AがBであると唱える秀才
ネットの片隅の話題をかっされている橋下徹弁護士のブログを読んで(「原告らの非常識さの露呈」)、AがBであると主張する秀才だなぁと微笑した。この人がテレビに出演しているとき、芸人として眺めると安心して視聴しちゃう(何も不愉快な思いをしなくてすむから)。が、ひとたび弁護士のようなコメントが口から飛び出すと、AがBだと炸裂してバカな私にはわからない。
なぜか? AがBなクリアカットはわかりやすい。けどそこで停止する。今からバカが秀才をバカにするもんだからしっちゃかめっちゃかな文章になっちゃうのご容赦を。
橋下徹弁護士は「AがBである」という主張は得意(のご様子)。じゃぁ、それが幾十もの構造化された複文になったらどうだっけ。「AがBである」の中に「CがDである」が挿入されたり。おっと、とたんに感情で話をすすめる(ように映る)。だから秀才だなぁと思う。秀才はシンプルな論理で聴衆を魅了する。そして複雑な構造になるとシンプルな論理に感情をスパイス。さらに聴衆を魅了する。その論は「そうそうそれを言ってほしかったんだよ」という代弁。でも、その代弁している作為は「だろ、これを欲していたんだろ」と確信。作為を当為に誤解させる技法に長けているのが秀才。だから秀才と聴衆のあいだに批評は存在しない。では批評に遭遇したらどうするの? Continue reading…
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