PDCAからHPRF

知識デザイン企業 P.301

アートカンパニーとは「知識デザイン」する企業だ。知識デザインとは、知識創造×(掛ける)デザイン、つまり<仮説推論思考>と<人工物のデザイン>の融合ーーー現場やモノに接しながらの、モノ=コト同時の創造プロセスである。モノの質だけにとどまらない、人間的な、経験やプロセスの質(無名の質)をも同時にデザインすることである。人々や社会の場に入り込んで、未来を創造・実現しようという志でさまざまな要素を綜合する営みである。

『知識デザイン企業』 紺野 登 P.3

書店に行くと、知識デザインやデザイン思考など、「デザイン」+ネーミングの書籍を見かける。おかげで、デザインと発声したとき、ルックスの意味と受け止められる機会は減った。

日本の服飾業界が、「デザイン」を多用してきた影響からか、ファッショナブルな意味と理解する人はいる。デザインの語源を検索して、トップに表示されたサイトは、以下のように記述している。勉強させてもらいました。

語源のラテン語Designareは,de+signであり(deは,from, out of, descended from, derived from, concerning, because of, according to, in imitation of, などの意味),記号を表出する行為,表出された記号自体,対象や意味を明確に示す行為,他との境界を限定して形状をはっきり示す行為,対象や意味に相当する代理物を用意すること,複写や記述,表示する要素の選択,特定の対象や意味に他者の注意を向ける作為,感覚器官で捉えられうる刺激の集合によって対象や意味を代替えする行為,をさす。

via: デザイン力を考えてみてはいかが

また、先日紹介した [Review]:考えなしの行動? では、デザインは「削る」というニュアンスを含むとの由。「設計」の思考と行為を観察したとき、「削る」を切り離せない。両者は密接に関連している。

そして、「デザイン」は明確な意味を持っている。だから、モノ=コトをデザインするとき、その意味を他者へ説明できなければ、デザインしたと表現できない。

では、「組織をデザインする」と表現したら、それは何を意味しているのか。他者へどう説明するのか。ぼくの仕事の範疇で考えると、歯科医院の組織をデザインすると考えた時、従来のPDCAだと対応できない現象が発生している、と観察する。

PDCAの根幹は分析。分析できなければ、計画を立案できない。実行できない。しかし、分析が機能しなくなっている(と思う)。ここでいう分析は定性的性質の意味。定量的性質の数値分析を除く。数値分析は、数字を作る人がウソをつかないこと、そして、数値を分析する手法が正しいこと、その2点が正常に機能すれば、正解へ辿り着く。

定性的分析は、外部分析と自己分析に仕訳される。外部分析は、環境の不確実な要素を排除して統制できる要素だけを内部へ還元する。自己分析はSWOTやベンチマークで、これもまた統制できる要素を抽出する。定性的分析は、外部と自己の両面を分析して、要素を絞り込み、「正解」を導き出す。正解は一つ。それが、「目標」となる。

では、定性的分析の対象は何だろう?

分析の対象は過去のデータ。ここで陥穽が待っている。過去データということは、成功体験を抽出する傾向が高くなり、ついには、成功体験へ依存しがちだ。依存しないためには、失敗体験を算入してバイアスを除去する。

これら定性的性質の分析アプローチは、論理的で固定的。正解を導くにはすぐれている。だけど、本書は指摘する。

肝心の「正解」が当たらなくなってきている。

『知識デザイン企業』 紺野 登 P.27

正解が当たらない。ちょっとヘンな日本語だと受け止めたけど、まぁ、いいや。正解が当たらないだけでなく、当たらない事態へ対応できない。論理的・固定的な正解、つまり「目標」を達成できない状況が生じたとき、その対処方法を発見できない。そこで行き詰まる。

PDCAを否定しない。そうじゃなく、新たな取り組みとして、HPRF(hypothesis, practice, reflection, feedback)をぼくは表現したい。まだまだ言葉遊びの段階であって、デザインできていない。

「計画→実行→確認→行動」から「仮説→実践→内省→フィードバック」へ。あぁ、フィードバックだけカタカナになってしまうあたり下手だなぁ、と自分を嘆く。エレガントじゃない。

外部を不確実な要素の塊と定義して、それらへ柔軟に対応するシステム。組織とは単語でしかなくなるような個人とシステムの集合知、のような形をぼくは描いている。個人の思考と感性と行動を育成(あるいは生成?)し、集団の回路を形成する。この「回路」へフィードバックされる。じゃぁ、回路って何だろ? それをいま考えている。

HPRFの支柱は、個人の「判断」と、予測する。判断って、何気なく使ってしまうけど、「判断」って意味を吟味する時空を組織は持っているだろうか。

それに、仮説とは? 実践とは? 内省とは?

それぞれの言葉を哲学(日本語の”哲学”って意味じゃなく)して、言葉から行動を表現したい。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ