自己満足充足知足

ロベリア

非言語的コミュニケーションのシステムのなかで現れる指標は、話し言葉で現われる音の要素のように、それ自体切り離されては意味をもたない。意味をもつのは関係する項の集合の各項としてである。記号や象徴が意味を獲得するのは、他の対立する記号や象徴から区別され対照されるときだけである。

『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』 エドマンド・リーチ P.103

自己満足に陥る、それをネガティブに受け取らない。いかなる満足であれ、自分が満足した瞬間、その質感の起源を辿る試行を自分自身が所有していればよい、と僕は思う。それが大切だ。満足は計測できない。他者の満足はおよそ統制できない。自分”以外”は何に満足してるのか。無言で満足する人やダブルバインドの人もいる。額面どおり受け取ってよいのかどうかわからない。

他者が発信する非言語的信号を受信したい。だけど、それに囚われると、コミュニケーションの呪縛が待っている。頭でっかち。「コミュニケーション」という単語を駆使して問題を考える。単語を使っているだけ。あっ、そうか、「コミュニケーション」を使って問題を解決しているような自己満足か 😛
コミュニケーションを解体するとば口にいつまでも立てない。

僕はなぜ満足するのだろう。何に満足するのだろう。どうして満足するのだろう。それだけ考える。別々の具体的事象を水平思考して、抽象化させる。共通項を書き出す。マインドマップを作成したり、キーワードを羅列したり。「自己満足」の認知を遡る。今、ひとつだけ自己評価している。それは、基本。基本を探求する人や組織と出会えば、僕は満足している(らしい)。

他方、「基本」の探求を止めてしまった人や組織に出会うと、自己嫌悪に陥る。なぜ自己嫌悪に陥るのか?

自分が満足するのは、(自分が算出した)期待値と(自分が認識した)現場が等値、あるいは、期待値<現場を指す。ならば、期待値>現場は、僕を満足させない。ところが、認識したのは、僕だから、「自分の見る目がなかった」わけ。だから自己嫌悪に陥る。

「自分の見る目がなかった」の意味は2つある。

  1. 外連味に誘惑された
  2. 価値を見抜けなかった

1.の場合、対象が基本を疎かにしていると、外連味に走る傾向が強い、と僕は観察している。それに惹かれてしまった自分を責める。基本を見定められなかったことが悔しい。

2.の場合、対象が理解の外側に存在すると、起こる。対象が素晴らしすぎて、僕の期待値では測定できず、価値を見抜けない。自分の底の浅さを理解する。

ジョン・スチュアート・ミルの言葉、「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(功利主義第二章)を噛みしめる。僕は、満足したいために、自分の中に不満足を作る。

ただ一つ不思議な自己満足がある。それは衝動買いしたときの自分を慰める言い訳。あの言い訳を考えついたときの「満足」は表現できない。まるで、あの「満足」を感じるために衝動買いしたみたい。本末転倒 😀

知足なんてほど遠いな 😆