意味はそれを見る人それぞれの目の中にある

個人と同様、集団にも寿命がある。集団は、結成され、拡大し、分裂し、そしていつかは、たとえ外部からの攻撃がなくても、内部から崩壊する。そしてまた、新たな共同幻想にもとづいて再生したり、別の新たな集団がつくられたりするであろう。外敵の侵略はなかったのに滅亡した文明は多々あるが、それはその文明を支えていた共同幻想の崩壊のゆえであると考えられる。

『ものぐさ精神分析』 岸田 秀 P.67

意味はそれを見る人それぞれの目の中にある。あたりまえだけど、それを理解できているか、と自問すれば、理解どころか認知すらできていない、と自答する。

Kevin Carter

あまりにも有名な写真。撮影者はKevin Carter。写真を見る人それぞれの目の中に意味は存在する。人は目の中にある意味をパブリックへ投票し、結果、マジョリティが「意味」を支配する。この写真なら、強い批判だった。

『ものぐさ精神分析』を読んでいる途中なので、はやまった判断を下すかもと前置きして書く。共同幻想の意味を調べている。ニュアンスしかり。たとえば、正か負の意味合いか。あるいはプラスかマイナスか。そうとは違い、事象を観察して生みだした単語、それ以上以下でもないニュアンスか。この単語を造語するまで、思考の中はどんなセンテンスがあったのだろう。フレームをどうやって発明したのだろう。この一冊を読み終えたところでわからない、とぼくは予測する。というのも、共同幻想って学術用語であって、それを一般論の文脈へインストールしているので意味を理解できない。

“共同幻想”という4文字を分解して、辞書を引けば単語を確認できる。だけど、それは単語であって、標準化された解説だ。無限に広がる文脈のなかに登場する「単語」の「意味」を説明しない。無限の文脈を構成する単語は、一期一会をまとった意味の塊であって、同じ単語であっても文脈によって、それを見る人がそれぞれの目の中で意味を測定する。その意味まで辞書は説明してくれない。辞書の役割は、文脈の中に登場しない独立した単語を標準化して平均値を採用した事柄を説明することだ。

ぼくは辞書の中にある単語を使って、いったん標準化された説明を選択するけど、それらの集合は文脈を紡いで、辞書とは異なる意味を形成する。ただし、それはぼくの目の中に存在する意味を形成したにすぎない。問題は、その意味形成を伝えられるかどうか。

意味を形成するプロセスを他者が認識する。プロセスの認識はもっとも高度な技術を求め、もっとも鋭い感度を欲する。

Kevin Carterの写真を見たとき、自分の目の中にある意味を他者も保有している、と誤解してしまう。もし、その誤解が多数になれば、批判を手に入れ攻撃する。攻撃の対象はマイノリティや異なった意味を保有する人々。

写真に限らない。日常の生活にも適用できるだろう。ぼくの意味形成と隣人の意味形成は異なる。あたりまえだ。あたりまえを自覚してから意味形成のプロセスを開陳し、意味形成のプロセスを他者へ再認識してもらって、ぼくは相手の反応を探り、再び意味形成のプロセスへ還元させる。その時、顔は重要な役割を果たす。相手の顔を見て、ミスをはじめて知覚できる。自分の意味形成のプロセスを伝えられていない、というミス。

ただ、ぼくはそんなに忍耐強くない。意味形成のプロセスを開陳せず、自動巡航してしまうし、認識の努力を怠ってしまう。そして、間の悪いことにそれらの怠慢が相手にとって重要なシーンや切羽詰まった状況と重なるなんて機会もしばしば。それは感情の平行線を描き出す。

意味を形成するプロセスを根気よく伝える。それは、他者から承認を獲得する作業であり、ものごとを所与として扱ってよいのかどうかを問う、根本的な疑問を脳裏に孵化しなければならない。モノローグでは成立しない行為。