やってみたいと思わせる力

長等公園の桜

先日、打ち合わせの後、M先生とOさんから新年会へお誘いいただく。今時でない居酒屋で心地よかった。ただ、その時の失態に自己嫌悪し、次の日、ブログに自戒を書いた。M先生はブログで上手くかわしてくださっていて(適切な表現じゃないかも)、その気配りに感謝した。Oさんはブログとメールでまったく同じ気持ちだった旨を伝えてくださった。ほんとうにありがたかった。”日々“はテストと違って正解なんてない。予測できない言動は、”ひとり”を際だたせ、暗愚な自分を気づかせる。美味の御飯と芳醇な酒、言葉のやりとり。

自己嫌悪を分析していたら、やっぱり積年の課題が。僕は、何かしらの振る舞いに憧れをもっているようだ。上品、知性、滋味、しなやかさ、かろやかさ、といった単語が次々浮かび上がる。TVや映画のフィクションじゃなく、ノンフィクションの「ふるまい」と出会った時、記憶に刻まれる。今まで出会ったひとつひとつの所作と機知をプラモデルのパーツのように組み合わせた完成品を頭に持っている。その完成品と自分を比較して、直視できず。自分を甘やかす。

そういえば、ジムで気になる女性が一人いる。いきなりトレッドミルからスタートして1時間ほど走り、次に筋トレ、最後にストレッチ。凝視しちゃいけないから控え目に(こういうときのまなざしってコントロールできているようでできていない)。彼女のストレッチがほんとうに美しい。前後左右の180度開脚! 左右の開脚は上半身が床に。

芸能人やアスリートがTVで披露しても、すごいなと笑うだけで何も感じなかった。なのに、彼女のストレッチを見て、「自分もやってみたい!」と強く感じた。はじめての感情。

「美しい」は抽象概念。人それぞれ。清潔だから美しい、清楚だから美しい、そんな簡単じゃない。足を組まず、背筋を伸ばして御飯を食べている人たちが、スラングだらけの会話に高じていたら目を側立てる。いや、そのギャップが美しいという人も。外見と中身、それも単純。二元論に中指を突き立てる。もっと複雑。

一連の動作。つながり。時に反転。醸し出す雰囲気。不安をひた隠す安定。錯覚。すべてが主観。

言葉で「ふるまい」を表現しようとしている間、「ほんとう」はやってこない。無我。捨てる。醜悪を受容する感性。送信ばかり気にして受信の存在を見失う。何より大切なもの。他者を意識する五感。相手が受信してくれるからこそ、美は伝わる。

「やってみたい!」と高揚させる力は両手を広げた円に存在している。ただ、自分が気づいていないだけ。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ