受信者への敬意を忘れている

私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

単語の量を獲得すれば言葉を紡いで思考できると錯覚し、その錯覚から生まれた論理は他者を説得できると誤解する。錯覚と誤解は他者へ払う敬意の比率を下げて、自分のパンフレットに記載される論理と修辞のカタログをきれいに整える情熱の比率を上げる。

発語は聴き入れられ、受け入れられ、ほんのわずかな可能性を期待するなら同意されることを望む。望みの後ろに懇願は隠れている。

だけど、不思議なことに、単語の量を増やし修辞の質を磨けば、それに反比例して隠れている懇願は減少する。

懇願のかわりに前面に現れるのは排他なのだ。それが今の自分を支配している。