生命保険がギャンブルであろうとも

雨の降る日曜は幸福について考えよう Think Happy Thoughts on Rainy Sundays

「生命保険は悲惨なギャンブル——ヤクザのばくち場は、一番公平!?」を一読して、本書を思い出す。

海外の先進国の保険加入率は通常5割程度。9割を超える日本の加入率の高さは明らかに異常である。[...]保険の正体とは何か。ファイナンス的に言ってしまえば、それは「自分が死ぬほうに賭ける」という意味の賭けである。しかも、死んでしまったほうが勝ちというなんとも悲惨なギャンブルだ。つまり私達は保険料を払ったとたん、保険会社という巨大な胴元に手数料を抜かれる、損な賭けに参加したことになるのだ。

「生命保険が宝くじ」というファイナンスリテラシーは、橘 玲さんの書籍に姿形を変えて幾度も登場する。なかでも本書の生命保険のくだりは、他の著書に散見される”解説”ではなくおおざっぱな考え方が述べられているので印象深かった。

生命保険というのは、身も蓋もない言い方をするならば、宝くじの一種である。保険料は宝くじ代金の分割払いであり、自分が死ぬと保険金という名の賞金が支払われる。さらに、一般の宝くじ同様に、生命保険の場合もほとんどの人は損をする。おまけに経費率が高いので、ギャンブルとしては救いがたいほど魅力がない。だが、抽選に外れたということは自分がまだ生きているということだから、文句を言う客はいない。

『雨の降る日曜は幸福について考えよう Think Happy Thoughts on Rainy Sundays』 橘 玲 P.38

保険活用の原則は、

  • 独身なら生命保険は不要
  • 子供がいないか、すでに成人しているなら、保険料の支払いより資産形成を優先させる
  • 子供がまだ幼く十分な貯蓄がない家庭は、保険の優位性を最大限に活かす

と指摘する。でも、ここで見落としていることがひとつ。

日本は世界でもっとも豊かな社会の一つである。たいていの場合、残された家族は、夫婦どちらかの実家や親族の経済的援助で、これまでと同レベルの生活を維持できるだろう。遺族年金や死亡退職金も含めれば、こうしたケースでは生命保険はほとんど必要ない。

『雨の降る日曜は幸福について考えよう Think Happy Thoughts on Rainy Sundays』 橘 玲 P.40

是々非々が論じられるのだろう。ファイナンスリテラシーに乏しい私は何がほんとうか皆目わからない。ただ、自分の死後まで考えたくないし (もとい、思考不能)、パートナーは自分で何とかするだろうと思いこんでいるので、1本だけ加入してあとは何も入っていない。

ひところ読みあさった。今も適当な間隔を置いて読み続けている。当初は、「ファイナンスリテラシーを身につけたい」と切望して乱読した。いわば「立ち位置を決める」のが目的だった。だが今は違う。ファイナンスとはかけ離れたところで自分の「立ち位置」が朧気に決まってきた。すると、それにつられてリテラシーを身につける手間暇が疎ましくなってきた。

「立ち位置を決める」ために読むのか、「立ち位置が決まってから」読むのか、このあたり百家争鳴なのだろうけど、私はどちらでもいいやと思えてくるようになってきた。

なんだか、一周してぐるっと戻ってきた気分。嘆息。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ