認識を認識できるか?

lake BIWA

世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

『自由論』 J.S. ミル P.132

『12モンキーズ』Madeleine Stowe が上司を批判するシーンがある。

「精神科医は現代の宗教家ね 何が正気で何が狂気かを私たちが裁く」

大多数の人が受け入れてることが真実なのか?と問いただす。形而上へ逝きたくない。下界で充分。なのに突き刺さる言葉。

言葉遊びも必要だ。独創的でないぼくが、「独創性がぼくへ何をもたらすか」を理解できれば、それはもう独創性でない。効用を関知できないから、大多数の人は受け入れられず、時に狂気とレッテルを貼る。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country.

John F. Kennedy Inaugural Address – January 20, 1961

大多数の人が知ってる。大多数の人が受け入れている(、か?) そして、大多数の人が実行している(、か?)

罵る。コミュニケーションなんてクソだ。コミュニケーションが蔓延り、意味を理解してもらえなければ烙印を押される。それが恐い。ゆえに大多数の人が知っていて受け入れる真実を実行できないでいる。

コミュニケーションで伝わるのか? コミュニケーションで受け止められるのか? コミュニケーションが革命をもたらすのか?

表情の読み方HOWTO本を読んでそのとおり対応できたから相手を理解したと喜ぶ。正しい言葉使いHOWTO本を読んで相手に伝わったと安堵する。論理的な文章HOWTO本を学び書けたとほくそ笑む。それが、ヒトに与えられた能力か。そんな矮小な動作に、ぼくは一喜一憂している。

言葉は伝達を担っている。言葉で伝えられないなら、自分の言葉の質量を疑え。相手を恨むより自分の低能を憎め。自分の思考を疑え。言葉を獲得しよう。言葉だけで足りないなんて言い訳。そして、言葉で語っても語っても語り尽くせぬ絶望の先にようやく”無言”の表現がある。無言は無限。無言に希望を発見した躰は「表現」する。

言葉を獲得していないぼくが感情を読もうと企む。その行為は愚。躰が「表現」しようと試みるなんて笑止千万。言葉に絶望してからだ。まだ希望のとば口にも立ってない。