Home > Diary Archive

Diary Archive

思うほど時間は残されていない

日本人の平均寿命は、男性79歳・女性85歳らしい(平均に意味はないと思うけど)。人間はだいたい80年くらい生きるらしい。約3万日(29,200日ほど)。そのうち1/3を睡眠やぼぅっとしている時間としてまとめて過ごしたとしよう。27歳まで寝ていたことになる。今、36歳だからようやく9歳。奇跡的に平均寿命まで生きても残り2万日しか残されてない。平均寿命まで生きるなんて考えるのはムダだし、生きるわけないのでもっと少ないだろう。

朝顔

違う角度から。約3万日を1/365に縮小して(1年を1日で考える)、約80日間生きたとすれば、人間の一生は3ヶ月に満たない。1月1日に生まれたら桜が咲く頃には死んでいる。この手の縮尺を考えるとき、地球誕生から現在までを一年に縮尺するカレンダーがよく用いられる。地球誕生を1月1日の0:00とすると、11月29日頃に植物や恐竜が現れ、人類が誕生するのは12月31日の23:00前後になる。近代科学は23:59ごろ。

自分の一生を換算すると1秒も生きていない。平均寿命なら0.5秒ほど。一瞬だ。3ヶ月弱の縮尺でも1時間は約10秒ほどある。一瞬ではない。1時間を10秒ほどで過ごした錯覚に襲われるような経験はあるだろうし(私の場合、”SO”と過ごしたときそう感じた)、10秒を1時間で過ごすムダもある。

枯れた花

時間に焦ったり、時間に後悔したりしない。ただ時間とは何かと考えているだけ。あとは自分のやりたいことがあって、残りの時間を換算したとき、何を削らなければならないのかが自ずと見えてくる。身の回りをどんどん削っていき、自分のやりたいことに注力する環境をつくっていく。まだもう少し時間がかかる。焦ってはいけない。2万日も残されていないのだから。一瞬のできごとだ。のんびりしながら急ぐとしよう。

タグ: , , ,

関連する投稿

そのままで結構です

こんな書店があったらいいな。

  • 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
  • ベストセラーが平積みされていない
  • 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)

心臓を貫かれて

たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。

カバーと袋の有無を尋ねるように心がけている人とそうでない人の違いかと思う(身の回りのごくわずかな書店だけの話)。些細な違いだけど、何か大切な要素が含まれているようでついつい観察してしまう。その観察結果から推察した錯覚。

委託販売制が主流だから書店は場所を貸している。売れなければ返品すればいい(参照: 本の返品4割 ムダ減らせ 小学館、同一書籍で併用制 販売方法は店が選択 (1/2ページ) - MSN産経ニュース)。ベストセラーはどんどん平積みされ、過去の名作(メジャーという意味じゃなく)は書棚に並んでいない。ステレオ的なポップで目を引き、企画モノ(夏休みに読みたいシリーズや読書感想文とか)で名作(メジャーという意味)を買ってもらおうと頑張っている。それらを眺めると、本の「中身」を売っているのではなく、本を売っているのだなと納得。

どちらでもない

自分の身の回りに目をむけると、生活の大半がRSSみたいになっている。四方八方から飛び込んでくる情報を受けて、それを返す能力は伸びる。返す能力とは、「知っている」という状態。たくさんの情報を知っている。他方、目を養うことが疎かになっている。自分で問題を考えて、自分で探す力を失ってしまったようで怖い。

本屋は偶然の出会いがあるから素敵だ。ランダムな意識からシークエンスな状態へ自分を近づける。はじめから読みたい本があるのならAmazonで注文すればいい。と、かつては考えていた。少し立ち止まってみよう。そもそもなぜ読むのか。多読はうんざりだ。「はじめから読みたい本」と書いたけど、なぜ「はじめから読みたい本」と言えるのか。「知っている」という状態から開放されるには? RSSな生活から脱獄するには?

その一歩が「そのままで結構です」。自分から伝える言葉。

タグ: , , ,

関連する投稿

こだわるに拘泥しない

先日、 天然染料のオーガニックコットンTシャツなどを作っている手染メ屋【京都】さんでTシャツを一枚買ってきた。次は白地のTシャツを購入して手染めを教えていただくつもり。お店で手染め講習を受けながら自分で染める。はじめてお店に伺い粗相をしてしまったけど、ご主人と奥様の応対に感銘を受けた。よいお店に出会えた。帰宅後、お礼のメールを書いた。

手染メ屋さんのTシャツ

こういうお店を紹介するとき、「こだわる」を頻用する。もうずいぶん前から指摘されている話。こだわるは「つまらないことに心がとらわれて、そのことに必要以上に気をつかう」という意味でマイナスの評価に使う単語。それが、「細かなことにまで気をつかって味覚などの価値を追求する」と意味が変わり、プラスの評価に用いられるようになった。年配の人に使うときは気をつけたほうがいいのかもしれない(とこだわっている)。

手染メ屋さんのTシャツ

天の邪鬼なので、「こだわる」を使わずに表現しようとこだわって、「拘泥する」を使ったりする。ところがで、「そういうところに拘泥すると」なんて言い回しを口にしたら、まれに相手は、鳩が豆鉄砲を食ったようになる。拘泥という漢字が思い浮かばないのかなと思い、そのままスルーする。漢字は絵画だと実感する瞬間。

この言葉ひとつとっても会話って難しい。書けば前後の文脈で理解してもらえるし、辞書を引けばおおよその意味は通じる。だけど、「こだわる」という単語を会話のなかで使うとき、発話する方は「マイナスの評価」で使ったとして、受け取る方は「プラスの評価」に受け取ることも想定できる。極端な会話かもしれないけど(笑)

誤解を回避するために今度は漢字を使うと、混乱を招き、事態はあにはからんや。

言葉に拘泥すると伝達の手段に使いにくくなるし制限されてしまう。かといって品のない言い回しは極力避けたいし、できれば最適な意味を選択できるような言葉にこだわりたい。アレ、なんだかよくわからなくなってきたのでおしまい。

タグ: , ,

関連する投稿

(多数他人-自分)×意識=個人

今はもうない―SWITCH BACK (講談社文庫)

「子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているようだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は…..、ただ…..、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ」 『今はもうない―SWITCH BACK』 P.483

8/5の火曜日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべてを視た。久しぶりに88分間も坐ったからどっと疲れた。伝達効率の低さを再確認。88分間のなかから学んだことはひとつ。愛読ブログのひとつ、finalventさんの備忘を拝借する。

茂木「何か宮崎さんの表現者の秘密に関わっている気が……」

宮崎「奥の方の蓋開けると社会生活上問題が起こるんすよ、いろいろ。でも、そうものが自分たちの中にずうっと伝わってて、やっぱり物語作るとき、だからひょいと顔を出すんよ。それでびっくりするす。」

via: NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿のすべて 「ポニョ」密着300日、見たよ - finalventの日記

宮崎駿監督がサラッと口にした内容に震えた。集中治療室にいた友人に会いに行き、その友人を車の助手席に乗せて自宅まで送り届けたという行為が社会生活上問題を起こす。なぜなら友人はすでに死んでいたから。死んだ友人が迷ってはいけないと思い、自宅まで届けた。ここまでくればもう迷わないだろと一言残して助手席からお降ろした。友人を乗車させるとき、助手席のドアをきちんと開けて。大多数の人がオカルトかと一笑に付すかな。

本人だけが認識した事象に興味はない。震えたのは、その事象をきちんと自覚して、「奥の方の蓋を開けると社会生活上問題が起こるんすよ」と言葉に還元にしたこと。「宮崎駿」という固有名詞でなければ、「気でも狂ったか」と思いとりあげない。複雑な要素に遭遇してわからなくなったとき、それを記号化して単純化してきた。単純化できなければ、排除した。もしくは地中深くに埋めた。「誰か」と書くのは藪蛇だ(笑)

私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。

via: 感情教育 (内田樹の研究室)

「こんなもの」じゃないと書く行為自体が感情を前景化させているので感情を抑制していないのだろう。私にはできない。想像するだけ。ほんとうに抑制する人は、感情について書かないし、完全に制御するし、意識もしない、そもそも抑制という概念がない、とたぶん思う。

構造の矛盾を理解したうえで内田樹先生は書いた、と思う。それは伝えなければならない経験だから、と思う。

「偽る」は「ほんとう」があるから存在する。だから自分から「ほんとう」という単語を外側に出してしまえば、「偽る」は存在しない。あとは理屈をこねるか、ただ「行動」するか。行動の中心にあるのは、「なんだかよくわかりません」という屁理屈。

タグ: , , ,

関連する投稿

個人情報に敏感 天に鈍感

Googleのストリートビューがはじまった。前の里のマンションが丸見え。ネット界隈は賑やかになってきた。Googleもプライベートについて方針を説明(参照: 「ストリートビュー」のプライバシー問題、グーグルが方針説明)。ひょっとすると個人情報に敏感な人は天の観察に気づいていないかもしれない。

6月の下旬に市役所から書類が届いた。住民税が還付されるかもしれないよと書いてあった。文章を一読してなんのことかさっぱりわからない。計算式もまったくわからない。とにかく同封してある申告書にサインして提出するようにとのお達し。期限は7/1-7/31まで。サインして7月の初旬に市役所へ行って提出した。まさに「渡した」だけ。あれから音沙汰ナシ。

以下、一般論じゃなくて勝手に不思議に思っていること。

どうして「渡すだけ」の時間なんて必要なのだろう。社会保障番号みたいなユニークがふられて、それをネットワークで入力すればサーバー側で受信して、必要な情報をDBから読み取り、還付金額を計算して、そのままオンラインで銀行口座に振り込めばいい、と思う。申告も同様。インターネットがある時代に「足を運ぶ」理由がわからない。

事務手続きのうち、「判断しないでいい」行政サービスや「数値演算」の計算サービスは全部サーバーに委託すればいい。こう書くと”セキュリティー”という免罪符がたぶん与えられる。免罪符は、公務員の雇用を守ってくれる。たぶん10人分ぐらいの年収を払えば、クラックに対抗できるシステム管理者を雇用できるだろうし、数万人の年収と取引すればシステムも構築できる(と妄想している)。

別に公務員に限らず。ああこうすればいいなぁと思うことを想像していけば、私は必要とされないなぁと気づく。その恐怖が自分の糧だと思う。自己防衛は自己の頭脳の拡大と増強。それを怠れば必要とされなくなるのはやむを得ない。まったく役に立たない自分に気づくこと。それを認めること。

「インターネットからの手続き」が「足を運ぶ手続き」より不便になるなんて奇妙奇天烈なシステムができあがる。何かが起きたとき自分たちの責任にしたくないから。

もうひとつ。ユニークの番号をふるなんてもってのほかだと憤る人はいるだろう。監視社会やプライバシー侵害が躍り出る。不思議だ。今、天は人工衛星を打ち上げ住所を入力すれば自分の家の真上なんて丸見えだし、今度は360度眺められる。年賀状に記された個人情報をインターネットで入力すれば、どんなところに住んでいるのか一目瞭然。

ネットワークが分散化していてもシステムは中央集権化している。情報はあちこちに散らばっていてどこになにがあるのか自分ですら管理できない。戸籍、健康保険、年金、生命保険…..。個人のフェイルセーフを勘案すれば、ユニークが漏洩するリスクよりあちこちに点在しているほうが健全という意見も予測できる。その健全と引き替えに膨大な数の公務員を雇用しているのだから、「個人情報はイヤだけど公務員をやめさせろ」は筋が通りにくい。

個人情報に過敏になっていくけど神の視点に鈍感になる。ネットワークが発達すればするほど不便になる。そうやってバランスをとっているのかもしれない。

花と影

今日も影が美しい。毎日、影を眺めていると影も同じじゃない。光に表情があるなんて。嬉しくなってきた。

タグ: , , , ,

関連する投稿

目の前にある花

毎朝、花と紫蘇と二十日大根に水をやる。日向になる前に水をやるようにしている。意味はない。ただ陽が当たってからだと遅いかなという程度。自分が朝起き抜けに水を500CC飲むのと同じ感覚。

花壇の花

このルーチンワークを二年ほど前から続けている。下手な本を読むより勉強になった。あっ、ただ花の名前は知りません。興味ないので。買ったときの名札を土にさしているようだけどもう見えなくなった。名札の役割を果たしていない(笑)

朝顔

たとえば朝顔。今年は植えていないのに、どこからともなく一本だけ芽をだした。びっくりした。そのまま水をやり続けているから大きくなっている。朝顔の葉はとてもわかりやすく、朝方水をやると、「ありがとう」と答えてくれるような感じ。だけど、この時期のかんかん照りにうんざりするのか、昼過ぎにもなればぐったりしている。

朝顔

夕方、陽も落ちて日陰になったころ、土の様子をながめて水をやる。すると、一時間もすれば、「ありがとう」と笑顔で勢いをとりもどす。これほどわかりやすい奴はいない。人もこんな調子だったら上司と部下は苦労しないだろうなぁと思う。だけど、どこか似ているような気もするけど。まだ言葉にならず。水をやりながら考えている。

今年の朝顔の成長は遅い。たぶん、他の花たちと栄養を取り合いっこしているからかも。たいへんだ花も。こんな状況でどんな花が開くのか楽しみ。

タグ: ,

関連する投稿

自分以外は天才

有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER (講談社文庫)

人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P. 127

記憶力が良い、計算が速い、走るのが速い、高く跳べる、重い物を持ち上げられる…..世界中の誰よりも。道具を使わない状況下では「誰よりも優れている」と評価できる。「誰よりも優れている」なかの「誰か」が道具を発明して、それを使えば評価は一変する。人間は道具を使う。そして、「誰」の範囲を「何」に広げた途端、人間は「何」かよりも劣る。道具を使わない状況下、道具を使う状況下、「何」との比較、それらいずれにも当てはまらない価値を人間は持つ。人間が持つ価値。それは思考。

“天才”を思考したことがない私が、言葉に還元された「天才」に出会って、「意味」を知る。思考は言葉に還元される。こう書くと、思考は言葉によって行われるように受け止めてしまう。受け止めてしまえば躓く。それを疑問に抱くかどうか。

自分の思考を表現する手段として言葉を選択したとき、意味を判断して、必要と無用をフィルタにかけ、的確な単語を選び、適当な文字数を算出して道理の文章を脳裏に描き、発話する。それらを瞬時にフロー化できれば、接続詞はいらない。言い訳なんて単語は辞書から消えるだろう。

「人間のほとんどは馬鹿です」犀川は立ち上がりながら微笑んだ。「僕の試算では、九十四パーセント。ただし、忘れないで下さい。馬鹿は、悪いことではない。低いことでもない。卑しいことでもありません。死んでいる人間は、生きている人間よりも馬鹿ですし、寝ている人間は、起きている人間より馬鹿です。止まっているエンジンは、回転しているエンジンよりも馬鹿です。それが馬鹿の概念です」『有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER』 P.425

他者と馬鹿の概念が一致していれば、感情を考慮にいれる回数は減る。オブラートに包んで伝えるなんてフレーズは存在しない(その行為がすでに馬鹿なのだろうけど)。いや、伝えない方がいいのかも。伝える/伝えないの判断すらできないから私は馬鹿なんだ。「それは言い訳です」と相手に言えば終わる。だけど、その言葉は勇気を私に求める。相手に対する勇気じゃない。自分へ課す勇気。果たして自分はそこまで自分を制御できているのか。否、言葉と勇気を関係づける考えが愚かだ。

私は自分が馬鹿だと思っている。その集合は私一人。それ”以外”は天才。ただし、「思考」を認識できていればのお話。たぶん認識していない。だから、犀川助教授が指摘する馬鹿ではなく、私はいわゆる「馬鹿」だなと納得。

タグ: , ,

関連する投稿

数字からイメージを描く

明日は午前から出発して、午後のミーティングに参加。テーマは数字。ちょっぴりトークをまかされている。そこ(歯科医院)は生まれ変わる。院長先生が決断した。新しい歯科医院の誕生にむけて、プロジェクトを立ち上げた。プロジェクトを立ち上げるにあたり、まず院長先生とスタッフ(1名)と私で数字を決めた。数字は数値+文字だと思う。

以下、一般論ではなく極論。

歯科医院の収入は単価×来院数で算出される。さらに他業種と違い、単価は決まっている。来院数は医院の容積で決まる。だから単価×来院数を計算して、目標収入に達しなければどうなるか? 残りは自由診療で補填しなければならない。シンプルだ。だけど内情は複雑。それは「待つ」という変数が数式に代入されるから。

単価×来院数=総収入 < 目標収入 → 単価×来院数+自由診療=総収入 = 目標収入

でも、来院数は限界値。そこで保険の来院数を減らして自由診療の来院数を調整する。加えて自由診療だと単価を自由に定められる(定められるから難しい)。そうやって数合わせをしたら、「時間」をどうするかという問題が生じる。保険診療と自由診療の時間。受付のアポイント。チェアーの運用。そうやって時間と空間の調整をしても最後に待たなければならない。

数字は「数と文字」から成り立っている。数を算出してそれを文字にすれば、「差異」が認識できる。差異を認識させてくれる数は

  • 1人あたりの点数
  • 1日の点数
  • 1チェアー単位の点数
  • 1歯科衛生士の点数
  • 1日の来院数

などなど。院内のあらゆる数値データを収集する。P/Lの総収入から分解する。これ以上分解できない単位にまで。そうすれば、達成しなければならない数値との差異が認識できる。その差異を文字にすれば、「数字」になる。

数字にしたらイメージを描く。何を描くか?

それが問題。

タグ: ,

関連する投稿

I think about what I must think

賃貸生活をしていて一つだけ悩みがある。部屋のなかで増殖する本。バカなお話。買うのをやめればいい。物理的に絶対の空間に収まる量ははじめから決まっている。それに逆らうなら犬を飼うために家を買う、あるいは犬を飼える賃貸に引っ越す。なかにはそういう人もいて書庫を増築したり倉庫を借りたいとか。

いま、少しずつ部屋を散らかしている。かつて購入したハードカバーのビジネス書を捨てるため。危険水域に達してきた文庫本と差し替え。この作業は一度にやろうとすると疲れる。疲れたくないから少しずつ。本棚や堆く積んだプラスチックBOX、そこかしこで無造作に置いてある本を選別。ずいぶん読んだなぁ。読み方が悪いうえに記憶しようとしない、おまけに理解力が乏しい。だからひとつも身につかなかった。はやい話、それだけ真剣でなかったということ。ビジネス書の内容を体得できなかったけど、一つの法則を確立した。

成果を上げられなかったビジネス書

「何を考えなければいけないのかをまず考えなさい」

ビジネス書を手に取って目次をパラパラめくる。なぜこんな本を買ったのかすら思い出せなかったり。目の前の文章は切れ味するどく、明快なメソッドが満載。なのに一体いくつ実行しただろう。知識を獲得した一瞬の満足感と、本の内容を受け売りしてさもアドバイスしているかの振る舞いに自己陶酔はあった。まるで手淫だな。

毎日少しずつ部屋を散らかして気づく。自分の問題を探求していたのではなく、ベストセラーやトレンドを追っかけたり、顧客の代わりになって情報収集していたのだと。メソッドは課題を抱えた人に助け船を出す。その船を造ったのはビジネス書の著者たち。なかには海外から輸入したりコピー&ペーストされた本もあるだろう。それが「ビジネス」だからビジネス書なんだと納得。とにかくメソッドを作った人は成功した(何が成功かの定義は別として)。その人たちは問題を発見した。だから解決策を作った。ビジネス書は試験の答案であって問題じゃない。自分が解く問題はそれでないかもしれないし、なにより自分で問題を作成していない。数学の問題を作成しなければならないのに国語の解答を読んでいることに気づいていなかった。

仕事をしていると、(職場の)人の教育についてときおり尋ねられる。私は人を教えたことがないから答えられない。答えられないから問題を考える。何が問題か。教える側と教わる側の差異、認識の差異が浮かび上がる。理解と誤解の紙一重。認識の差異は、教える側の準備は整っているのに教わる側の準備が整っていない時空から生じる。だから正しい表現で手引きを書いても、教わる側の準備が整っていなければ誤解は生じる。教わる側の準備が整っていれば詳細なマニュアルでなくても理解される。それが理解できたとき、じゃぁ教わる側の準備とは何かなと考える。意味。回りくどいと言われる、だけど自分の思考の理路はこうだからしょうがない。頭が悪いと自覚しているだけ救いかな。

今の自分を踏み台にすれば理解は深まる。絵を描きたいと思っている。スケッチの方法を解説した書籍はあるはず。だけど、そもそも「何を描きたいのか」を自分が咀嚼できないと方法論なんて机上の空論。描く対象が決まってから、対象をどう描くかがやってくる。下手な鉄砲も数打てば当たるという。先人が残した言葉はそのとおり。だけど、それは「何を打たなければいけないのかをわかった」から当たるのじゃないのって屁理屈を考えたり。ただし、考えるだけで行動をしない愚は避けたい。それならはじめから考えない。

ビジネス書の内容を存分に活用できなかった。それが反省だ。だから捨てる準備をしながら考える。何を考えなければならないのかを考える。自分のメソッドを決めた。

  • ハードカバーのビジネス書を買わない

これが数多あったビジネス書から得た方法。

タグ: ,

関連する投稿

価格を決める人 価格に従う人

Amazonのマーケットプレイスをウロウロしていると不思議な価格に巡り合う。たとえば価格¥840の新刊文庫があるとする。 ふつうの中古商品ならこの価格を下回る。ただし、希少本やマニアックなたぐい、絶版の名著とかは上回る。ところが、なかに価格¥600なんてつけられている中古商品が散見される。この場合、マーケットプレイス送料¥340をプラスすると¥940になって新刊より高い。不思議だ。一見すると、中古価格 > 新刊価格の法則にあてはまるような中古でもなさそうだけど。

開業してはじめに悩んだのが「価格」だった。いまでも悩む。サラリーマンだったころは、「価格を決める人」ではなく(エライという意味じゃなく、ただ無能だった)、「価格に従う人」だった。それでよくお客さまの会計のアドバイスなんてしたもんだなぁと良くない記憶を思い出す。「価格」は積み上げだと言う人がいる。固定費・変動費の一部を積み重ねて算出する方法。そのとおりだと思う。別に専門的に何かを知っているわけじゃなく、現場の皮膚感覚から頷ける。

だけど「価格」は積み上げだけで決められない。むしろ「価値」の価格に頭を抱える。価値は相手が判断する要素かもしれない。だからといって考えなくてもいいのかというと違うと思う。価格に含まれる価値と含まれない価値。価値、評価、絶対値……。そうやって「価値」について考え始めると、「価格を決める」ことは「価値を考える」プロセスのひとつであって、その思考をたどれば、「経営」という裾野へ広がると思う。

ちなみに「価格に従う人」はコストへの意識を欠落させてしまっているのかと疑ってしまうシーンもしばしば。そういう人はプロモーションの取り組みもめちゃくちゃくで、「何のために、何を伝えたいのか」わからない。

「価格を決める人」が「価値を考える」プロセスをたどって「経営」に広がるのか、その逆、そう考えられる人が「価格を決める人」になるのか、私にはわからない。私はそんな「価値」がある人じゃないので。そこがいちばんツライ。

タグ: ,

関連する投稿

Home > Diary Archive

RSS
sponsor

自動更新バナーfake

Meta

Return to page top