎれない。常に二、三組待っている状態。そこへ男女の組。男性は両耳に補聴器をつけていた。女性の耳は私から確認できなかった。さきほどのスタッフが先の外国人と同じセリフを今度は日本語で。ゆっくりと。同じセリフをずっと耳にしていた私は速度を掴んでいる。感嘆の声をあげた。

わざと大きな声をあげるでも、イントネーションがおかしいゆっくりとした口調でしゃべるのでもない。いままで説明していた日本語の内容を同じ抑揚でテンポだけを遅めた。

先日、鎌倉へ行ったとき、横浜のHOTEL NEW GRANDに連泊した。

HOTEL NEW GRAND

三日目の朝、山下公園の海が望めるレストランで朝食をいただくとき、あくせく歩き回っているスタッフのなかで、ひとり物腰がやわらかい男性のスタッフがいた。バイキングのチケットを持っていない私はその方にお願いしてメニューを用意してもらった。そのときの説明が心地よかった。ムダがなく淡々とした語り口。それでいて冷たさを感じない。贅沢な朝食をすませたあと、部屋付けをお願いして入ってきたドアから帰ろうとすると、その男性から呼び止められた。

「お客さま、旧館にご宿泊のようですのでこちらからお帰りになられていかがでしょうか。せっかくですので」

キョトンとした私に事情を説明。優しい笑顔でやわらかい口調。男性が手招く反対の方向が旧館へ直接もどれる通路らしい。どうやらサインしたルームナンバーから察知してのこと。なるほど「旧館たる所以」を味わえた。マッカーサー元帥が執務室に使っていた客室、その隣室の318号室を大佛次郎先生が愛用されていた旧館。客室だけの堪能ではもったいない。ありがたかった。一声かけてくれて。

HOTEL NEW GRAND

旧館のロビー受付口。この階段を降り立った数々の要人の姿を思い浮かべる。旧館に宿泊できてよかったと思い、あの男性のスタッフに感謝。

できる人、できない人、両者に関心あらず。両者の差異に目を向ける。どちらに出会おうとも笑顔でふるまえと我が身を律する。

タグ: , ,

関連する投稿

[Review]: 無所属の時間で生きる

無所属の時間で生きる城山三郎先生は四十にさしかかるころ、仕事の上でのストレスから体重が47kgにまで落ちた。その頃、三種類の睡眠薬を飲んでも眠れなかったという。三十代半ばから筆一本。不安にかられると、「なぜ、退職したのか」との悔いが顔を出した。三十代最後の年、「耐えること、耐えること、耐えること」と、三度反復したメモ(ご本人は忘却の彼方のご様子)。会社勤めを一度も経験せずに経済モノを執筆なさった。周りには「岡目八目」と韜晦。「物事を過度に考える性格」と自己分析した先生。その三十代の風景を36歳の私は脳裏に描く。

戦後最大の財界人石坂泰三を調べていて、幾日か出張するとき、空白の一日の日程を組み込んでいることに、私は注目した。

旅先で好奇心の湧いた場所や人を訪ねるためもあるが、ただ風景の中に浸っていたり、街や浜辺を散歩したり。経団連会長や万博会長など、日本でいちばん忙しい男であるはずの時期でも、そうであった。

その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。私はそれを『もう、きみには頼まない』(毎日新聞社、のちに文春文庫)の中で、「無所属の時間」と叫び、その時間の大切さを、私なりに確認したつもりでいたのにーーーーー。『無所属の時間で生きる』 P.18

政官財界の偉人には、大病を患い入院生活を余儀なくされた時期を過ごした人がいる。無所属の時間と色合いが似ている。それら偉人や城山先生と比較する気は毛頭ない。私はといえばずいぶんとさもしい無所属の時間を手に入れた。いつまで続くかわからない。ただ自分なりに無所属の時間で生きている。 まったくなにもかも違う先生と私。ひとつだけ同じモノをすくい取れた。

もっとも無所属の身である以上、ふだんは話相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声を掛ける他はない。

檄や掛声である以上、三度繰り返したり、また、毎年似たような文句を繰り返すことにもなる。

度し難い話だが、それが人間ということなのであろう。『無所属の時間で生きる』 P.127

度し難い話。うなづいた。絶えず自分で監視していると、過ぎてしまえば何ということもないモノに心配したり怯える。見えぬ姿に恐怖を先取りしたり。あらゆる方向から手をうたねばと思い、それがかえって己を惑わしたり。万事つつがなくは無縁。万事過ぎてしまって、のちに呵々大笑で呑めたら万々歳。それでいいと思っている。周りの草木がかわる景色を味わいつつ、自分は相変わらず自分に語りかけ、自分を叱る。

最近、中野孝次『人生を励ます言葉』(講談社現代新書)を読んで、

「何方をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず」(『徒然草』)

といったところに、マークをつけ、また、ある青年が、

「金を稼ぐつもりのものは左手で書いて、ぼくにとって大事なものは右手で書きますよ」

と言ったのに対して、ノサックが、

「その左は同じ身体についているのです。左手が触れた堕落の毒は、右手に感染するでしょう」

と答えたという話のところにも、マークをつけた。『無所属の時間で生きる』 P.128

マークをつけて自戒の日々。「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ 明日憂来らば 明日憂えん」を唱え、「一日を生きる」を大切にしようともがく毎日。ほど遠い。悶々として夜を明かしてしまうときも。翌日なにも考えずに外へ。数分歩けば歴史が現れる。歴史の場所から琵琶湖を望めばゆうに千年は変わらぬ景色を再認識。そしたら胸の渇きが薄れていく。周囲の景色に身を溶かし、五感が掬い取ってくれた水で胸の渇きを満たす。ときにはファインダーに。それだけで贅沢。

先生は言う、「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である」と。深く生きる、ステキな言葉だ。小林秀雄先生の逸話。たしか、どなたか同じ逸話を紹介していたはず、出てこない。まぁいい。これもまた深く生きた証、と私は思う。

たとえば小林秀雄さんは、ゴルフが終わった後のパーティーなどでは、ほとんど箸を手にされなかった。

一食たりとも不本意なものは口にせぬ、という主義で、空腹のまま鎌倉へ帰り、小町通りの天ぷら屋など、ひいきの店へ行くという習わしであった。『無所属の時間で生きる』 P.107

口腹の快。楽しみを知る人が通う店がおりなす街。その街も深い。深さは一日にして成らないけど、深くありたいがため一日を生きる。どれだけ深いか自身で知るよしもない。見えるわけでもない。やがて私を往来する人が気づけば幸、気づかずば修養を積めておらぬと自分を叱咤。浅学非才の身、そんな程度だろう。

城山先生は還暦にあたってメモを残された。私にはまるで五箇条の御誓文のよう。それを肝に銘じてまた無所属の時間を生きよう。

タグ: , , , , , ,

関連する投稿

[Review]: 演劇入門

演劇入門(講談社現代新書)演技と演出の違いを知らない。そんな浅学も演出家の仕事を読んで感銘を受けた。だけど肌で感じるような理解に至っていない。なのに平気で「演出」と口にする。これは変わらない。「演劇は誰でもそこに参加できる表現形態」であり「戯曲というものは誰もが書けるもの」だと同書は言う。ただし趣味に興ずるならばだろう。そうはいっても趣味に興ずるほど演劇は近いか。誰でもそこに参加でき、誰でも戯曲を書けるほどなのか。なぜ演劇は少なからず「離れて」いるのだろう。そのヒントは平田オリザ先生が指摘する「演劇の技術」にあるのかな。「演劇が技術ってナニ?!」って感じだ。技術なら伝えられるのか。

演劇の技術とは、「自分の妄想を他者に伝える」技術である。それが技術として確かなものであるならば、それは、ある程度の部分まで言語化できるはずなのだ。本書でまず初めに試みたいのは、これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術を、できるだけ解りやすい言葉で書き記すことである。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.5

これまで言語化されることが少なかった演劇の技術、劇作の技術と断ずるのに驚いた。Wikipediaに助け船を出す。そうなんだ、得心。人が棲む「位置」を思い浮かべる。第一線の人から無名の戦士まで、誰もが世に棲む分野に「位置」を持つ(と私は思う)。位置は自分が定めても、たいてい他者が評価する。その位置のズレに一喜一憂。そう思うと、平田オリザ先生の「演劇の技術」を演劇界の標準値だと誤解してはならない。

リアルな台詞とは何か?

これは、相当に難しい問いかけだ。だが確かに、リアルでない台詞、説明的な台詞、もっと簡単に言ってしまえば「ダメな台詞」というものがある。『演劇入門 (講談社現代新書)』 P.12

舞台は美術館。主人公がいきなり入ってきて、いきなり、「あぁ、美術館はいいなぁ」と台詞をしゃべる。一見、極端な事例だと思った。そうでもないらしい。案外、この手の「ダメな台詞」は多い。物語を無造作に切り取ってしまう台詞。観客の想像力を奪う台詞。ドキリ。実生活でもそんな台詞をはいているかも。同書が問うとおり、「演劇のリアル」と「現実のリアル」は位相が異なる。現実の私が彼女と美術館に訪れて、「あぁ、美術館はいいなぁ」と口にしても周りの想像力を奪わない。微妙な空気が二人の間をほんのりと漂うだけ。他方、演劇で私が同じ台詞を口にしたらそこで終わる。ただし、同じ台詞をもう少し後、すなわち「遠いイメージ」から入ってだんだん「近づいた」ときに発話すれば、観客は「確かに」とシンクロする。言葉の不思議。コンテクストの魔力。

「あぁ、美術館はいいなぁ」の台詞をダメにしてしまうのは「リアル」の喪失。それは、「現実のリアル」と「演劇のリアル」の位相を重ね合わせる点を見いだそうとしない対話の欠如。位相を重ねるあわせるために先生は三つの問題を提起した。

  1. 現実世界の「リアル」と、演劇世界のリアルは、一見違うもののように思える。それはどうしてか?
  2. 演劇世界の「リアル」とは何だろう? また、それがあるとすれば、演劇の「リアル」は、どのように獲得されるものだろうか?
  3. なぜ、人は、「リアル」な演劇、「リアル」な台詞が書けないのだろう? 人間を「リアル」から遠ざけるものは何だろう?

他者とのコンテクストの摺り合わせが課題。演劇では「観るー観られる」の関係性に固定される。現実世界は「観るー観られる」の関係性が固定されていない。と、私が思っているにすぎない。現実世界だからという理由ですべてを無前提に受け入れているのではなく、無意識に世界の文脈を瞬息の間に捉え直し続けているだけだ。現実世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」には時間と空間と発話のコンテクストが無数に存在する。その存在を他者とキャッチボールしている。演劇世界の「あぁ、美術館はいいなぁ」は、限定されたコミュニケーションに存在する。限定と非限定の差異が二つの「リアル」を引き離す。

演劇世界では、表現者と鑑賞者の間には、現実世界で行われるような、発語行為を伴う対話は成立しない。だとすれば、表現者と鑑賞者の間での、コンテクストの摺り合わせは不可能だということになってしまう。『演劇入門 (講談社現代新書) P.190

不可能を可能する「内的対話」。同書が打ち立てた仮説。「内的対話」は言葉なき無限の反復。現実世界は混沌に満ちている。それを演劇世界が解りやすく省略した図式で描こうとすれば内的対話は失敗する。演劇が求められているのは二つ。ひとつは、混沌を混沌のまま受け入れること。もうひとつは内的対話によって混沌の解像度を上げる作業。あとは観客がそれぞれの知性と照合して他者や外界との交点を探っていくだろう。

タグ: , , , , ,

関連する投稿

Home > Tags > cognition

RSS
sponsor

自動更新バナーfake

Meta

Return to page top