誰が食べた?

住まいは田舎がいい、森と日溜まりでひと寝入り、飛ぶ鳥、稲と日照り、まだ独りもいいが、家内はいます

『虚空の逆マトリクス(INVERSE OF VOID MATRIX)』 P.234

誰かと会話すると視点が入れ替わる。「けっこう甘いもの食べますね」と耳にして気づかされる。ブログの写真を見る人は、ぼくが食べたと判断する。判断というより無謬の前提かな。対象に棲み込んだ時、前提を疑いにくい。対象を外から観る人が前提を壊し、新たな着眼や視点を提供し、それらが融合して枠組みが再構築される。疑問や視点が、意味を認識する。否、まだぼくの知識では認識と使ってはいけないかも。

疑問や着眼は、「何を」であって、「誰か」ではない。なかには「誰か」を疑う人もいらっしゃると想定するけど、今のところお目にかかっていない。

これはぼくの視点や着眼にもあてはまる。他人のブログや意見、あるいはミーティングへ参加しているとき、視点や着眼が固定してしまっている。ぼくの写真を見て「ぼくが食べた」と判断するように、ぼくも誰かの文章や写真を見聞して、「行為の主体 = 書き手」と決めている。

こういった気づきは、とてもおもしろい。ぼくの場合、誰かと会話しないと気づかない。すぐれた頭脳の持ち主はこの気づきを、誰とも会話しなくても、自分の中で再生産できる、と想像する。視点や着眼の回路を設計する能力が優れていても、ひとつの回路しか設計できなければ、行為の変化は生まれない。結果、失敗を修正する効率や精度が低下する。

回路を設計する能力以外に磨かなければならない能力は、

  • 設計した回路へフィードバックする観察眼
  • 複数の回路を生産できる力
  • 複数の回路から得られる結果を蓄積できる記憶力と平常心

なのかなぁ、予想する。この予想を自分自身で体験してみて評価できないので凹

雪に都の西南、桜花無に消えりと瞳濡らし、今朝何故か目開きて震え 、身もにわかに熱を出し、床敷き夢去るは、死なむ友と虚し、春雨行きしこと、羊歯を常に河にも見える、不敵雨風、情け知らぬ身と、独り駅に向かう女、伊勢の子、闇に消ゆ

『虚空の逆マトリクス(INVERSE OF VOID MATRIX)』(講談社文庫) P.252

冒頭の引用文と同じく、発想を変えたとき、新たな意味を発見する。