減量の最中に感じたこと

ただいま減量中。身体って頭と切り離されているんだなぁと感心した。とりあえず56キロ程度まで落としたいなぁとスタートした(身長166cm)。参考にしたのはいつまでもデブと思うなよ(参照: 著者ブログ )。レビューを書いた次の日から実践。結果、開始時の体重62キロから現在59キロ。

減量といっても特別なことをしたわけじゃない。3つだけ。

  1. 毎日体重計にのる
  2. 毎日何を食べたか記録する
  3. 毎日の量を減らす

スゴイ単純。何かで読んだ記憶があるんだけど、「食べる」という行為は結構エネルギーを消費していて、なおかつ内蔵に負担をかけているって話。それを実感。食べたモノ”すべて”を毎日記録すると「食べ過ぎ」だよ。ホント。体重計にのると1日の基礎代謝が表示される。おおよそ1500キロカロリー弱。じゃぁ、1日どれぐらいのカロリーを摂取しているのか記録をもとに計算すると目を丸くする。

う、うわぁ〜うわぁ〜。ウワァ〜、エエエー。

そら、20代より衰えているとはいえかろうじて吸収してくれている。でも、いまの食生活を続けていると、確実に太る。それは「目に見えて」わかる。

だから減らす。単純デス。何度も書くけどホンマに。とにかく減らす。今食べている量を減らす。私の場合、絶食やサプリメントを使っていない。油モノをやめたのと高カロリー食品の摂取を抑制した。間食をスッパリやめた。あっ、栄養のバランスは考えてます、それなりに。

で、どうなるか? 内臓の調子が変化したのを自覚できます。

それが冒頭の「身体って頭と切り離されている」ってわけ。というのも今月の中頃、59キロになったあたりで、猛烈に甘いモノが食べたくなった。なもんで先々週から先週の頭にかけて少しばかりケーキをつづけて食べた。で、続けざま、先週末、ちょっとした事情で焼き肉につきあった。そしたら先週末の土曜日と日曜日、身体が悲鳴をあげた。連続ケーキと焼き肉だけで?!

内臓が重い(ように感じる)。胃がイタイというよりも「ちょっと食べるのをヤメテくれ」という声が聞こえるような感覚。イタイわけじゃない。「ああ、そうとう負担をかけてるな」とわかる。だから日曜日はいつもの量よりもさらに減らして凌いだ。「あっ、ムリしたな」と思った食事の2,3日あとぐらいに内臓がオカシクなってくるみたい。反応は遅れてやってくる。

1500キロカロリー弱で腹八分目チョチ下回るぐらいの満腹を体感するには

  • よくかむ
  • 少量多品種の食材を選ぶ

ようになる。でないと、菓子パン一個なんて食べた日にゃ、目も当てられませんぜ。ただ、カロリー計算に夢中になるとなんだか脳に支配されているようでイヤな感じも残る。それも慣れ。慣れてくると計算なんてしないし、そもそも計算しなくちゃいけないような食材を手にとらない。

ようは「減量して」いて「カロリー中心」な食生活だとすっかり忘れる。脳の欲望よりも身体の声に耳を傾けるから”いかにもカロリー”を口にしない。

そんなもんなんでしょうね、やっぱり。身体と脳は切り離されているみたい、なんとなく。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ