頭と頭脳

紫陽花

何が不思議といって、私に最も不思議なのは、人が、不思議なことを不思議と思わないことである。わからないことを「わからない」とわからないことである。わからないことを「わからない」とわかっていないから、わからないことをわかろうとして、わからなくなっているのだ。哲学的に考えていないからである。「無知の知」が哲学の起点とはソクラテスの言だが、頭があるなら誰でもできることのはずである。

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 池田 晶子 P.83

ヒトは経験や記憶、知識を自分の内に閉じ込めず、外へ置く。言葉が生まれる前、それらをどうやって外へ置いたのか知らない。わかりたいけど、「わからない」をぼくは認識していない。よって、何処に「仕方」があるのかを発見できない。

世界に言葉が生まれた後、ヒトがビジュアライズな記号を獲得できた後、それらを外へ置いた。口承、絵画、書物など。そして、ヒトは科学と技術と宗教を賜った。印刷はそれを爆発的に普及させた。それでも「外」へアクセスして思考できた人は限られていた。それらの人たちが、(限定された意味の)単語を駆使してそれを共有した。言語から紡がれた思考は、正反合を繰り返し一意に到達しようと絶望した。停滞と進歩。

10数年前、WWWが「外」に加わった。WWWを与えられた「内」は、WWWへ経験や記憶、知識を置いた。数MBのそれは、やがてTBをゆうに超え、無限へ疾走している。

WWWは検索を手に入れ、標準化と個別化の分類を学習して両者を構造化した。結果、情報の定義が書き換えられようとしている、とぼくは思う。

内から外へ蓄積された「標準」と「個別」の属性を持つ構造化された情報は誰もがカンタンにアクセスできる。「外」へアクセスして思考できた人は解放された。誰もが思考を手に入れた。結果、「わからないことを「わからない」とわかっていない」人たちは「わからない」を吟味せずに情報を入出力する。

正反合なんてくそくらえ。オレが言いたいことを言い、批判したいことを罵り、我慢できなければ罵詈雑言を浴びせる。「合」はない。一意へ中指突き立てる。絶望から希望へ。

希望を体感した人は、表現を手に入れ多様性と個性という幻想を構築した。ヒトが人とは違うことにエロスを感じ、礼賛した。多様性と個性は、人が「外」へ置いた情報を秘匿し法律も制定した。そして、つながりたくてもつながれない状況を自ら作り出し引き替えに病を心にインストールした。つながりたいならWWWへおいで。この指とまればSNSがあるさ。

「わからない」ことを認識できる類い希な能力をヒトは放棄して、「わかること」へ突進する。「わかる」はギャップを生みだし、ヒトはギャップに驚く。

個性が解釈した。多様性が思考した。オレがオレ流にふるまって何が悪い。ぼくは、はした金を払うからその数十倍のサービスをおくれ。でないと、WWWへクレームというクールな情報を置くよ。

頭は「わかる」へハンドルを切り、単語を減らすよう心がけ、カンタンがモットーだ。頭脳は「わからない」を彷徨い、単語を発見しようと苦しみ、孤独がモットーだ。

頭と頭脳。