The known the unknown 奇智

カレー

情報については、同一性に関する心配はない。どこまで行っても、それ自体は固定しているからである。ところが固定しているものは、定義によって、なにも生み出すはずがない。つまり情報を生み出すのは、生きて動いている実体であるほかはない。だから細胞-遺伝子、脳-言葉なのである。原子が素粒子に分解していったのも、同じ理由であろう。
原子のままで固定していたのでは、変化が生じえないからである。究極の粒子は、もしあるとすれば、情報か実体か。むろんそれは情報であるほかはない。実体なら変化してしまうからである。変化したら究極の粒子にならない。しかしそうした究極の粒子は、おそらくなにも生み出さないであろう。だから究極の還元論は成立しない。私はそう信じている。

“養老孟司の人間科学講義 (ちくま学芸文庫)” (養老 孟司) P.78

スーパで販売されている商品の期限を付け替える行為。昔、『スーパーの女』で観た。シールの日付を変更してパックし直す。リパックというらしい。フィクションかノンフィクションか知らないけど、ウェブサイトへ置換すると養老孟司先生の引用を体感できる。

先生によると、「情報は変わるけど俺は俺」と思う人がいるとの由。情報は変わらない。インターネットは玉石混淆と揶揄される。僕は玉を見つけるとインターネットの凄さを実感する。それは、自分だけの玉だけど、IE4.0時代から存在していたりする。情報はまったくかわっていない。見場はダサイかもしれない。僕には瑣末なこと。

見場(デザインじゃない)がよくないと、視認性が低下するし、先入観が読解を排除する。手はページの「戻る」ボタンへ。それをなるべく減らすために見場を整える、肝要だ。

だけど、見場に拘泥するのは愚かだ、と僕は思う。たとえ最新な話題でも、つまらなければ読まない。まるでスーパのリパックみたい。コンテンツが深厚であれば、見場に拘泥しないだろう。むしろ導線や誘導、機能、ドメインの概念など、「デザイン」を悩む。デザインを洗練する。

実体を情報へ変容させる発想と視点、そして技術が問われている。視点・発想・技術を涵養している人は見場よりもデザインの疑問を僕へ投げかける。その疑問は僕を感嘆させる。すごい。

ウェブサイトのリパックをやっていても平気な人はいる。情報は変わると思っているからリパックできるのだろう。だけど変わらない。変えようとするのは、変化と固定を同時に果たす実体だ。変化しつつ固定する自分。

固定した情報を体内に取り込み代謝させる。そして、また情報を排出する。インプットとアウトプットのシステム。そのシステムは、視点・発想・技術という要素から構成されていて同一。固定されている。固定の精度を向上させなければならないけど。アウトプットは変化する。「変わりつつ固定する」を循環させて漸進する。

昨日、裏サイトでコメントをいただいた。思い込みは重大な危機を招く。自戒。

The know must be separated from the unknown.