思考はマルチタスクでも行動はシングル

なるほどぉな結果が発表されました。

先月、米国科学アカデミー紀要で公開されたスタンフォード大学の研究「メディアマルチタスク作業者の認知的統制」が、多くの人に当たり前と思われている現象を裏付けた。すなわち、しばしば効率化のために行われるマルチタスク作業は確実に生産性を低下させるのだ。この研究が対象としているのは、ITにおいてはよく知られているのにしばしば無視される現象、すなわち、恒常的かつ継続的なマルチタスク作業である。アジャイル実装者は注意すべきだ。各チームは1人のプロダクトオーナーがついた1つのプロジェクトに対して作業をするよう勧めるのには充分な理由がある。注意力を多くの異なるタスクに分散させるのは、作業をする上で非効率的なやり方なのだ。

via: InfoQ: スタンフォード大学の研究成果:重度のマルチタスク作業者はパフォーマンスが低下する

“ながら”とマルチタスクは異なると思うけど、自分の生活を観察すると納得できる。どうでしょう?

知能の高い人はマルチタスクを難なくこなせそうな印象を持っています。あと、集中力と知能ってリンクするのかな。昨今、カルチャポップになったような脳科学的にはどんな説明がされるのでしょう。

生活を削るよう指向していると、認知と認識の範囲は限定されるとぼくは理解している。日記を書いていると、自分の興味の対象を確認できる。頭の中をアウトプットすると、関心の対象の狭さにびっくり。意識と認識、どちらが優先されるか知らないけれど、自分の認識は自己評価ほど高くない。精度は低い。おそらく躰は五感を操作して察知しているはずなのに、認知と認識の階層まであがってこない。

2007年の後半から「流れてくる情報の価値は相対的に低い」と想定した。手始めにフィードを80%減らした。今も減らしている。ネットに留まらず、生活のスタイルを変えた。日常のノイズを遮断するために何を削り、何をするか。時間と空間は限定されている。効率がよいパフォーマンスと適度な無駄を生む。無駄が大事。

流れてくる情報を遮断すれば、飢餓感が襲いかかってくる。その時、ああそうか、と体感しました。流れてくる情報や必読と錯覚している書籍、それら膨大なメディアを消化することによって時間を使っていた。その時間の使い方に満足していただけ。時間を消費しているだけで、時間を投資していない。

飢餓感を克服すると、問題設定に思考を注力できる。ようやく「時間」のコツをつかめてきたような手応え。流れてくる情報へ反応して興味を持ったり認識するより、問題を設定するプロセスから認知の質を磨く。必要な要素は語彙と視点と着眼。そして、設計する力。

結果、思考はマルチタスクであっても、出力はシングルっぽいですね、それが自己評価。動作はどうしてもマルチタスクできない。

集中力に関する標準的な心理学的ベンチマークテストをいくつか用いることで、この研究によって示されたのは次のような結論だった。eメールからウェブテキスト、ビデオ、チャット、電話を行ったり来たりして、継続的に多くの情報の流れをさばいている大学生は、マルチタスク作業をあまりしない学生と比べて明らかに結果が悪かった。研究者が特に驚いたのは、いわゆる「重度のメディアマルチタスク作業者」と呼ばれる人たちが、タスクを切り替える能力に関するテストの結果が悪かったことだ。これについては「おそらく、関係のないタスクからの妨害を取り除く能力が低下しているせいだろう」と言われている。

via: InfoQ: スタンフォード大学の研究成果:重度のマルチタスク作業者はパフォーマンスが低下する

OSはデスクトップ環境の利便性を向上させました。Mac OS XならGrowl。Windowsのメーラは着信を通知してくれるらしいです。でも、それらがノイズの可能性も。生産性を低下させているかも。MS Wordを入力中にメール着信の通知。通知をクリック、メーラが起動、内容を読んで返信の有無を判断して、必要ならブラウザを立ち上げて文章を書き、そして、またWordへ戻り、その間に電話が鳴って……。8時間の業務の中でメール入力が占める時間は?

タスクバに現れる記号。あの記号は日常生活に氾濫していて、それを処理することが、「考える」や「創造する」と誤解されかねない、と観察しています。