打ち手の小槌

琵琶湖

イデオロギーを論じあってみたところで、何になるのだろう? すべては、立証しうるかもしれないが、、またすべては反証しうるのだ。しかもこの種の論争は、人間の幸福を絶望に導くだけだ。それに人間は、いたるところぼくらの周囲で、同じ欲求を見せているのだ。

『人間の土地』 サン=テグジュペリ P.220

ある人がぼくのことを「打ち手の小槌」と評した。ある人はぼくから何かしらのヒントを引き出すらしい。ぼくは、何のことかさっぱりわからないし、心当たりもない。それに何をしゃべっているときにヒントを与えたのかなんてまったく検討もつかない。だけど、ある人はは打ち手の小槌を手にして自分をポカリと叩く。

自分を除いた他者の反応を予測できない。接する人すべての反応を常に予測してふるまうなんて、ぼくはできない。ましてやコントロールする気もない。否、できるはずない。推察すら難しい。だから、ぼくは自分だけに関心を向ける。せめて自分の一部だけでよいからコントロールしたい、と願う。

自分だけに関心を向けるとき、基準は自分の正しさではない。内側の正しさで自己を表現すると、周りから承認を得られない。正しさは自分の外側だ、と認識して、事実を観察する。観察のプロセスを分析して結論を導き出し、その結論から自分を評価する。そうすれば、導出された結論は自分の正しさと一致しないだろうし、それによって自分の正しさを修正しなければならない。次数を上げると、「正しさ」を吟味しなければならない機会と遭遇する。

他の人はどんなプロセスを所有しているか知らない。ぼくは自分で構築したこの回路を仕上げていくこと、そして導出の結論の精度を向上させること、それに関心を持つ。そのためには、他者の着眼と発想が必要なんだ。

ぼくが発言したりブログに書いた内容を、誰かが読んで喜怒哀楽を表現するだろう。怒らせるつもりはまったくないけど怒らせている。あるいは、傷つけるなんて考えもしないけど、傷つける。いたく傷つける。それを危惧するぼくが過去に存在した。危惧の原因(なんて後付でいい加減だし模造記憶にすぎない)は、他者の評価だったし、他者から嫌われたくない、という感情だった、と思う。

たぶん、今も傷づけている。今も怒らせている。そう理解して発言したり書くようになった。

それら他者の喜怒哀楽は着眼と発想をぼくへ与えてくれる。感情がもたらす着眼と発想だけじゃない。行動もそうだし、表情もだ。それらを見ていたい。感じられるか。

もっとも嫌われたくない人から愛想を尽かされたとき、ぼくの感情から「嫌われる」が欠落した。