費用に見合ってないと憤る前に

自宅の花

自分の仕事の価値を見定めることは非常に重要だ。原稿料がいくらか、印税がいくらか、そういうことをきちんと認識し、仕事の依頼があったら、最初に金額を話し合ってから仕事を受けるべきである。「お金の話をするのはいやらしい」というのは逆だ。そういうことを言う方がむしろいやらしい。原稿料が5万円なら5万円の価値があるものを作る、10万円なら10万円のものを出す。それがプロではないか。

MORI LOG ACADEMY 13 P.239

先日、相談を受けた時、この文章を思い出した。「自分の仕事の価値を見定める」ことが非常に重要であると同時に、「相手が見定めた仕事の価値を吟味する」ことも大切だと思った。

相談の内容は、一言で集約すれば、「費用に見合ったサービスを提供してくれない」だった。これはよくある話。と思いきや、「”高価” > “期待したサービス”」の話じゃなかった。まったく逆。「相談者の”支払金額” < “期待するサービス”」。支払金額が安い。にも反して、相談者が期待するサービスは、その金額じゃぁ実現されない(であろう)内容だった。相談者は憤っていた。

ぼくは耳を傾けた。傾ければ傾けるほど、頭の中が混乱した。なぜ、そんな理路をたどるのか。他の事象を参照したり、情報を収集していないのか。サービスに魔法を期待しているのか。次から次へと浮かぶ疑問。

高価と安価は主観だし、価格と価値は相対だ。だから、ぼくの言い分が正しいとは思わない。そう断ってから説明した。とにかく感情的にならず。抑制して。そして、善悪の価値を持ち出さないよう心がけた。

例えて、「北新地の一等地でワンコインで純国産の定食を求めるようなものだ」と、ぼくは話した。いや、メニューによっては実現できるかもしれないけど、それはさておき。

(輸入品がよくないとか激安は悪いなんて誰も言ってない)

よいわるいの判断に興味ない。「自分を疑え」とお願いした。

激安の定食を売りにしている店には、カラクリがある。人件費や仕入、設備投資や内装などなど。反対に、高価な料理を売りにしている店にもカラクリがある。物事を極端にとらえると、この2点しかない。

この2点の中に、それぞれの高価と安価がある。ただ、ある人が高価だと判定しても、他人はそうでもないと判定する。そのとき、相手の判定を疑わず、自分の判定をまず疑ってほしい。

判定は基準を求められる。自分の判定を疑うとき、他人の基準が必要だ。他人と書くと大袈裟かもしれない。要は自分以外のデータ。その基準は相対値。好悪を排除してデータを収集しないと、基準を発見できない。この「基準を発見する」作業が難しい。何かことある度に収集なんてしてられない。だから、絶対値を設定する、したい。しょうがない。そこで一点、注意を払わなければならない。ビジネスの場合、その絶対値は、自分の環境から影響を受けやすい。相談者もそうだった。

さっきの激安の定食屋さんで

  • 純国産の素材
  • 北新地の接客
  • 最高の店内

を求めるお客のようですよ、とぼくは理路をたどった。そして、想定していた質問を受けた。

「なんで”それ”に見合った金額を相手は請求してこないのでしょう?」

時計を見た。さぁ、どうやって終電に間に合わせて帰るか。この相談はロハだ。それに見合った回答とサービスを用意してぼくは帰らなければならない。