ぼくらは世界の「空間」[客観的・外在的な]を見るわけじゃない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。疑いの余地なく、これからのページをつうじて見いだしてゆくように、われわれはたしかにひとつの世界を体験しつつある。だが、この<世界>のことをいったいどんなふうにして知るようになったのだったかを詳しく検討していみるとき、この世界の<見え方>と、ぼくら自身の<アクションの歴史>———-生物学的および社会学的———-を切り離すことはできないということが、かならずわかるだろう。それはあまりにも明白で身近なので、とても見えにくくなっていることだ。
ファインダから花をのぞく。FA77mmが捉える。等倍のマクロレンズで撮影すると、どんな世界が見えるのだろう。マクロレンズで撮影した花を写真サイトで眺める。それと実際のファインダの花は違うんだろうなぁ。
<見え方>はおもしろい。この写真もそう。今ご覧いただいている smile yellow の色は黄色。だけど、僕が見ている黄色と違う。ディスプレイはそんなに優秀じゃない。これにいつも悩まされる。ウェブサイトのページで採用した色とクライアント先の色が微妙に違う。その微妙が違和感を生む。
色は期待される。期待値が高ければ高いほど、手にしたときの色”合い”が異なれば、後悔する。後悔ですめばいいけど、ヒトによってはクレームをつける。
だから、「写真の色と実際の商品の色は異なります」と注釈を入れる。入れるけど、やっぱり<見え方>どおりにしか見えないからそれを期待してボタンを押す。
ユーザの購買プロセスをリフレクションしている運営者は、写真と実物のズレを減らそうと苦心。その苦心のあとが写真に残っている。わかるときがある。僕でさえわかるのだから、見る人が見れば一目瞭然
照明, 角度, 寄り具合, 色調補正, 構図, 立体感。
花を撮影していると、時がはやい。先に枯れた二つの花。今から咲こうとする花。差異を味わう。それをファインダからのぞき切り取れるかどうか、切り取れなければ自分の腕と感性を疑う。
撮影のモノローグを作用がダイアローグに転換する。それがまた楽しい。
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