
リアルシンプルが休刊する。定期購読していたので残念。参考になる記事が多かった。発刊当初から広告掲載が多く、少し気がかりだった。コンセプトからして、大半の企画記事が商品とのタイアップだった点は仕方ないところ。扱う商品はツボを突いていたので納得。
今年に入ってから雑誌が続々と休刊している。
読売新聞東京本社の発行する週刊誌「読売ウイークリー」が、12月1日発売号をもって休刊することが、28日わかった。
関係者によると、インターネットの台頭など情報インフラの変化に伴って広告収入が減少。部数も伸びず、赤字に陥っていたという。同社は29日にも関係先に休刊を告知するとみられる。
「月刊現代」「ロードショー」「論座」「主婦の友」など今年は有名月刊誌の休刊が相次いでいるが、雑誌不況の波は週刊誌にも及んできた。
via: 読売ウイークリー12月で休刊へ 70年の歴史に幕 – MSN産経ニュース
休刊の原因はどれも「広告収入の減少」と「部数の伸び悩み」。だけど、マイナな雑誌は今も続いている。メジャな雑誌の特定の分野は、役割を終えようとしているなんて書くと短見だろうけど、メディアという理由だけで支持されていた分野の雑誌は部数減少に歯止めがかからないかな、と思う。マイナな雑誌のコンテンツは優れているし、仮にインターネットが台頭しても、ネットと雑誌が相互扶助の効果をもたらしている、と観察している。
愛読している雑誌が休刊したときの気持ち、それは、通いの店が閉店したときのガックリした気分に似ている。近くのイオンのテナントで営業していたうどん屋が閉店した。かなりショック。家の隣のお好み焼き屋も閉店(こちらは開店後1年以内に閉店と予測、結果は1年遅れての閉店)。他にも近所で閉店が相次いでいる。閉店の理由はわからない。立ちゆかなくなったかもしれないし、ハッピーリタイアメントかもしれない。
コンテンツはさほどよろしくなくても繁盛している店はある。なんでと訝っていると、優れたメディアを持っていた(らしい)。コンテンツは優れているのに、メディアがさっぱりなおかげで苦戦している店もある。
コンテンツが優れていれば、何のメディアを選択して集中するか。日本のクラフトマンがウェブサイトを使って海外に向けて販売する。国内はというと、数寄者と名士と若者だけが関心を寄せている。
アメリカでは新しいチャレンジが始まった。
創刊100年を誇る米有力紙クリスチャン・サイエンス・モニター(本社ボストン)が来年4月から日刊紙の発行をやめ、ウェブサイトを中心にしたニュース媒体に変わる方針を28日、発表した。米国の全国紙が紙媒体から事実上撤退する初のケースとなる。
via: asahi.com(朝日新聞社):米有力紙が「紙」から事実上撤退 ウェブ中心に – 国際
Published on 木曜日, 10月 30, 2008 10:15 am.
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写真ってホント考えさせられる。カメラの仕組みを理解せずに撮っているって点がダメなんだろうけど、それを自覚したとしても頭を抱える。とてもおもしろい。構図はもとより、光とピント。難しい。ピントが合わない、という意味を体感。カメラのピントだけでなく、対話のピント、思考のピント、行動のピント…..とか。
デジタルだから液晶画面でピントを確認して、「ヨシ!」と納得して帰宅する。さっそく24inchの画面いっぱいに映し出す。ああ、ガックリ。そのくり返し。ブログの文章を書いて、「伝える」と「伝わる」を認識して、「ヨシ!」と納得してアップする。ああ、呆然。それぞれのピントがある。 あたりまえなのに。
もうすぐ落ちそうだ。
書き手は、前後の脈絡と事象の背景を知って書くけど、読み手は知らない。その時点でもう被写界深度は違う。書き手はF2.2で読み手はF8とか。
染まりきってしまうより、変わりはじめが好き。表から観るより裏を知りたい。変化の境界線を見逃したくない。変わってしまったもよいけど、変わりはじめるかもは快感。
奇麗な姿に見惚れて顔を上げている。見上げて歩く足は奇麗な姿を踏んでいる。踏まれてもとの姿を失ってもなお奇麗。
光は待ってくれない。同じ場所をいつまでも照らさない。色彩と光彩は一瞬で変化する。ピントを合わせたいと必死になっている隙に、光は逃げていく。どんどん逃げていく。
瞬きする間もないような光明と震えるような静寂。光と影に翻弄される。いつかピントが合うのだろうかと、息をひそめてじっと待ち続け、すうっと息を吐きながらそっと指を落とす。
カシャ。
Published on 水曜日, 10月 29, 2008 6:23 pm.
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Published on 水曜日, 10月 29, 2008 2:23 pm.
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つい先日、千日回峰を2度もやり遂げたという比叡山の高僧の食事について知る機会があった。その内容がすごい。1日2食、毎日同じ物を食べるとのこと。ふかした皮つきのジャガイモ、かけそば、季節の果物、お茶、それで全部だという。
『快楽は悪か』 P.136
朝日新聞に1年間掲載されたコラムをまとめた著書。批判が殺到したらしいとのこと。読者の評価を気にしていたら書けないし、そも、至極ご尤もな意見を述べられていると思う。そんなことはどうでもいいな。興味深かった点をひとつ。「毎日同じ物を食べる」という快楽?!
比叡山の高僧と同じ例として、内田百間の快楽がつづく。彼は、毎朝、果物を1,2種食べ、葡萄酒を1杯飲む。それと、英字ビスケットをかじって牛乳を飲む。昼は蕎麦。毎日同じ。昼の蕎麦のエピソードがおもしろい。そして夕食。間食をせず、ひたすら待つ。何故か?
「一日に一ぺんしかお膳の前に坐らないのだから、毎日山海の珍具佳肴を要求する。又必ず五時に始まらないと騒ぎ立てる。その時刻に人が来ると情けない気がする」
『快楽は悪か』 P.140
同じ物を食べる快楽より、たった一度の夕食をうまいものにする方法。いわばライフハックを実践していた。アプローチは違うけど、以前、小林秀雄の「一食たりとも不本意な物は口にせず」を紹介した。
最近、「味覚が敏感になった?」と聞かれた。やっぱりそうかと納得した。自分ではなんとなく感じていたけど、他者から指摘されて確認できた。心当たりはない。あるとすれば、1日の食べる量を減らして昼食を食べなくなったから。よくわからない。とにかく腹を空かせるようとしている。
って、前置きがかなり長くなりました。別に食べることに注目したわけじゃなく、筆者の評が食べること以外にも敷衍できるのではと納得したから。
毎日同じ物を食べたりしても、それぞれには味は違ってくる。自分が違うのか相手が違うのか。それをしみじと味わい分けるのも、また食の楽しみなのではなかろうか。
『快楽は悪か』 P.141
市川園の梅にんにくを毎日食べていると、躰の変調をなんとなく感じる(些末で恐縮)。日が経って味が変化している可能もあるだろうけど、同じ物を毎日食べているのに、すっぱさが違う。猛烈にすっぱく感じるときもあれば、そうでない日も。
食べ物だけにあらず、と思う。毎日、同じことを続けること。続けていくと見えてくる、自分が違うのか相手が違うのか、という言葉。ただ、「続ける」と書くと、極端な話、赤字でも続けるとか、伝統になった社内行事を惰性で続けるとか、都合の良い意味で解釈されかねない。いや、結局、自分の都合の良い意味にしか、「続ける」を解釈しない。その誤解を互いに認識できれば素敵だ。
Published on 火曜日, 10月 28, 2008 9:18 am.
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「貴方は、言葉を駆使して、自分の歩いてきた道の舗装をされているだけよ」紅子は保呂草を真っ直ぐに見据えて言う。「貴方は、後ろ向きに掃除をしているだけ」
『黒猫の三角―Delta in the Darkness』 P.400
人間は言葉を駆使する。一本造りのように「形」を削り出す人や寄木造りのように「形」を造り出す人がいる。自己評価すれば、昔は、寄木造りでオリジナルを模倣していた。始末の悪いことに、寄木、それ自体すら自分で作ろうとせず、探し回って拾ってきた。いわば偽造品。躰を動かし木を削っていなかった。今も変わらない。だけど、少しでいいから一木造りのように削り出したいと、自分の歩いてきた道の舗装を止めた。後ろ向きに掃除をしなくなった。
ようやく削り方を理解できた。ほんの少し、ごくわずか。その理解も錯覚だろう。
シナプスのように接合されている今、ブラウザの窓に単語を入力すれば簡単にアスファルトが用意されている。アスファルトの上を一瞬で走り抜ける。自分が走ったように振る舞うことも可能だ。門外漢の事象ですら書ける。メールマガジンやブロゴスフィアの中にいる人からアスファルトを拝借して、それを自分の道に舗装し直せば立派な道路になる。その気になれば高速道路も造り出せるだろう。
一木造りや寄木造り、どちらであっても「形」を表さなければならない。「形」を表せない自分に気づき愕然とする。道具を持っていないからだ。万が一、形を想像できて、道具を持っていたとしても、伝えられない。
伝えられるほどの駆使できる言葉を僕は知らない。それでも言葉にして伝えなければならない。どれだけ莫迦と思われても。
Published on 月曜日, 10月 27, 2008 6:44 pm.
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ファイト!(ペンネーム:「私だって高校行きたかった」に捧げる唄)/中島みゆき
1杯2,000円ほどのスコッチを飲んでいるのかと騒ぎ立てる。助成金を削らないでと涙で訴える。医療の崩壊を精神論で非難し、資金を投じようとするとお金儲けさせるなと暴発する。周りで沸き立つ事象は、一点へ向かう。金。お金だけじゃないよと口にすること、それ自体がお金にご執心。あっても邪魔にならないモノを倫理で審判するから見えなくなっちゃう(のかしら)。そこに感情という得体の知れない怪物が潜む。あ−、コワイ。
外部が定めた評価の基準で私を査定するなら私は貧しいよ。家や車も持っていないし。小さな2LDKに2人で暮らしている。広さは為政者の私宅の玄関ほどもあるまい、と思う(見たことないけど)。もし、子どもを授かれば、今のままなら食べてはいけないな。廃業して一定の収入を探すか、違う道を探すとか。あるいは今のままから脱出するべくもがくか。
万が一、外部が定めた評価の基準で他者が私を哀れむなら、それは哀れみではない。哀れみは、私が私を哀れんだときに訪れる。
Published on 金曜日, 10月 24, 2008 12:29 pm.
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「最近、桜の木を見たことがあるか?」
「いいえ」
「そうなんだよな、花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは。だがそのあとも桜は生きている。今も濃い緑の葉を茂らせている。そして、あともう少しすると紅葉だ」
「紅葉?」
『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466
目に映っていない、あるいは見逃している。否、見えていない。見ようとしない。紅葉は美しい赤と黄で彩られる景色だ、という先入観。美が意識を誘惑し、沈んだ色を意識から奇麗に手際よく取りのぞく。意識は取りのぞかれたことを知覚しない。麻酔で微睡む間に脳を掬い取られたかのよう。遠くに望む美しい紅葉へ躰を近づける。一歩一歩。手に触れられるほど。一枚一枚の葉は、じっと見つめると汚れている。穴から空が見える。
一つ一つは汚れているのに全体になると美しい。錯覚かもしれない。不思議。だけど、沈んだ色をした葉桜の一枚一枚は、全体になっても認識されない。美しい全体のなかの一部となってしまって人々の目から隠れる。見ようとしない限り、見えない。
見えているものより見えていないもの。見る力をもたらす使者は想像と思考。目に映る範囲を広げる天使は行動。行動は躰を動かすだけじゃない。行動は頭の中にも存在する。
「そうなんだよな、みんな、桜が紅葉すると知らないんだよ」
「赤いの?」
「赤もあれば黄色もある。楓や銀杏ほど鮮やかでなく、沈んだような色をしている。だから目に映らず、みんな見逃しているのかもしれないが、しかし花見の頃を思い出してみろ。日本に桜の木がどれだけある。どれだけ見て、どれだけ誉め称えた。なのに花が散ったら完全に無視だ。色が汚いとけなすならまだしも、紅葉している事実すら知らない。ちょっとひどくないか。君も桜にそんな仕打ちをしている一人だ。[...]」
『葉桜の季節に君を想うということ』 P.466-467
Published on 木曜日, 10月 23, 2008 6:02 pm.
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