ためらわない倫理

琵琶湖

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。

『ためらいの倫理学―戦争・性・物語』 内田 樹 P.42

僕が数週間前に書いた文章を読んで、そんなことを書いたなと思い出し、数ヶ月前に書いた文章を読んで、そんなこと書いたかなと小首を傾げ、数年前に書いた文章を読んで赤面する。バカと出会った。

まるでブロンクス動物園の鏡の間みたい。”THE MOST DANGEROUS ANIMAL IN THE WORLD”と書かれた看板。檻の中をのぞくと自分が映し出される。ウソかホントか知らない。ブロンクス動物園へ行った人へ聞いてみたい。

数年前の自分の文章を読んでバカと出会って赤面。そして、数年前に書いてある文章と今の文章を読み比べて変わっていない脈絡に出会って赤面。成長していない自分、変化のない自分、固着した自分との出会い。

なんとなく混沌。自分が書いた文章は、目の前に現れた時点で他者なんだなぁ。そう混乱してきた。だけど、書かれたことのすべてには、それを書いた誰かがいる。

誰か、は自分。羞恥。