余計なお世話を焼けば焦がしかねない

サンパチェンス

外界の知識(情報)と頭の中の知識(情報)は、どちらも私たちの日常の活動にとって本質的な役割を果たしている。しかし、そのどちらの方をより重視するかは、ある程度は私たちが選択することができる。しかしこの選択にはトレードオフがつきまとう。すなわち、外界に知識を置くということの利点を使おうと思えば、頭の中に知識を置くことの利点が失われる。

『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン P.128

できる/できないだけで言い表すなら、絶妙なトレードオフ、トレードオフのコントロールが巧みな人をできる、と判断している。じゃぁ、できないはというと難しい。天秤の皿が「頭の中の知識」に傾くと頑固、「外界の知識」に傾けば無用の長物だし。

このブログのように無用の長物でとどまればよいけど、有害になれば始末に負えない。どういう場合か? 「外界の知識」は学習を必要としない。解釈が学習の代わりとなる。ところが解釈はやっかいだ。解釈は一義じゃない、なんてのは意味不明な釈明であって、解釈は時間・場所・場合に依存する、と考える。

「昨日なんで帰った?」と問いかけて

「自転車で」と答える

一つの応答だけど、相手は理由を訊ねているとしたら的が外れている。にもかかわらず、こんなふうに解釈している。特に外界の知識に依存すると、陥穽にはまる傾向が高い、と自己観察している。

外界の知識に依存してしまう理由を分析すると、解答はシンプル。学習が嫌い。頭の中にある知識は検索できないし、体系化されていない。構造化されていない。現象を認識したいから頭の中の知識を使う時、使い勝手が悪い。そもそも自分の頭なのに理解していない。

現象を認識できず、解決しなければならない危機感に煽られ、本屋へ走り、ビジネスコーナへ駆け寄り、外界の知識を手に入れる。そのシチュエーションがまずいと指摘するのではなく、解釈のプロセスが拙い。鵜呑み。外界の知識を解釈したいなら、時間・場所・場合をシミュレーションする仕方を学習しなければならない。

解釈を積み重ねる行為が学習じゃない。外界の知識をひたすら鵜呑みしても仕方を体得できないし、解釈の幅すら広がらない。

鵜呑みするから時間・場所・場合を測定できずに、自分のバカを披露するハメになる。結果、自分の解釈が相手に伝わらず、また相手からはきてれつな視線を浴び、微妙な雰囲気を醸し出す能力だけが磨かれる。まぁ、それも成果だ。何が悪いと開き直れば何も悪くない。

自分を観察していると自分が好き、と認識できる。かたややっかいだと理解できる。なぜなら、自分はバカだと気づくことが最も難しいから。そして気づいたときの恥と向きあわないといけないから。

ならば、いっそう気づかないほうが得策かもしれない、気づかせないほうが波風も立たない。とはいえ、気づくを定義しないうちから自分のバカに気づく、と書くことが愚かで鈍感だ。それがヒトへの最大の攻撃である。