先日、JR京都伊勢丹の10Fにある佐世保バーガーを食べてきました。どんな味がするかなぁと前から興味を持ってまして、いつか食べてみたかったわけです :-)
認識と実践でウェブサイトを制作するけど"look nice"は苦手 でも"design"はやります
リアルの報道を見聞していないので報じているのか知りませんが、海外で大規模なアカウント流出が発生したみたいで、そのパスワードを分析したところ、最多は「123456」だったの由。
死に瀕した患者を前にしても平静な気分でいられる人びとにとっては、そんな無言のひとときは意義のあるコミュニケーションになりうる。患者とともに、窓の外の鳥のさえずりに耳を傾けるのでもよい。私たちがそばにいるだけで、患者は最後まで近くにいてくれるのだと確信する。重要なことの処理は済み、患者が永遠の眠りにつくのももう時間の問題であるのだから、何も言わなくてもかまわないと言うことを患者に知らせるだけでよい。それだけで患者は、もう何も話さなくてもひとりぼっちではないのだという確信を取り戻す。「やかましく」いろいろな言葉をかけるよりも、患者の手を握ったり、見つめたり、背中に枕を当ててやるほうが多くを語ることもある。
『死ぬ瞬間―死とその過程について』 エリザベス キューブラー・ロス 第五段階/受容 P.193-194
このコミュニケーションをしたければ夕方に訪れるとよい、との言葉。否認と孤立、怒り、取り引き、抑鬱、そして受容。共同幻想が終わるとき。
「ーーーーーあなたたちはこのチューリングの前提を厳密に議論したことはある? チューリングは人間が思考できる存在であることを前提とした。しかしあなたたちはその前提を真剣に考察してみたことはある? それとも、人間の考える状態を考えると呼ぶなどという同語反復に逃げ込むつもり? 人工知能を研究しているつもりの紳士各々方、『機械は考えることができるのか』の前に、まず『人間は考えることができるか』という問題を如何に考察する?」
『デカルトの密室 (新潮文庫)』 瀬名 秀明 P.47-48
「フレーム問題だ。世界の記述が爆発したんだ!」 は美しい言葉。機械にだけ生じるのか? 人間にも存在するのか? 空間と可能性。日常生活が不思議の塊になる。
やれやれ、一度死んじまうとさ、君はひとつところにがっちり閉じ込められちまうんだ。僕は実につくづく思うんだよ。もし僕が真剣に死んじまったら、誰かが遺体を川にどぶんと放り込んだりしてくれないものかってさ。良識ってのはそういうものだぜ。
そんなに心配なら自分の背中に自分の命日を貼っておけ、と解剖学者の先生は言った。
「あなたが面白い。希有の存在といえるかもしれない。何だろう? 何故、そんなに肉体を諦めている? 生きることと、思考することを、切り離そうとしているのは、どうしてだ? あなたの躰と、あなたの視線は、まるで統制がとれていない」
『迷宮百年の睡魔』 森 博嗣 P.216
「普通に生活するだけならば、考える必要なんてほとんどないんです」と指摘されたら、どう反論しよう?