自分がいなくなってもいいように

自宅近所の田んぼ

3年前に 自分がいなくても大丈夫なように配慮する人 を書いた。その時、引用した文章がまた現前した。過去は過去じゃない、すでに終わってしまったわけじゃない。

内田 出来の悪いビジネスマンとか組織人にいるね。その人が休むと仕事が停滞してしまうというような形に仕事を構築しちゃう人。あの人がいないんで仕事が回らないよって。自分がいなくなったら、組織が損失を受けるという仕方で、自分の存在価値を確証しようとする。

内田 たしかに当座は困るんだよね。何がどこにあるか分からないとか、データがどこにあるか分からない。誰それの電話番号はあいつしか知らないとか。そういうふうにして自分がいなくなったら困るように困るように仕事を構築する人間と、自分がいなくなってもいいようにいいように構築する人間と、やっぱり組織人って二つに大きく分かれるような気がする。自分がいなくなってもみんなが困らないように心配りするって言うのが、人間としては正しいやり方じゃないかな。

東京ファイティングキッズ・リターン P.277-278

集中型か分散型について優劣や強弱を評論しても進歩しない。選択、あるいは両方の特徴を抽出した新たなシステムを構築するか。いかなるシステムを選択してもバックアップやフェイルセーフをきちんと作れない人は、共同体の基本を理解していない。橋本治先生は、共同体をパブリックとおっしゃる。

共同体の生存は、壊滅的な打撃を受けない、致命的なミスを発生させないことからはじまる。共同体を運用するシステムは経年劣化によって硬直化し、いずれ不具合をきたす。不具合がもたらす被害を限定させなければならない。そのとき、システムを管理する人は、「二度と不祥事が起こらないシステムを構築する」と宣言する。が、二度と不祥事か起こらないシステムはいまだ設計されない。

システムのなかで小さなミスが発生した。それにいちはやく気づいた人は、「誰が犯したミスか知らない」けれど「私の責任」で処置する。「誰の責任かよくわからないけれど私の責任で処置する」という行為が共同体へ参加する基本条件である。それが予防だ。

予防はマニュアル化できない。

マニュアルというのは責任範囲・労働内容を明文化することであるからであるが、ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に拡がるあの広大な「グレーゾーン」において発生するものだからである。誰もそのミスを看過したことのない責任を問われないようなミス。グレーゾーンにはそのようなミスが構造的に誕生する。

『こんな日本でよかったね―構造主義的日本論』 P.176

予防をマニュアル化すると、「それは私の仕事でない」という熟語が自動的に口から発声される。それは、なぜを奪い、自省を壊す。

路上に駐車された自転車のカゴはゴミ箱として完璧な機能を果たす。運搬機能を失った自転車はその役割を演じている。ひとつのゴミが増殖し、運搬機能は低下してゴミ箱へと変わってしまう。富士山は山であるはずなのにゴミ捨て場になりつつある。それを誰かが防いでいる。

今、目の前で未曾有の事故が発生しない影で、Nobodyが「いいよオレがやっておくよ」と一声かけてミスを予防したかもしれない。それを当事者以外は誰も知らない。内田樹先生は当事者ですら知らない、とおっしゃる。誰も知らない仕事を誰かが評価しなくていけない。否、おそらく評価できないだろう。「成果」がないからだ。成果なき仕事の評価。それがずっと問われ続けている。