iPhone vs PC

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌のマスコミ4媒体(4マス)とネットを合わせた1日当たりのメディア接触時間は、昨年の調査時よりも5.6分減って319.3分。このうちPCからのネット利用時間は2.4分減って59.4分、携帯電話からの利用時間は3.6分増えて17.7分だった。 4マスでは、新聞のみ0.3分増えて28.5分だったが、テレビは2.3分減って161.4分、ラジオは4.1分減って35.2分、雑誌は0.7分減って17.1分だった。 性別・年齢別で見ると、総メディア接触時間は、若年層でここ3年減っている一方、男性40、50、60代と女性60代は増えている。

via: PCからのネット利用時間、初めて減少 博報堂DY調査 – ITmedia News

「減少」の定義に問題が残るのではと小首をかしげつつ、私も減った。24時間からパブリックとセミパブリックの時間を差し引けばプライベートの時間になって、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌といったメディアは時間(=パイ)の奪い合いをしてきた。そこへ、インターネットがやってきてPCが参入。次にケータイ。パイの奪い合いはますます激化。おまけにここ数年、海外動画サイトの波がおしよせて、私はもっぱらそっちを使っている。おかげでテレビの前に坐って視るのはスポーツぐらい。スポーツ観戦も減らしつつあったりして。

自分がインプットしたい方向性を検討して24時間の「引き算」をすると、答えはカンタン。ただ、自分のなかで問題を設定するのに苦労した。だから、今はどんどん引き算して、空いたリソースと時間をインプットに費やしている。アウトプットは尊敬する方々との対話(M先生、F先生、O先生、Kさん、Oさん、Hさん…etc)とブログ程度。コメントをくれるEさんとも対話してみたいけどタイミングやキッカケとか。

いよいよiPhoneが日本へやってくる。

11日に発売される米アップルの携帯電話「iPhone(アイフォーン)」に対応したウェブサイトの導入が広がっている。画面に指で直接触れて操作する機能を踏まえ、使い勝手をよくした。

iPhoneはパソコンと同様にインターネットのサイトが見られるが、文字などは一般に小さく見づらい。そこで、ポータルサイト国内最大手のヤフーは11日から、iPhone用のサイトを開設する。天気、メール、オークションなどよく使われる12の機能をアイコンで大きく表示した。

ネット証券の楽天証券も11日から、iPhone用のサイトを新設し、市況情報などを指先で拡大・縮小して閲覧できるようにした。

via: asahi.com(朝日新聞社):iPhone向けサイト続々 タッチ機能に大きな表示 – ビジネス

iPhone向け電子コミックもいずれ登場する。

セルシスは7月9日、アップルの「iPhone 3G」「iPod touch」向けに開発中の電子コミックビューワを、東京ビッグサイトで7月10日から同13日まで開催される「デジタルパブリッシングフェア2008」の同社ブースで初公開すると発表した。

via: iPhone 3Gで電子コミック――セルシス、iPhone向け電子コミックビューワを開発 – ITmedia +D モバイル

そしてちょっと興奮気味の人が記事を書いたらこうなった。

iPhone 3Gを日常的に使ったこの2週間、筆者はずっと5年後の未来に時計を早回しにしたような感覚を持っていた。インターネットの世界にシームレスにつながり、さまざまなデジタル情報にダイレクトに触れて操る。そこにはケータイの未来、コンピューティングの可能性があふれている。率直に言おう。iPhone 3Gのある生活は、とても楽しく、エキサイティングだ。

7月11日、iPhone 3Gが発売される。

via: 「iPhone 3G」がもたらす“ケータイの未来” (3/3) – ITmedia +D モバイル

なんで「5年後の未来」なのか私にはさっぱり。無線LANのインフラと通信機能を除いたiPod Touchもどきが発売されればインターネットの世界にシームレスにつながる。ただ、それでは携帯キャリアはめしのたねを取り上げられるから自ら進んでインフラを整備しない。無線LANを提供する企業も巨人を敵に回したくないからとりあえず無難な場所に設置して折り合いをつける。

で、なんといってもユーザー。5年後、全員がiPhoneを使うわけもなく、「ある一定数」が存在してその一定数のほうが市場のパイが大きいならそちらへ目をむく。というよりも、今はiPhone vs PCの図式を鮮明にしたがってるかもしれないけど(vsじゃないよとツッコミつつ)、少なくとも5年後ぐらいにはケータイを持たないライフスタイルにしたいなぁと、私は願ってる。インターネットの世界にシームレスにつながっていることを意識させない端末さえ手に入れられれば、通話機能もいらないし、もう少しふみこめば、アンケートにあるメディアに使う自分のパイは今後ますます「減少」すると思う。

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結果も過程も大切だけど払わない

小関峠

「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」

『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138

結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。

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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由

琵琶湖

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23

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食は会食性は隠性

趙さんの酢豚定食

……….(中略)、なあ、自分で考えてゆうでみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、おうおうおうおう歯やからゆうて阿呆らしいとか思うなや、歯はな、なめんな、一本ちゃんと調べまくったらその個体のしくみがまるままわかってしまうんや、全部ばれてしまうんや、歯はこれこの生命にとってな、最も最も最も最も本質的な器官なんや、そうやそやからわたしは決めたんや、命と本質と最もがわたしの中で一列んなってそれがずばっと歯やったんや、(中略)……….

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』 川上 未映子 P.82-83

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受信者への敬意を忘れている

蓮

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

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“刻”離れ

長柄3丁目の食堂

もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。

『考える人 2010年 08月号 [雑誌]』 新潮社 P.135

コンビニは? お金を持ってないの?

11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。

そもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている

足元を見てない

一定の場合について、目的を立てるためにいかなる苦労をしても、それが最終的なものではない。その目的を採用した結果に細心の注意を払わねばならず、目標は、その正しさが結果によって確かめられるまでは、単に作業仮説として考えねばならない。失敗は、もはや、単に悲しむべき不可避的な災難でもなければ、贖われ許さるべき道徳的な罪でもない。それは、知性の誤った使用法に関する教訓であり、将来の改善に関する指示である。それは、修正、開発、再調整の必要を示すものである。目的が成長し、判断の規準が改良される。

『哲学の改造』 ジョン・デューイ P.185

誰が 計画を観察して適当な知性を選び判断の規準を改良するのか。誰が柔軟なものへ、生きているもの、成長するものへ実践するのか。

計画はそもそもそうしようとすることが最初から失敗するようになっている。

善く生きるために、現象の側を測ること

小関峠の田んぼ

生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.103

人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ