伝えるプロではない

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「プロ」の定義をしないと、プロって使いにくい。たしかNHKの番組では、最後に必ず「プロとは?」という質問をして終わる。答は出演者の数だけある。愚問だ、やれやれ。

昨日、岡山地裁で「違法だから取り消しなさい」って判決が下された。訴えたのは分限免職処分を受けた元中学校教諭の男性。理科を指導していたとのこと。処分の理由は、「指導力不足」と認定されたから。それを不服として訴えた。

尼崎医療生協病院では、遺族から怒りを買っている。「医療過誤」で女性を死亡させた当初、「ミス」と認めて遺族に謝罪した。ところが、今月の8日の会見では「医療過誤とは判断しない」とコメントしたらしい。

どちらも背景を知らない。軽々に書けない。二つの意味をぼんやり考えていた。「伝える」が我が身に突き刺さる。

直截な表現で失礼だろうけど、先生は「指導のプロ」で、医師は「治療のプロ」かなと。だけど、「伝えるプロ」じゃない。伝わっているか否かを反芻していないかも。けれど、「伝わってこない」からといってプロを軽んじない。なのに、「伝えてもらっていない」と憤り、プロを敬う気持ちを失いつつあるとしたら嫌だな。

「伝える」には言葉。語彙を取捨選択して論理の道筋を歩く。時には心情を推し量る。メタファーが必要なら相手のフレームから類推する。例えば、「ミス」と「医療過誤」という言葉。そもそもこの二つは同義なのか。専門家が定義する「ミス」と僕が日常使う「ミス」。果たして同じなのかな。違うかも。

「意味」は恐ろしい。「意味」と出会った時、自分の語彙が急速に失われていく。それを体感して再び恐怖が襲いかかる。話せない。黙っていろ。どうすれば伝えられるのか。否、そもそも伝わらない。その絶望からはじまる。意味に怯え、伝わらない絶望と伝えたい希望の矛盾を抱える。

言葉を紡げば紡ぐほど、誤解の確率が高くなる。だから、余計な修飾を省いて簡潔にしゃべる。すると、感情だ。感情と言葉の反比例。人と人の距離。感情の距離。立場の距離。呪縛。

そうだ。そもそも、「スタート地点」はどこなのか。僕が相手に伝えなければならない「スタート地点」を二人で探らなければならない。それを省いて、伝えようとして、伝わらないと憤る人がいる。それは無茶。「伝える」と「伝わる」の違い。聴くように話す。

それに、「伝える」は言葉だけじゃない。言葉以外の手段もある。藝術。”道”の付く所作。身体。五感。送信と受信の成立。

情報を検索できるようになって、ひょっとすると、僕は情報から解き放たれたかもしれない。はじめてのフェーズを迎えた。だけど、解き放たれた時、今まで気づかずにいた、「意味」と「伝える」に出会った。その出会いは、深い闇をもたらした。闇は、「以心伝心」を新たに定義し直せと僕に囁いている。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ