結界が決壊して陥穽が待っている

奈良町屋のカフェ

鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになって下さい」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣たちを呼んで、鹿、馬のどちらかであるかを尋ねてみて下さい」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく呼んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります(『太平記』巻二六)。

『獄中記』 佐藤 優 P.280

SOU・SOUへ行くと、「感性と感情を教育できるのか?」と疑問をいつも抱く。スタッフは心がはりつめている感じかなと僕は受け止める。けれど、決して居心地の悪い「心のはりつめている感じ」じゃない。むしろ、とても居心地がよい。なれ合わず、僕との会話が弾みかけると、他の客を配慮しておしゃべりをひかえる。そのふるまいが伝わってくるから僕も馬鹿騒ぎしない。しっとりした空間とゆったりした佇まい。

余計な一言がない。どこまでしゃべり、どこを抑えるか。それをスタッフが意識していると推察する。すべてを語り尽くさず、最小限にとどめ、あとは商品へゆだねる。商品を手に取る僕の感覚へまかせる。商品への自負がそうさせるのか? 疑問はつきない。

SOU・SOUの商品は尖っている。和のテイストで尖っていると表現するのはおかしい。それでも尖っている、と僕は思う。「我」をはっていない。デザイナを含め他ジャンルと共同作業している。他ジャンルとの融和、そして「シンプル」が商品を尖らせている。ブランド化。

一律の教育システムがあるならば、導き出されるふるまいは同一となる。効率を追求するチェーン店はそのシステムを採用する。当然。SOU・SOUはそうなのか(笑)

違う。差異がある。だけど、共通がある。素敵。バラバラにならず、ふるまいは似通っている。他方、微小な差異を含み、それぞれの感情と感性が調和されている。会社からコンセプトが提示され、それからズレないような接客の「仕方」を学ぶのか。違うような。あとは当人の感情と感性にゆだねるのか。推量の限界だ。あてもない愚の質問が浮かび上がっては消えてゆく。

しっとりした空間とゆったりした佇まいであっても、同じ調子のスタッフばかりいる店もある。まるで調教されたような口調と仕草。ASIMOもプログラムすればこうなるな、と僕は考える。

「心を常にはりつめる」という意味。それは自分への負荷。その負荷が苦渋なれば、周りの空間とと調整できず、他者を威圧する。丁寧に応じているようで粗雑。その攻撃は時に不快を招き、知らず知らずに他者は去っていく。負荷を苦渋とせず、修養とできるかどうか。

テキストにすればカンタンだ。行動は難しい。それは、自己言及の矛盾を意見してもらえるかどうか。結界を開いて、時に閉じる。そのタイミングを知覚したい。